え、追放してくれるんですか?じゃあ退職金代わりにその冷徹宰相をください

黒猫かの

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ガタンッ!!

激しい衝撃と共に、私たちの乗った馬車が停止した。

窓の外は、バケツをひっくり返したような土砂降り。

時刻は夜の八時。

残業を早めに切り上げ(といっても定時より三時間オーバーだが)、宰相官邸から私の仮住まいである官舎へ送ってもらう途中だった。

「……何事ですか」

私は膝上の書類カバンを抱え直し、眉をひそめた。

「敵襲? それともクラーク殿下が道路に寝そべって進路妨害でも?」

「いや、その可能性はゼロではないが……」

アイザック宰相が窓を開け、御者に声をかける。

「どうした」

「も、申し訳ございません閣下! 車輪が! ぬかるみに足を取られて車軸がイカれちまいました!」

御者の悲痛な叫びが雨音に混じる。

「修理にはどれくらいかかる?」

「へえ、この雨ですし……応援を呼んで、部品を交換して……早くて二時間は……」

「二時間」

私は即座に脳内計算機を弾いた。

「却下です。ここから官舎までは徒歩で十五分。雨天時の歩行速度低下を考慮しても二十分。待機するより歩く方が『時間対効果(タイムパフォーマンス)』において圧倒的に有利です」

「同感だ」

アイザック宰相は迷わずドアを開けた。

「行くぞ、ナギー。運動不足の解消にはちょうどいい」

「はい。濡れるのは嫌ですが、時間はもっと惜しいですからね」

私たちは馬車を降りた。

冷たい雨が容赦なく降り注ぐ。

御者が慌てて一本の傘を差し出してきた。

「閣下! これをお使いください! 特大サイズの傘です!」

「……一本か?」

「す、すみません! 予備の傘は、さっき風で骨が折れちまって……」

アイザック宰相は、その黒くて大きな傘を受け取ると、バサリと広げた。

そして、当然のように私を招き入れた。

「入れ」

「……え」

「相合い傘だ。文句あるか?」

「いえ、物理的にそれしか選択肢がありませんので」

私は平静を装い、彼の傘の下に入った。

(……近い)

入った瞬間、後悔した。

傘の下は、外界から隔絶された密室だった。

雨音がドームのように私たちを包み込み、その中で彼の息遣いと、あのサンダルウッドの香りが濃厚に漂う。

肩が触れる。

二の腕が擦れる。

グラン先生の診断(恋)を受けて以来、私のセンサーは過敏になっているのだ。

「……出発するぞ」

「は、はい」

私たちは歩き出した。

王都の石畳は雨に濡れて黒く光り、街灯の光を反射して幻想的だ。

だが、私に景色を楽しむ余裕はない。

「……」

「……」

無言。

いつもなら、「明日の予算委員会のアジェンダですが」とか「あの法案の不備について」とか、マシンガントークで議論を戦わせている時間だ。

なのに、言葉が出てこない。

意識してしまう。

隣にいるこの男が、ただの上司ではなく、「異性」であるという事実を。

(落ち着け、ナギー。これは単なる『雨天時の移動ミッション』だ。随伴者との距離は、傘の直径に依存する物理現象にすぎない)

私は必死に自分に言い聞かせ、なるべく彼と接触しないよう、傘の端っこギリギリを歩こうとした。

その時。

グイッ。

腰に強い力がかかり、私は中央へと引き戻された。

「あっ」

「どこへ行く」

アイザック宰相が、私の腰を抱き寄せたまま言った。

「そんな端を歩いたら、右肩が濡れるぞ」

「で、ですが閣下。あまり近づくと歩きにくいかと……」

「離れると濡れる。濡れると風邪を引く。風邪を引くと業務に支障が出る」

彼は淡々と論理を展開した。

「君は私の『最重要機密』であり『貴重な戦力』だ。水滴一つたりとも付着させるわけにはいかん」

「……過保護です」

「危機管理と言え」

彼は私をさらに強く引き寄せた。

今度は腰だけではない。

身体の側面が、ピタリと密着する。

彼の体温が、ドレス越しに伝わってくる。

熱い。

雨は冷たいはずなのに、私の左半身だけが燃えるように熱い。

ドクン、ドクン、ドクン。

心臓がうるさい。

雨音で誤魔化せているだろうか?

もし彼に聞こえていたら、「ナギー、エンジン音が異常だぞ」と指摘されるに違いない。

「……ナギー」

「は、はい!?」

不意に名前を呼ばれ、私は裏返った声を出した。

「……今日は静かだな」

「えっ」

「いつもなら、『この道の舗装状況が悪い』だの『街灯の照度が足りない』だの文句を言うはずだが」

アイザック宰相が、横目で私を見下ろす。

眼鏡が雨の湿気で少し曇っているのが、なんだか艶っぽい。

「具合でも悪いのか?」

「いえ! あの、その……計算中です!」

「何を?」

「あー……落下する雨粒の総数と、それによる地下水道への流入量をシミュレーションしていました!」

苦しい嘘だ。

しかし、アイザック宰相は「ほう」と感心したように頷いた。

「さすがだな。雨の日まで仕事のことか。……だが」

彼は少しだけ声を潜めた。

「私は、君が黙って大人しく隣にいるのも、嫌いじゃないぞ」

「……っ!!」

爆撃だ。

不意打ちの絨毯爆撃だ。

私の顔が一気に沸騰した。

「か、閣下! そういう台詞は、TPOを考えて発言してください!」

「今はプライベートな帰り道だ。問題ない」

「私の心臓に問題があります! 負荷テストの限界を超えています!」

「なら、慣れろ。これから毎日こうして帰るかもしれないんだぞ?」

「毎日……!?」

想像してしまった。

毎日、相合い傘。

毎日、密着。

毎日、この甘い低音ボイスのシャワー。

(……死ぬ。私が過労死する前に、萌え死にする)

私がプルプルと震えていると、前方の水たまりに気づかず、足を踏み入れそうになった。

「あっ!」

ヒールが滑る。

転ぶ。

泥水の中にダイブする未来が見えた。

その瞬間。

バッ!

アイザック宰相が傘を放り出し、両手で私を受け止めた。

「ナギー!」

世界が回転し、私は彼のアームの中で止まった。

傘が地面に落ち、冷たい雨が私たちを直撃する。

だが、私は濡れなかった。

アイザック宰相が、覆いかぶさるように私を庇っていたからだ。

「……大丈夫か?」

至近距離。

雨に濡れた彼の黒髪から、雫が滴り落ちる。

眼鏡は水滴だらけで、その奥の瞳が心配そうに私を見つめている。

「か、閣下……! 濡れています! 高級スーツが!」

「服などどうでもいい。君は?」

「無傷です。ですが……」

私は彼の背中がびしょ濡れになっているのを見て、胸が締め付けられた。

この人は、いつだってそうだ。

冷徹だ、合理主義だと言いながら、いざという時は自分の身を呈して私を守る。

損得勘定なんかしていない。

ただ、私を大事にしてくれている。

その事実が、たまらなく嬉しくて、そして苦しかった。

「……バカです、閣下」

「なんだと?」

「傘を捨てたら、二人とも濡れるじゃないですか。合理的じゃありません」

私はポケットからハンカチを取り出し、彼の眼鏡についた水滴を拭った。

「……視界不良ですよ。宰相閣下」

「……ふっ、違いない」

彼は濡れたまま笑った。

雨の中、私たちはしばらく見つめ合っていた。

冷たい雨が、むしろ心地いい。

火照った頬を冷やしてくれるから。

「……帰ろう。風邪を引く」

彼が落ちた傘を拾い、再び私を招き入れる。

今度は、私の方から彼の腕にしがみついた。

「ええ。急ぎましょう。……帰ったら、温かいお茶を淹れますから」

「期待している。……それと、タオルも頼む」

「はいはい。私の新品のタオルを貸しますよ」

私たちは再び歩き出した。

密着度は、さっきよりも増していた。

言葉数は少なかったけれど、伝わる体温だけで十分だった。

これは恋ではない。

断じて恋ではない。

ただの『暖房効率の最大化』だ。

そう自分に言い聞かせながら、私は雨の夜道を、彼と共に歩いていった。

***

一方、その頃。

王宮の庭園。

「冷たっ! 冷たぁぁぁ!」

クラーク王子が、ずぶ濡れになって走っていた。

「なんで! なんで僕の傘だけ穴が開いてるんだぁぁ!」

彼が差している傘は、ミルキー男爵令嬢が「可愛く刺繍してあげる♡」と言って、布地ごと縫い付けて穴だらけにした欠陥品だった。

雨漏りなんてものではない。

シャワーだ。

「ミルキー! 普通の傘を貸してくれ!」

「やだぁ! 私の傘は一人用だもん! クラーク様は『愛の力』で雨を蒸発させてよぉ!」

「できるかそんなこと! 僕は魔法使いじゃないんだぞ!」

「えぇ~? 王子様なのにぃ?」

「ううっ……寒い……心も体も寒い……」

王子はガタガタ震えながら、泥道をトボトボと歩いた。

その時、一台の馬車が猛スピードで横を通り過ぎた。

バシャァッ!!

盛大な泥水が、王子の全身に浴びせられる。

「ぶべらっ!?」

「あ、ごめんなさ~い! 見えませんでした~!」

走り去る馬車の御者の声。

王子は泥まみれになりながら、天を仰いだ。

「ナギー……。君がいた頃は、雨の日には必ず『替えの靴下』と『温かいスープ』が用意されていたのに……」

失われた快適な生活。

そして、今の悲惨な現実。

「ハックション!!」

王子の盛大なくしゃみが、雨音にかき消された。

翌日、クラーク王子が高熱を出して寝込み、公務がさらに滞ることになるのは、確定した未来であった。
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