え、追放してくれるんですか?じゃあ退職金代わりにその冷徹宰相をください

黒猫かの

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「……ふぅ。ようやく酸素濃度が正常値に戻りました」

夜風が吹き抜けるバルコニー。

私は手すりに寄りかかり、大きく深呼吸をした。

会場の喧騒は、分厚いガラス扉の向こうに遠ざかっている。

頭上には満天の星。

眼下には、王都の夜景が宝石箱をひっくり返したように煌めいている。

本来ならロマンチックなシチュエーションだが、私の頭の中は今の「戦闘」の反省会で埋め尽くされていた。

「しかし、想定外でした。まさか殿下がここまで執着を見せるとは。以前なら『お前なんか顔も見たくない』と言っていたのに」

「失って初めて、その価値に気づいたのだろう。愚か者の典型だ」

隣に立つアイザック宰相が、手にしたワイングラスを軽く揺らす。

月明かりに照らされた彼の横顔は、絵画のように美しく、そして冷ややかだった。

「だが、遅すぎた。一度手放した宝石は、二度と手に入らん」

「宝石……ですか。私はどちらかというと『高機能魔導計算機』くらいの扱いでしたが」

「私にとっては宝石だ。それも、研磨すればするほど光る、未発掘の原石だな」

彼はサラリと歯の浮くような台詞を言う。

私は眉をひそめた。

「閣下。酔っていますか? アルコールによる前頭葉の機能低下が見受けられます」

「シラフだ。事実を述べたまでだ」

アイザック宰相はグラスを置き、私の方へ向き直った。

そして、スッと上着を脱ぐと、私の肩にふわりと掛けた。

「えっ」

「冷える。そのドレスは防御力は高いが、保温性はゼロだろう」

肩に重みと、温もりが乗る。

彼の上着からは、微かにサンダルウッドの香りと、大人の男性特有の匂いがした。

「……ありがとうございます。ですが、閣下が寒のでは?」

「私は心が燃えているから問題ない」

「はぁ……(また訳のわからないことを)」

私は上着の襟を掴み、ありがたく暖を取った。

しかし、次の瞬間。

アイザック宰相が一歩、私に近づいた。

背後の手すりに追い詰められる形になる。

「……閣下?」

「ナギー。先ほどのクラークへの言葉、本気か?」

「どの言葉でしょう? 『金粉アレルギーになりそう』という件ですか? あれは医学的根拠のない比喩表現でしたが」

「違う。『私の許可なく指一本触れさせない』と言った件だ」

彼は私の顔を覗き込み、逃げ場を塞ぐように両手をバルコニーの手すりに置いた。

いわゆる『壁ドン』ならぬ『手すりドン』である。

至近距離。

眼鏡の奥の瞳が、獲物を狙う猛禽類のように鋭く光っている。

「あ、あれは……その場の勢いというか、王子を追い払うための『威嚇行動』ですよね?」

私が尋ねると、彼はゆっくりと首を横に振った。

「いいや。本心だ」

「……はい?」

「私は独占欲が強い。自分の領分にあるものが、他者に侵されるのを極端に嫌う性質でな」

彼は長い指で、私の頬にかかった後れ毛を耳にかけた。

その指先が耳元に触れ、ゾクリとした感覚が背筋を走る。

「特に、君に関しては譲る気がない。クラークはもちろん、他のどの男にもだ」

ドクン、と心臓が跳ねた。

これは……愛の告白?

いや、待てナギー。冷静になれ。

相手はあの「氷の宰相」だ。

感情で動く人間ではない。

必ず、論理的な裏付けがあるはずだ。

私はフル回転で脳内検索をかけた。

『検索ワード:独占欲、譲らない、優秀な部下』
『検索結果:機密保持、ヘッドハンティング防止、囲い込み』

……そうだ、これだ。

私はポンと手を打った(心の中で)。

「なるほど! 理解しました閣下!」

「……ほう? 理解したか?」

アイザック宰相が、期待を含んだ眼差しで見つめてくる。

私は自信満々に答えた。

「つまり、私は現在、閣下の進行している『極秘プロジェクト』の核心を知りすぎたわけですね?」

「……は?」

「私が他国や他部署に引き抜かれると、閣下の政策の意図や、裏帳簿の隠し場所……失礼、機密費の運用方法などが漏洩するリスクがある。だから、『私を誰にも渡さない(=外部との接触を遮断する)』というセキュリティ対策ですね!」

「…………」

アイザック宰相が固まった。

夜風だけがヒュオォと吹き抜ける。

「あれ、違いますか? もっと高度な……まさか、私を物理的に『重要文化財』のようにガラスケースに入れて保管するおつもりで?」

「……ハァ」

彼は深いため息をついた。

そして、ガックリと肩を落とし、眼鏡を外して眉間を揉んだ。

「君というやつは……本当に、恋愛偏差値だけは赤点だな」

「失敬な。恋愛小説は月に三冊読んでいます。理論は完璧です」

「実践が伴っていない。……まあいい」

彼は再び顔を上げ、ニヤリと笑った。

その笑顔は、どこか楽しげで、そして少しだけ危険な匂いがした。

「その解釈でいいだろう。君は今日から、私の『最重要国家機密(トップ・シークレット)』だ」

「トップ・シークレット……!」

なんて甘美な響きだろう。

行政官として、これ以上のランク付けはない。

「光栄です! では、私の額に『取扱注意』の赤スタンプを押していただけますか? それとも、背中に『宰相府備品』という焼印を?」

「焼印はいらん。だが……『所有者のサイン』くらいは残しておきたいな」

「サイン?」

彼が再び顔を近づけてくる。

今度は、先ほどよりもさらに近い。

唇が触れそうな距離。

「か、閣下? サインペンは持っていますか? 油性ですか?」

「ああ、消えないやつをな」

彼が顔を傾け、私の唇に――。

バンッ!!

その時。

背後のガラス扉が勢いよく開かれた。

「見つけたぁぁぁ! ナギーお姉様ぁ!」

「……チッ」

アイザック宰相が、あからさまに舌打ちをして身を引いた。

現れたのは、ピンクのドレスを揺らしたミルキー男爵令嬢だった。

「もう! 探したんだからぁ! クラーク様が泣き止まないの! なんとかしてよぉ!」

彼女は空気も読まず、ドカドカとバルコニーに入ってきた。

「私のせいではありません。自業自得です」

私が即答すると、ミルキー嬢はプクーッと頬を膨らませた。

「だってぇ、クラーク様ったら『ナギーがいないと眠れない』とか『ナギーの夢を見る』とか、キモチワルイことばっかり言うんだもん!」

「……それは確かに気持ち悪いですね。同情します」

「でしょ!? だから、ナギーお姉様が戻ってきて、あのお守りを引き受けてよぉ! 私、もう疲れたぁ!」

ミルキー嬢が本音を漏らした。

彼女にとっても、無能な王子の相手は荷が重すぎたらしい。

「お断りします。私は今、『最重要機密』として扱われておりますので」

私はアイザック宰相のジャケットを羽織り直し、胸を張った。

「機密?」

「ええ。宰相閣下の厳重な管理下にあります。部外者への譲渡、貸出、および閲覧は一切禁止されています」

「そ、そうなの……?」

ミルキー嬢がキョトンとする。

アイザック宰相が、横で「ククッ」と笑いを堪えているのが気配でわかった。

「そうです。ですので、お引き取りください。これ以上近づくと、国家機密保護法違反で逮捕されますよ?」

「えぇ~!? 逮捕はいやぁ~!」

ミルキー嬢は「バイバ~イ!」と叫んで、脱兎のごとく逃げ出した。

単純だ。

この国の人々は、どうしてこうも単純なのか。

「……ふっ、はははは!」

アイザック宰相が、ついに声を出して笑い出した。

「『機密保護法違反』か! そんな法律、いつできたんだ?」

「今、作りました。私が法です」

「頼もしい限りだ。君になら、この国の全権を委ねてもいいかもしれん」

彼は笑い涙を指で拭うと、優しく私の頭を撫でた。

「だが、あながち嘘ではないぞ」

「何がです?」

「君は私だけの『機密』だ。誰にも渡さんし、誰にも中身(心)を読ませはしない」

彼の瞳が、夜空の星よりも強く輝いて私を見つめる。

その熱量に、私はまたしても動悸を感じた。

「……閣下。一つ提案があります」

「なんだ」

「その、頭を撫でるの、やめていただけませんか? 思考回路がショートしそうです」

「おや、不具合か? なら修理が必要だな」

「修理?」

「ああ。……続きは、官邸に戻ってからじっくり行うとしよう」

彼は私の肩を抱き、エスコートした。

「帰りましょう、私の大事な『機密書類』殿」

「はいはい。シュレッダーにかけられないよう、精一杯働きますよ」

私たちは夜会を後にした。

背後には、まだ混乱の続くパーティー会場。

そして前方には、静寂と激務が待つ宰相官邸。

しかし、不思議と恐怖はない。

隣にある温もりと、彼の上着の匂いが、私を包んでくれているからだろうか。

……いや、単に上着の素材が高品質なカシミヤだからに違いない。

私はそう自分に言い聞かせ、赤くなった頬を夜風で冷やしながら歩いた。
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