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「ナギー・ベルシュタイン! 貴様との婚約を、この場で破棄する!」
王宮の大広間。
きらびやかなシャンデリアの下、数百人の貴族たちが息を呑む音が重なった。
音楽隊の演奏がピタリと止まる。
グラスのカチャンという小さな音さえも、この静寂の中では爆音のように響いた。
その中心で、この国の第一王子クラークが高らかに宣言していた。
金髪碧眼、絵本から抜け出してきたような美貌の王子。
その隣には、小動物のように震える桃色髪の少女、ミルキー男爵令嬢が寄り添っている。
対する私は、濃紺のドレスに身を包み、扇子も持たずに直立不動。
表情筋一つ動かさず、ただまっすぐに王子を見据えていた。
周囲からは「可哀想に」「やはり悪役令嬢の噂は本当だったのか」「これからどうなる」といった、憐れみと好奇の視線が突き刺さる。
しかし。
私の内心は、まったく別の感情で埋め尽くされていた。
(……え? 今、なんて言いました?)
私は思わず自分の耳を疑う。
婚約破棄。
その四文字が脳内で反響し、やがて極彩色のファンファーレへと変わっていく。
(婚約破棄……つまり、クビってことですよね?)
ドクン、と心臓が早鐘を打つ。
それは悲しみでも絶望でもない。
純度一〇〇パーセントの、歓喜。
私は扇子で口元を隠すふりをして、こみ上げる笑いを必死に噛み殺した。
(やった……! やったわ! ついにこのブラック労働から解放されるのね!)
思い返せば十年前。
王命により婚約者となって以来、私の人生は「王子の尻拭い」という名の地獄だった。
クラーク王子が読み飛ばした書類の決裁、彼が予算オーバーさせた事業の赤字補填、外交問題になりかけた失言の火消し。
睡眠時間は一日三時間。
肌荒れは化粧で隠し、クマは眼鏡で誤魔化し、カフェインという名の劇薬を血管に流し込んで耐え抜いてきた日々。
それが今、終わろうとしているのだ。
私はスッと右手を挙げた。
「殿下」
「なんだ、今さら泣いて許しを乞うても無駄だぞ!」
クラーク王子が勝ち誇ったように鼻を鳴らす。
私は極めて冷静に、事務的なトーンで告げた。
「確認させていただきます。ただいまの『婚約破棄』というご発言、王命としての効力を持つ正式な通達と受け取ってよろしいのでしょうか?」
「は……?」
王子がポカンと口を開ける。
周囲の貴族たちも、予想外の反応にざわめきだした。
通常、ここでは泣き崩れるか、怒り狂うのがセオリーだ。
だが私にそんな暇はない。
この言質(げんち)を取り消される前に、法的拘束力のある既成事実にしなければならないのだ。
「聞こえませんでしたか殿下。私は、この婚約破棄が確定事項なのかと伺っております」
一歩踏み出す。
ヒールがカツンと床を鳴らす。
王子がたじろいだ。
「あ、ああ! そうだ! これは決定事項だ! 父上……国王陛下にもすでに了承を得ている!」
「なんと! 陛下のご承認済みとは!」
私は心の中でガッツポーズをした。
国王陛下、ありがとうございます。
あの方も私の激務ぶりを知っていたはずなのに、どういう風の吹き回しか。
いや、理由はなんでもいい。
結果がすべてだ。
「承知いたしました。では、直ちに手続きに入らせていただきます」
私は懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
常に携帯している『緊急時用・全権委任状および契約解除合意書』の雛形だ。
こういう時のために準備しておいて本当によかった。
「……な、なんだそれは」
「書類です。口頭での解雇通告だけでは、後々言った言わないのトラブルになりますので。さあ殿下、こちらにサインを。日付と署名だけで結構です」
私はドレスの胸元から携帯用のインク壺と羽ペンを取り出し、流れるような動作で王子の前に差し出した。
「は?」
「サインです。今すぐ。ここで。秒で」
私の迫力に押されたのか、王子はおずおずと羽ペンを受け取る。
「お、おいナギー。お前、気が動転しているのか? これは婚約破棄だぞ? お前は王太子妃になれないんだぞ?」
「ええ、存じ上げております。大変残念ですが、殿下のご意思を尊重するのが臣下の務め。さあ、ここです。ここにサインを」
「お、おい待て、近すぎる!」
私は王子の手を取らんばかりの勢いで肉薄した。
その鬼気迫る形相に、隣にいたミルキー男爵令嬢が「ひっ」と悲鳴を上げる。
「ナギーお姉様、怖いですぅ……クラーク様をいじめないでくださいぃ」
彼女が王子の腕にしがみつき、上目遣いで私を睨む。
その瞳は潤み、いかにも「私、か弱い被害者です」というオーラを放っていた。
(ああ、ミルキー様。貴女も大概いい度胸をしておられますね)
彼女はこの数ヶ月、王城で数々のトラブルを引き起こしてきた。
廊下で転んで重要書類に紅茶をぶちまけたり、花瓶を割って会議を中断させたり。
そのたびに「ごめんなさぁい、ドジな私」とテヘペロで済ませてきたのだ。
その後始末を誰がしていたと思っているのか。
私だ。全部、私だ。
「ミルキー様。いじめているのではありません。これは公務手続きの一環です。部外者は黙っていていただけますか?」
「ひどぉい! やっぱり噂通りのおっかない悪役令嬢なんだ!」
「誰が悪役令嬢ですか。私はただの『業務効率化の鬼』です」
きっぱりと言い放つと、私は再び王子に向き直った。
「殿下、手が止まっております。早くサインを。インクが乾いてしまいます」
「わ、わかった! 書けばいいんだろう、書けば!」
クラーク王子は半ばヤケクソ気味に、サラサラと署名をした。
その瞬間。
私の中で何かが弾けた。
鎖が千切れ、重しが取れ、背中に翼が生えたような浮遊感。
自由だ。
私は自由になったのだ。
「確認いたしました。不備はございません」
私は羊皮紙をひったくるように回収し、インクを吹いて乾かすと、うやうやしく一礼した。
「クラーク・ル・グラン第一王子殿下。長きにわたり、貴方様の婚約者という大役を仰せつかり、誠に光栄でございました。……とでも言うと思いましたか?」
「へ?」
私は顔を上げた。
そこにはもう、作り笑いの仮面はない。
眉間の皺も消え失せ、憑き物が落ちたような晴れやかな笑顔が浮かんでいたはずだ。
「せいせいしました! これであの地獄の残業からも、貴方様の支離滅裂な思いつきに振り回される日々からもおさらばです! ああ、なんて空気が美味しいんでしょう!」
「な、ナギー……?」
王子の顔色が青ざめる。
ようやく事態の異様さに気づき始めたようだ。
「ま、待て。お前、悲しくないのか? 僕に捨てられるんだぞ?」
「捨てられる? いいえ殿下、それは認識の誤りです。これは『円満退社』です」
私は指を一本立ててチッチッと振った。
「貴方様は私を愛していない。私も貴方様を……ええと、上司としては最低ランクだと評価しておりました。つまりこれはWin-Winの関係解消。お互いの幸せのための最良の選択です」
会場が静まり返る。
誰もが口を開けて私を見ている。
あの堅物で無愛想なナギー・ベルシュタインが、こんなにも饒舌に、しかも楽しそうに喋っている姿など見たことがなかったからだろう。
「さて、そうと決まれば長居は無用です。私はこれで失礼させていただきます。荷物の整理もしなければなりませんし、明日からの『無職ライフ』の計画も立てねばなりませんので」
私は踵を返した。
ドレスの裾を翻し、出口へと向かう。
その足取りは軽い。
スキップでもし出しそうな勢いだ。
「ま、待て! ナギー! 本当に行くのか!?」
背後で王子の情けない声が響く。
「本当も何も、破棄したのはそちらでしょう。ああ、引継書については後ほど執務室に置いておきます。金庫の暗証番号から、貴方様が隠しているおやつの場所まで、すべて記載しておきますのでご安心を」
「おやつ……!? お前、知っていたのか!?」
「執務室の備品管理は私の仕事ですから。賞味期限切れのクッキーを食べる前に処分しておきましたよ。感謝してください」
ざわめきが笑い声に変わる。
王子の威厳はもはや風前の灯火だ。
私は大広間の巨大な扉に手をかけた。
この扉を開ければ、外の世界だ。
もう、明日の朝早く起きて王子の着替えの手配をする必要もない。
予算委員会で古狸のような大臣たちと怒鳴り合う必要もない。
(明日からは、朝寝坊ができる……!)
その事実に涙が出そうになった。
感動のあまり、私は扉を勢いよく押し開けた。
バンッ!
重厚な扉が開き、夜風が吹き込んでくる。
……はずだった。
しかし、そこに立っていたのは夜の闇ではない。
一人の男だった。
黒髪をオールバックになでつけ、冷ややかな銀縁眼鏡をかけた長身の人物。
その全身から漂うのは、冷気とも言えるほどの威圧感と、圧倒的な知性。
この国の宰相、アイザック・ル・グラン。
クラーク王子の叔父にあたり、若くして国の行政を一手に担う『氷の宰相』である。
「……騒がしいな」
低く、よく通る声。
それだけで会場の空気がピリリと引き締まった。
彼は無表情のまま、私と、その奥で呆然としている王子を交互に見やった。
「夜会の最中に何事だ。報告を」
その視線が私で止まる。
眼鏡の奥の瞳は、まるで出来の悪い書類を見るかのような冷徹さを湛えていた。
普通の令嬢なら、この視線だけで失神するかもしれない。
だが、私は違った。
今の私は無敵の「元・婚約者」であり、もはや王家のしがらみから解き放たれた自由人なのだ。
そして何より。
目の前にいるこの男こそ、私が以前から「この人とならいい仕事ができる」と密かにマークしていた、国一番の『仕事の鬼』である。
私の脳内で、高速計算が始まった。
婚約破棄された。
実家に戻っても、どうせ父に「出戻り」と嫌味を言われるだけだ。
ならば。
私のこの、王子の尻拭いで培った無駄に高い事務処理能力と、鋼のメンタルを高く売る場所はどこか?
答えは目の前にあった。
私はニヤリと口角を上げた。
悪役令嬢らしい、ふてぶてしい笑みだったと思う。
「宰相閣下。ちょうど良いところに」
「……私か?」
アイザックが怪訝そうに眉をひそめる。
私は一歩、彼に近づいた。
「ええ。ただいま、そこのクラーク殿下より解雇……いえ、婚約破棄を言い渡されました」
「……ほう。それで?」
「つきましては、私の身柄が空きました。そこでご相談なのですが」
私は彼を見上げ、堂々と宣言した。
「退職金代わりに、貴方様の元での再就職を希望します。もちろん、即戦力です」
王宮の大広間。
きらびやかなシャンデリアの下、数百人の貴族たちが息を呑む音が重なった。
音楽隊の演奏がピタリと止まる。
グラスのカチャンという小さな音さえも、この静寂の中では爆音のように響いた。
その中心で、この国の第一王子クラークが高らかに宣言していた。
金髪碧眼、絵本から抜け出してきたような美貌の王子。
その隣には、小動物のように震える桃色髪の少女、ミルキー男爵令嬢が寄り添っている。
対する私は、濃紺のドレスに身を包み、扇子も持たずに直立不動。
表情筋一つ動かさず、ただまっすぐに王子を見据えていた。
周囲からは「可哀想に」「やはり悪役令嬢の噂は本当だったのか」「これからどうなる」といった、憐れみと好奇の視線が突き刺さる。
しかし。
私の内心は、まったく別の感情で埋め尽くされていた。
(……え? 今、なんて言いました?)
私は思わず自分の耳を疑う。
婚約破棄。
その四文字が脳内で反響し、やがて極彩色のファンファーレへと変わっていく。
(婚約破棄……つまり、クビってことですよね?)
ドクン、と心臓が早鐘を打つ。
それは悲しみでも絶望でもない。
純度一〇〇パーセントの、歓喜。
私は扇子で口元を隠すふりをして、こみ上げる笑いを必死に噛み殺した。
(やった……! やったわ! ついにこのブラック労働から解放されるのね!)
思い返せば十年前。
王命により婚約者となって以来、私の人生は「王子の尻拭い」という名の地獄だった。
クラーク王子が読み飛ばした書類の決裁、彼が予算オーバーさせた事業の赤字補填、外交問題になりかけた失言の火消し。
睡眠時間は一日三時間。
肌荒れは化粧で隠し、クマは眼鏡で誤魔化し、カフェインという名の劇薬を血管に流し込んで耐え抜いてきた日々。
それが今、終わろうとしているのだ。
私はスッと右手を挙げた。
「殿下」
「なんだ、今さら泣いて許しを乞うても無駄だぞ!」
クラーク王子が勝ち誇ったように鼻を鳴らす。
私は極めて冷静に、事務的なトーンで告げた。
「確認させていただきます。ただいまの『婚約破棄』というご発言、王命としての効力を持つ正式な通達と受け取ってよろしいのでしょうか?」
「は……?」
王子がポカンと口を開ける。
周囲の貴族たちも、予想外の反応にざわめきだした。
通常、ここでは泣き崩れるか、怒り狂うのがセオリーだ。
だが私にそんな暇はない。
この言質(げんち)を取り消される前に、法的拘束力のある既成事実にしなければならないのだ。
「聞こえませんでしたか殿下。私は、この婚約破棄が確定事項なのかと伺っております」
一歩踏み出す。
ヒールがカツンと床を鳴らす。
王子がたじろいだ。
「あ、ああ! そうだ! これは決定事項だ! 父上……国王陛下にもすでに了承を得ている!」
「なんと! 陛下のご承認済みとは!」
私は心の中でガッツポーズをした。
国王陛下、ありがとうございます。
あの方も私の激務ぶりを知っていたはずなのに、どういう風の吹き回しか。
いや、理由はなんでもいい。
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「承知いたしました。では、直ちに手続きに入らせていただきます」
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常に携帯している『緊急時用・全権委任状および契約解除合意書』の雛形だ。
こういう時のために準備しておいて本当によかった。
「……な、なんだそれは」
「書類です。口頭での解雇通告だけでは、後々言った言わないのトラブルになりますので。さあ殿下、こちらにサインを。日付と署名だけで結構です」
私はドレスの胸元から携帯用のインク壺と羽ペンを取り出し、流れるような動作で王子の前に差し出した。
「は?」
「サインです。今すぐ。ここで。秒で」
私の迫力に押されたのか、王子はおずおずと羽ペンを受け取る。
「お、おいナギー。お前、気が動転しているのか? これは婚約破棄だぞ? お前は王太子妃になれないんだぞ?」
「ええ、存じ上げております。大変残念ですが、殿下のご意思を尊重するのが臣下の務め。さあ、ここです。ここにサインを」
「お、おい待て、近すぎる!」
私は王子の手を取らんばかりの勢いで肉薄した。
その鬼気迫る形相に、隣にいたミルキー男爵令嬢が「ひっ」と悲鳴を上げる。
「ナギーお姉様、怖いですぅ……クラーク様をいじめないでくださいぃ」
彼女が王子の腕にしがみつき、上目遣いで私を睨む。
その瞳は潤み、いかにも「私、か弱い被害者です」というオーラを放っていた。
(ああ、ミルキー様。貴女も大概いい度胸をしておられますね)
彼女はこの数ヶ月、王城で数々のトラブルを引き起こしてきた。
廊下で転んで重要書類に紅茶をぶちまけたり、花瓶を割って会議を中断させたり。
そのたびに「ごめんなさぁい、ドジな私」とテヘペロで済ませてきたのだ。
その後始末を誰がしていたと思っているのか。
私だ。全部、私だ。
「ミルキー様。いじめているのではありません。これは公務手続きの一環です。部外者は黙っていていただけますか?」
「ひどぉい! やっぱり噂通りのおっかない悪役令嬢なんだ!」
「誰が悪役令嬢ですか。私はただの『業務効率化の鬼』です」
きっぱりと言い放つと、私は再び王子に向き直った。
「殿下、手が止まっております。早くサインを。インクが乾いてしまいます」
「わ、わかった! 書けばいいんだろう、書けば!」
クラーク王子は半ばヤケクソ気味に、サラサラと署名をした。
その瞬間。
私の中で何かが弾けた。
鎖が千切れ、重しが取れ、背中に翼が生えたような浮遊感。
自由だ。
私は自由になったのだ。
「確認いたしました。不備はございません」
私は羊皮紙をひったくるように回収し、インクを吹いて乾かすと、うやうやしく一礼した。
「クラーク・ル・グラン第一王子殿下。長きにわたり、貴方様の婚約者という大役を仰せつかり、誠に光栄でございました。……とでも言うと思いましたか?」
「へ?」
私は顔を上げた。
そこにはもう、作り笑いの仮面はない。
眉間の皺も消え失せ、憑き物が落ちたような晴れやかな笑顔が浮かんでいたはずだ。
「せいせいしました! これであの地獄の残業からも、貴方様の支離滅裂な思いつきに振り回される日々からもおさらばです! ああ、なんて空気が美味しいんでしょう!」
「な、ナギー……?」
王子の顔色が青ざめる。
ようやく事態の異様さに気づき始めたようだ。
「ま、待て。お前、悲しくないのか? 僕に捨てられるんだぞ?」
「捨てられる? いいえ殿下、それは認識の誤りです。これは『円満退社』です」
私は指を一本立ててチッチッと振った。
「貴方様は私を愛していない。私も貴方様を……ええと、上司としては最低ランクだと評価しておりました。つまりこれはWin-Winの関係解消。お互いの幸せのための最良の選択です」
会場が静まり返る。
誰もが口を開けて私を見ている。
あの堅物で無愛想なナギー・ベルシュタインが、こんなにも饒舌に、しかも楽しそうに喋っている姿など見たことがなかったからだろう。
「さて、そうと決まれば長居は無用です。私はこれで失礼させていただきます。荷物の整理もしなければなりませんし、明日からの『無職ライフ』の計画も立てねばなりませんので」
私は踵を返した。
ドレスの裾を翻し、出口へと向かう。
その足取りは軽い。
スキップでもし出しそうな勢いだ。
「ま、待て! ナギー! 本当に行くのか!?」
背後で王子の情けない声が響く。
「本当も何も、破棄したのはそちらでしょう。ああ、引継書については後ほど執務室に置いておきます。金庫の暗証番号から、貴方様が隠しているおやつの場所まで、すべて記載しておきますのでご安心を」
「おやつ……!? お前、知っていたのか!?」
「執務室の備品管理は私の仕事ですから。賞味期限切れのクッキーを食べる前に処分しておきましたよ。感謝してください」
ざわめきが笑い声に変わる。
王子の威厳はもはや風前の灯火だ。
私は大広間の巨大な扉に手をかけた。
この扉を開ければ、外の世界だ。
もう、明日の朝早く起きて王子の着替えの手配をする必要もない。
予算委員会で古狸のような大臣たちと怒鳴り合う必要もない。
(明日からは、朝寝坊ができる……!)
その事実に涙が出そうになった。
感動のあまり、私は扉を勢いよく押し開けた。
バンッ!
重厚な扉が開き、夜風が吹き込んでくる。
……はずだった。
しかし、そこに立っていたのは夜の闇ではない。
一人の男だった。
黒髪をオールバックになでつけ、冷ややかな銀縁眼鏡をかけた長身の人物。
その全身から漂うのは、冷気とも言えるほどの威圧感と、圧倒的な知性。
この国の宰相、アイザック・ル・グラン。
クラーク王子の叔父にあたり、若くして国の行政を一手に担う『氷の宰相』である。
「……騒がしいな」
低く、よく通る声。
それだけで会場の空気がピリリと引き締まった。
彼は無表情のまま、私と、その奥で呆然としている王子を交互に見やった。
「夜会の最中に何事だ。報告を」
その視線が私で止まる。
眼鏡の奥の瞳は、まるで出来の悪い書類を見るかのような冷徹さを湛えていた。
普通の令嬢なら、この視線だけで失神するかもしれない。
だが、私は違った。
今の私は無敵の「元・婚約者」であり、もはや王家のしがらみから解き放たれた自由人なのだ。
そして何より。
目の前にいるこの男こそ、私が以前から「この人とならいい仕事ができる」と密かにマークしていた、国一番の『仕事の鬼』である。
私の脳内で、高速計算が始まった。
婚約破棄された。
実家に戻っても、どうせ父に「出戻り」と嫌味を言われるだけだ。
ならば。
私のこの、王子の尻拭いで培った無駄に高い事務処理能力と、鋼のメンタルを高く売る場所はどこか?
答えは目の前にあった。
私はニヤリと口角を上げた。
悪役令嬢らしい、ふてぶてしい笑みだったと思う。
「宰相閣下。ちょうど良いところに」
「……私か?」
アイザックが怪訝そうに眉をひそめる。
私は一歩、彼に近づいた。
「ええ。ただいま、そこのクラーク殿下より解雇……いえ、婚約破棄を言い渡されました」
「……ほう。それで?」
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