婚約破棄?これからは、推しの殿下のトップオタクとして生きていきますわ!

黒猫かの

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「……なあ、セバス。あいつは一体、どこを見ているんだ?」

 学園の廊下、放課後の黄昏時。
 ヴィルフリート殿下は、壁際に控えていたセバスを捕まえて、切実な声を漏らしました。

 殿下の視線の先には、庭園の木陰で一心不乱に地面を這いつくばるメメルの姿。
 彼女は虫眼鏡を手に、地面の土を真剣な表情で観察しています。

「恐れながら殿下。お嬢様は現在、『殿下の踏みしめた大地の標本化』という極めて神聖な作業に従事しております。本日の殿下の歩幅、および土踏まわりの加圧状況から、殿下の疲労度を算出するつもりだそうです」

「土で私の体調を占うな! 医者を呼べ、医者を! ……そうじゃない、私が言いたいのはそういうことではないんだ」

 殿下は苛立たしげに自身の前髪を掻き上げました。
 その仕草さえ、メメルが遠くで「ああっ、前髪の乱れ角度が黄金比!」と叫びながらスケッチしているのが分かります。

「……以前のあいつは、もっとこう……私の目を見ていた。私が話をすれば頬を染め、私が見つめれば恥じらっていたはずだ。……いや、ストーカーまがいの行動は当時からあったが、それでも視線には『私という個人への愛』があった気がする」

「ほう。と言いますと?」

「今のあいつの目は、私を見ていない。私という『現象』を、あるいは私という『素材』を観察しているだけだ。……まるで、珍しい魔物を観察する学者のような目だ。私がどんなに格好をつけても、どんなに冷たくあしらっても、あいつは『今日の冷たさは塩分濃度が高めで最高ですわ!』などと言って喜ぶだけで、一向に私と対話しようとしない!」

 ヴィルフリート殿下は、自分の感情の正体が分からず、ただただもどかしさに胸をかき乱されていました。

 婚約を破棄すれば、あの重苦しい愛から解放されると思っていた。
 付きまとわれるストレスから、自由になれると思っていた。

 しかし、いざ「婚約者」という肩書きを失ったメメルは、彼を「男」として見ることをやめ、完全に「神棚に飾る御神体」として扱い始めたのです。

「……さっきもそうだ。廊下ですれ違った際、私はあえてリリアンの肩を抱いて見せた。あいつが嫉妬に狂い、私に縋り付いてくると思ったからだ」

「お嬢様の反応はいかがでしたか?」

「……『殿下の左肩の可動域が、リリアンさんの身長に合わせて最適化されている! これぞ、慈愛の包容フォーム!』と叫んで、リリアンに感謝状を渡そうとしていた」

 セバスは、思わず口元を押さえて横を向きました。

「……笑ったか? 今、セバス、貴様笑っただろう!」

「いえ、滅相もございません。お嬢様の『解釈』が一段と深まっていることに、感銘を受けただけでございます」

「ふざけるな! 私は……私は、あいつに怒ってほしいんだ! 泣いてほしいんだ! 『私以外の女を見ないで』と、あの傲慢な態度で迫ってきてほしいんだ! ……なのに、あいつときたら、私がリリアンと親しくすればするほど、『供給ありがとうございます!』と言って喜ぶ。……これではまるで、私がリリアンを使ってあいつを喜ばせているみたいじゃないか!」

 その通りです。
 ヴィルフリート殿下、あなたは今、メメルという名のトップオタクにとっての「最高のコンテンツ提供者」になり下がっているのです。

「……殿下。一つ、よろしいでしょうか」

「何だ。もうこれ以上、私の心を折るようなことは言うなよ」

「お嬢様は、今の生活を『人生の絶頂』だとおっしゃっております。婚約者という立場では、殿下のプライベートを尊重しなければならず、欲望にブレーキをかけていた。しかし今は、ただの赤の他人。だからこそ、全力で、魂を込めて、殿下という偶像を崇拝できるのだと」

「……あいつ、私のことを人間だと思っていないのか?」

「『人間を超越した、歩く芸術品』だそうです」

 殿下は、力なく壁に背を預けました。
 
 かつて、自分を熱烈に愛していたはずの少女。
 その情熱は、今や「恋愛」という枠組みを超え、一種の「宗教」へと昇華されてしまった。

 自分に向けられる巨大なエネルギーは変わらないのに、その質が決定的に変わってしまったこと。
 それは、ヴィルフリート殿下にとって、婚約破棄を突きつけた時以上の衝撃でした。

「……嫌だ。そんなのは嫌だ」

「殿下?」

「私は、あいつの『推し』になりたいわけじゃない! あいつの……あいつの、何だ、その……もっとこう、生身の感情を向けられたいんだ!」

「おや。それはつまり、再婚約をご希望ということで?」

「ち、違う! そうじゃない! ただ、あいつのあの、私を無視して土をいじる姿が……無性に腹が立つと言っているんだ!」

 殿下はそう叫ぶと、庭園へと駆け出しました。
 土をいじっているメメルのもとへ。

「おい、メメル! 貴様、いつまで土を見ている! 私を見ろ! ここに本物がいるだろうが!」

 メメルは、ゆっくりと顔を上げました。
 その瞳には、かつてのような「恋する乙女の熱」ではなく、ただひたすらに「推しが喋っている」という事実を噛みしめる、聖者のような輝きがありました。

「……殿下。そんなに大声を出すと、喉の粘膜が乾燥してしまいますわ。さあ、こちらに特製の『殿下の声帯を守るためのハーブ水』がございます。どうぞ、私のことは気にせず、その高貴な喉を潤してくださいませ」

「……そういうことじゃないんだよおおおおお!」

 殿下の絶叫が、再び夕暮れの学園に響き渡りました。
 メメルは、その絶叫さえも「Fスケールの音域が完璧……!」と、手帳にメモするのでした。

 ヴィルフリート殿下の受難は、まだ始まったばかりです。
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