え、追放してくれるんですか?じゃあ退職金代わりにその冷徹宰相をください

黒猫かの

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「……ふぅ」

午後の日差しが差し込む執務室。

アイザック宰相が、ふとペンの手を止めた。

彼は少し首を回し、凝りをほぐすように軽く唸ると、窮屈そうにシャツの第一ボタンを外した。

そして、ネクタイを緩め、無造作に首元を広げる。

その一連の動作。

何気ない、男が仕事の合間に見せる無防備な瞬間。

鎖骨がチラリと覗き、喉仏が上下する様が、逆光の中で神々しいまでの色気を放っていた。

ドクンッ。

「……っ!?」

私の心臓が、肋骨を蹴り上げるような衝撃に襲われた。

持っていたペンを取り落とす。

カラン、という乾いた音が静寂に響いた。

「どうした、ナギー?」

アイザック宰相が振り返る。

緩んだネクタイ。

乱れた黒髪。

そして、心配そうにこちらを覗き込むアイスブルーの瞳。

ドクン、ドクン、ドクン!

心拍数が跳ね上がる。

ドラムロールのようだ。

顔が熱い。

息が苦しい。

視界がクラクラする。

(こ、これは……!)

私は胸を押さえ、荒い息を吐いた。

「か、閣下……! 緊急事態です……!」

「なんだ? 敵襲か?」

アイザック宰相の表情が険しくなる。

私はガクガクと震えながら訴えた。

「心臓に……異常が……! 不整脈です! あるいは狭心症の前兆か、カフェイン中毒による心停止の危機です!」

「なに!?」

彼は椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、私のそばに駆け寄った。

「しっかりしろ! 顔が赤いぞ。熱もあるのか?」

彼の手が私の額に触れる。

その冷たくて大きな手の感触に、心臓がさらに暴走した。

ドクンッ!!

「ぐふっ……!」

私は机に突っ伏した。

「だ、ダメです……閣下が近づくと、症状が悪化します……! これは、未知のウイルス性の何かかもしれません!」

「私に近づくと悪化だと? ……まさか、私が感染源か?」

「わかりません……ですが、直視すると死にそうになります……」

「ええい、問答している場合ではない! 医者だ! すぐに侍医を呼べ!」

アイザック宰相が廊下に向かって怒鳴った。

その声には、いつもの冷静さは微塵もなく、本気の焦りが滲んでいた。

***

数分後。

私は執務室の長椅子(ソファ)に横たわっていた。

傍らには、白髭を蓄えた初老の医師。

王宮で長年、王族の健康管理を担ってきたベテラン侍医、グラン先生だ。

そして、その背後には、腕組みをして仁王立ちするアイザック宰相がいる。

「……ふむ」

グラン先生は、聴診器を私の胸に当て、目を閉じた。

「……ふむふむ」

「どうだ、グラン。深刻なのか?」

アイザック宰相が食い気味に尋ねる。

「ナギーは働きすぎだ。過労による心不全か? それとも脳血管障害か? もしものことがあったら、私はこの国の医療制度を根底からひっくり返すぞ」

「落ち着いてください、閣下。……患者の心拍は確かに速いですが、規則的です」

グラン先生は聴診器を外し、私に優しく問いかけた。

「ナギー嬢。症状が出るのは、どんな時かな?」

私は天井を見つめたまま、虚ろな声で答えた。

「……主に、宰相閣下を見た時です」

「具体的には?」

「閣下が眼鏡を外した時、ネクタイを緩めた時、私の仕事ぶりを褒めて頭を撫でた時、そして……『お前は特別だ』と耳元で囁かれた時などに、発作が起きます」

「ふむ」

「胸が締め付けられるように苦しくなり、思考回路がショートし、顔面温度が上昇します。あと、食欲不振……いや、閣下と食べる甘いものは美味しいので、味覚異常はありません」

私は真剣に訴えた。

「先生。これはやはり、自律神経失調症でしょうか? それとも、カフェインの過剰摂取による幻覚症状?」

グラン先生は、ゆっくりと眼鏡の位置を直した。

そして、重々しく口を開いた。

「診断結果が出た」

ゴクリ。

私とアイザック宰相が息を呑む。

「病名は……『恋』じゃな」

「……は?」

私が呆気にとられた声を出す。

アイザック宰相も「……コイ?」とオウム返しに呟く。

「はい、恋です。英語で言うとラブ。古語で言うと恋慕。医学的には『恋愛性一時的動悸及び発熱症候群』とでも呼びましょうか」

グラン先生はカルテにサラサラと書き込んだ。

「処方箋としては、想い人との接触頻度を増やすか、あるいは諦めて出家するかの二択ですな」

静寂。

あまりに予想外な診断に、時が止まる。

そして。

「誤診です!!」

私はソファから飛び起きた。

「何を仰るのですか、ヤブ医者……いえ、先生! 私が? 恋? ありえません!」

「なぜ言い切れる?」

「私はナギー・ベルシュタインですよ!? 『歩く計算機』『感情の欠落した能吏』と呼ばれた女です! 私の人生における優先順位第一位は『業務効率』、第二位は『定時退社』! 恋愛などという非生産的で、コストパフォーマンスの悪いバグ(不具合)が発生するはずがありません!」

私は早口でまくし立てた。

「これは間違いなく過労です! あるいは、閣下の放つ『フェロモン』という名の毒素に対するアレルギー反応です!」

「アレルギー……」

背後でアイザック宰相が呟く。

「私は毒物扱いか」

「先生、再検査を要求します! MRIでもCTでも撮ってください! 私の脳内に『ピンク色のお花畑』など存在しないことを証明してみせます!」

私が必死に訴えると、グラン先生はホッホッホと笑った。

「ナギー嬢。医学では解明できないこともあるんじゃよ。顔が赤くなるのは、脳が血液を送り込んでいる証拠。胸が苦しいのは、交感神経が活発化している証拠。それが特定の異性に対してのみ発動するなら、それはもう『恋』以外の何物でもない」

「ぐぬぬ……!」

論理的だ。

悔しいが、反論の余地がない。

「それに、隣におられる閣下も、似たような症状をお持ちのようだが?」

「え?」

私がアイザック宰相を見ると、彼はバッと顔を背けた。

耳が、ほんのりと赤い。

「……私はただ、室温が高いと感じていただけだ」

「ほう? 閣下も、ナギー嬢が近くにいると脈が乱れると、以前相談に来られましたが?」

「グラン!! 守秘義務はどうした!」

アイザック宰相が慌てて怒鳴る。

グラン先生は「おっと、口が滑った」と肩をすくめ、道具を片付け始めた。

「まあ、お二人とも『お熱い』ことですな。特効薬はありませんので、仲良く残業でもして愛を育んでください。では」

グラン先生はニヤニヤしながら退室していった。

残されたのは、真っ赤な顔をした私と、咳払いをして誤魔化す宰相。

気まずい。

致死レベルの気気まずさだ。

「……」

「……」

沈黙が痛い。

私は咳払いをした。

「……診断ミスですね。あの先生、もうろくしているに違いありません」

「……そうだな。私もそう思う」

アイザック宰相が同意してくれた。

よかった、彼も否定派だ。

「恋だなんて、バカバカしい。私たちがそんな、非合理的な感情に振り回されるわけがない」

「ええ、その通りです。私たちはあくまで『上司と部下』。それ以上でも以下でもないビジネスパートナーです」

私は自分に言い聞かせるように強調した。

「この動悸は、きっと『吊り橋効果』の一種です。宰相官邸という過酷な環境で、共に死線を潜り抜けている緊張感が、脳に錯覚を起こさせているだけです」

「なるほど。吊り橋効果か。論理的だ」

アイザック宰相は頷き、いつもの冷静さを取り戻した……ように見えた。

だが、彼はゆっくりと私に近づいてきた。

「だが、ナギー。仮説を検証する必要があると思わないか?」

「け、検証?」

「錯覚かどうか、確かめる実験だ」

彼は私の手を取り、グイッと引き寄せた。

「ひゃっ!?」

私は彼の胸に倒れ込む。

硬い胸板。

トクトクと伝わってくる、彼の心臓の音。

それは、私の心臓と同じくらい、速いリズムを刻んでいた。

「……どうだ? 症状は悪化するか?」

耳元で囁かれる低音ボイス。

ボムッ。

私の頭が沸騰した。

「あ、悪化……! エラー! エラー発生! システムダウン寸前!」

「ふっ、正直な反応だ」

彼は楽しそうに笑い、私を離した。

「まあ、焦ることはない。病名が何であれ、君が私の部下であることに変わりはない。……治療法が見つかるまで、私のそばで経過観察を続けるといい」

「……経過観察、ですか」

「ああ。一生かかってもいいぞ」

彼はネクタイを締め直し、ビシッと決めた。

「さて、仕事に戻るか。恋煩(こいわずら)いで手が止まるような無能な補佐官ではないだろう?」

「もちろんです! 恋ごときに業務を阻害されてたまるもんですか!」

私は頬をパンパンと叩き、気合を入れた。

「見ていてください! この『恋』とかいうバグを、精神力でデバッグ(修正)してみせます!」

「お手並み拝見といこうか」

私たちは再び机に向かった。

だが、その空気は以前とは少し違っていた。

書類を渡す時に触れる指先。

ふと目が合った時の照れ笑い。

それらが、いちいち心臓に悪い。

(……くそっ! 不本意ですが、認めざるを得ません!)

私は心の中で白旗を上げた。

これは過労ではない。

もっとタチの悪い、治療不可能な難病だ。

でも不思議と、それを「嫌だ」とは思わない自分がいた。

むしろ、この病気になら、もう少し冒されていてもいいかも……なんて。

「……ナギー、ニヤニヤしているぞ。計算ミスか?」

「いえ! 『幸せホルモン』の分泌を確認していただけです!」

私のブラック職場からの脱出劇は、いつの間にかピンク色のラブコメディへとジャンル変更されつつあるようだった。

もちろん、本人は断固として「お仕事小説」だと言い張るつもりだが。
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