婚約破棄、取り消せませんわよ?

黒猫かの

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「……非効率です。非効率すぎて吐き気がしますわ」

北の辺境、清々しい朝の空気の中、ネリネの不機嫌な声が響いた。

彼女が立っているのは、屋敷の裏手にある練兵場だ。

そこでは、昨日掃除をさせられた騎士たちが、上半身裸で汗を流しながら朝の訓練に励んでいる。

一見すると、勇猛で美しい光景だ。

だが、ネリネの目には「資源の無駄遣い」にしか映っていなかった。

「うおおおおッ! 根性ぉぉぉッ!!」

「気合だぁぁぁッ!!」

騎士たちは、自分より大きな丸太を抱え、ただひたすらに走り回ったり、互いに怒鳴り合いながらスクワットを繰り返している。

「あの、シリウス様」

ネリネは隣にいる辺境伯を見上げた。

シリウスは腕組みをして、満足げに部下たちを眺めている。

「なんだ。活気があっていいだろう? 北の冬を越すには、これくらいの熱量が必要なんだ」

「熱量? いいえ、あれはただのカロリーの浪費です」

ネリネはバサリと扇子を開いた。

「具体的な数値目標もなく、負荷の計算もせず、ただ闇雲に体を動かす……。あれでは筋肉が破壊されるだけで、効率的な筋肥大は見込めません。それに、見てください、あの騎士団長を」

ネリネが指差した先には、一際大柄な男がいた。

副団長のボルグだ。

彼は大声を張り上げながら、部下のお尻を木の棒で叩いている。

「走れ走れぇ! 足が止まってるぞ! 死ぬ気で動け! 死んでも動け!」

「……前時代的ですわ。精神論だけで肉体の限界を超えられるなら、医療はいりません」

ネリネはスタスタと練兵場へ歩き出した。

「お、おいネリネ! 訓練の邪魔をするな。ボルグは気難しいぞ」

シリウスが止めるのも聞かず、ネリネは戦場の真ん中へと進んでいく。

その姿は、猛獣の檻に入り込む調教師のように堂々としていた。

「そこまで!!」

ネリネの凛とした声が通る。

騎士たちの動きが止まった。

ボルグが振り返り、眉間に深い皺を寄せる。

「ああん? なんだ嬢ちゃん。昨日は掃除を手伝ってくれたから感謝してるが、ここは男の神聖な職場だ。すっこんでろ」

ボルグは、いかにも「現場叩き上げ」といった風貌の荒くれ者だ。

ネリネのような華奢な令嬢が最も嫌いなタイプだろう。

だが、ネリネは怯むどころか、冷ややかな視線でボルグを見下ろした(身長差はあるが、態度で)。

「神聖? いいえ、ここは『非効率の博覧会』会場に見えますわ」

「なっ……なんだと!?」

「貴方の指導方針です。さきほどから聞いていれば、『気合』『根性』『死ぬ気で』……語彙力が貧困すぎます。具体的な動作指示が一つもありません」

ネリネは扇子でボルグの胸板を指す。

「いいですか? 筋肉とは、適切な負荷と栄養、そして休息によって作られるものです。貴方のやり方は、ただ疲労を蓄積させ、怪我のリスクを高めているだけ。部下を壊すのが趣味なのですか?」

「き、貴様ぁ……! 俺たちのやり方を否定する気か! 北の騎士団はこうやって強くなってきたんだ!」

ボルグが怒鳴り、唾を飛ばす。

「戦場で理屈が通じるか! 最後に物を言うのは気合なんだよ!」

「違います。最後に物を言うのは『生存率』です」

ネリネは即答した。

「気合で矢は防げません。根性で出血は止まりません。必要なのは、最小のエネルギーで最大の戦果を上げる技術と、冷静な判断力です。貴方のような脳筋指揮官の下では、兵士たちが犬死にするだけですわ!」

「ぶ、無礼なッ! ならば貴様に何が分かる! 剣も握ったことのない女に!」

ボルグが激昂し、近くにあった木刀を放り投げた。

「拾え! 俺と立ち合ってみろ! その減らず口、実力でねじ伏せてやる!」

周囲の騎士たちがざわめく。

「おい、ボルグさん本気か?」

「相手は女の子だぞ……」

シリウスが止めに入ろうとした時、ネリネは優雅に木刀を拾い上げた。

「……野蛮ですね。ですが、言葉で理解できないなら、データ(実体験)で示すしかありませんか」

ネリネは木刀をだらりと下げ、構えすら取らない。

「かかってらっしゃい。ただし、私が勝ったら、今日から訓練メニューは全て私が作成します」

「はんッ! 後悔するなよ!」

ボルグが大剣(刃引きしたもの)を構え、突進してきた。

その迫力は岩をも砕く勢いだ。

「うおおおおッ!」

大上段からの振り下ろし。

直撃すれば骨が砕ける一撃。

だが、ネリネは動かない。

剣が鼻先に迫ったその瞬間。

彼女は半歩、左前に足を踏み出した。

「角度が甘い」

木刀の先を、ボルグの手首の関節に軽く当てる。

そして、相手の突進してくる勢いを利用し、クルリと体を回転させながら足を引っかけた。

「重心が高すぎます」

ドォォォォォン!!!

ボルグの巨体が、派手に宙を舞い、地面に叩きつけられた。

砂煙が舞う。

何が起きたのか、誰にも見えなかった。

ただ、ネリネが扇子を開き、倒れたボルグを見下ろしている姿だけがあった。

「ぐ、がぁ……っ!?」

「力任せに振るから、隙ができるのです。貴方のスイングは、エネルギーの三割を『空気を切る音』に浪費しています。もっとコンパクトに、最短距離で振りなさい」

シーン……。

練兵場が静まり返る。

あの鬼の副団長が、一瞬で転がされた。

「……す、すげぇ」

誰かが呟いた。

ネリネは木刀を放り投げ、髪をかき上げる。

「理解しましたか? これが『効率』です。無駄な筋肉をつけるより、物理法則を味方につけた方が強いのです」

ボルグはよろよろと起き上がり、信じられないものを見る目でネリネを見た。

屈辱に顔を歪めるかと思いきや。

その頬は、ほんのりと赤らんでいた。

「……あ、姉さん」

「はい?」

「い、いや……ネリネ様! 参りました!」

ボルグはその場で土下座をした。

「俺が間違ってました! あんたの言う通りだ! 俺の剣は無駄だらけだった! 今の投げ技、シビれました!」

「……はあ」

「どうか! どうか俺たちにご指導を! 効率的な殺り方……いや、戦い方を教えてください!」

他の騎士たちも、次々とその場に跪く。

「お願いします、姉さん!」

「俺たちもっと強くなりたいっす!」

「罵ってください! いや、指導してください!」

ネリネは呆気にとられた。

ここの騎士たちは、どうやら強さ(と強気な女性)に対して極めて従順らしい。

「……やれやれ。手間のかかる生徒たちですこと」

ネリネはため息をつきつつも、悪い気はしなかった。

素直な人材は、成長が早いからだ。

「分かりました。では、直ちにその非効率な丸太を捨てなさい。これより、私が考案した『ネリネ式・超効率ブートキャンプ』を開始します」

「イエッサー!!」

「まずは座学です。筋肉の構造と、栄養学について講義します。ノートとペンを用意なさい!」

「えっ、勉強……?」

「不服ですか?」

ネリネが扇子でバシッと手のひらを叩くと、騎士たちは慌てて走り出した。

「やります! やらせてください!」

その様子を遠くから見ていたシリウスは、ポツリと呟いた。

「……ボルグがあんなに素直になるなんて」

彼は少しだけ、自分の立場が危うくなっているような危機感を覚えた。

だが同時に、部下たちが今までになく生き生きとした目をしていることに、安堵もしていた。

「まあ、いいか。強くなるなら」

しかし、その安心も束の間。

ネリネがシリウスの方を振り返り、ニッコリと微笑んだ。

「シリウス様? 貴方もですわよ?」

「……え?」

「貴方の剣技は素晴らしいですが、食生活が偏っています。昨晩も野菜を残していましたね? 領主が不健康では示しがつきません。貴方も講義に参加してください」

「い、いや、俺は書類仕事が……」

「却下します。書類仕事の効率化については、後ほどたっぷりと指導しますので、今は体を整えるのが先決です。さあ、座って!」

「…………はい」

こうして、北の最強騎士団、およびその長である辺境伯は、一人の悪役令嬢によって完全に管理下に置かれることとなった。

青空の下、大の男たちが地面に体育座りをし、ドレス姿の令嬢が黒板(携帯用)を使って「タンパク質とは何か」を熱弁する。

そのシュールな光景は、後に辺境の伝説として語り継がれることになる。
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