歓喜!婚約破棄で田舎へ逃亡します!

黒猫かの

文字の大きさ
8 / 28

8

しおりを挟む
「ええい、なんだこれは! 書類が減らん! むしろ増えているではないか!」


王都、王城。


その一角にある王太子執務室から、アレック王子の悲痛な叫び声が響き渡っていた。


かつては優雅に紅茶を飲み、窓の外を眺めて詩を詠んでいたあの部屋は、今や見る影もない。


床から天井まで、未決済の書類が塔のように積み上げられ、足の踏み場すら失われていた。


「おい、誰か! この書類の山をなんとかしろ! カモミールはどうした!? いや、あいつはもういないんだった!」


アレック王子は髪を振り乱し、血走った目で周囲の側近たちに怒鳴り散らしている。


「殿下、落ち着いてください。現在、文官たちを総動員しておりますが、処理が追いつかないのです」


「追いつかないとはどういうことだ! 先月までは、私が午後のティータイムを楽しんでいる間にすべて終わっていたではないか!」


「それは……カモミール様が、殿下が寝ている間にすべて処理されていたからです」


側近の一人が、恐る恐る真実を口にした。


「なっ……!?」


「カモミール様は『並列思考』と『念動力』を駆使し、十人分の仕事を一人でこなしておりました。彼女がいなくなった今、単純計算で十倍の人員が必要ですが、予算がありません」


「嘘だ! あんな女にそんな能力があるわけがない! あいつはいつも眠そうな顔をして、私の邪魔ばかりしていたんだぞ!」


アレック王子は現実逃避するように首を振った。


そこへ、執務室の扉がノックもなしに開いた。


「ア~レック様ぁ♡」


甘ったるい声とともに現れたのは、ピンク色の髪をふわふわと揺らす男爵令嬢、ミナだった。


彼女の手には、手作りらしい歪な形のクッキーが乗った皿がある。


「お仕事大変そうですぅ。ミナが『愛のクッキー』を作ってきましたぁ! あーんしてあげますぅ!」


「おお、ミナか! やはり私を癒してくれるのは君だけだ!」


アレック王子は書類を放り出し、ミナに抱きつこうとした。


しかし、その拍子に肘がインク瓶に当たった。


バシャッ!


「あっ」


黒い液体が、机の上に広げられていた羊皮紙――隣国との不可侵条約の原本――に降り注いだ。


「きゃっ! アレック様、お洋服が汚れちゃいますぅ!」


「し、しまった! これでは条約の署名が見えないではないか!」


「大丈夫ですぅ。ミナが拭いてあげますねぇ。よいしょ、よいしょ」


ミナは持っていたレースのハンカチでインクを拭き取ろうとした。


だが、それは逆効果だった。


インクはさらに広がり、条約の文面は完全に判読不能な黒い染みと化した。


「……あ」


「……あ」


二人が固まる。


そこへ、氷点下の声が降ってきた。


「……何をしておられるのですか、殿下」


入り口に立っていたのは、この国の宰相であるフランツ侯爵だった。


彼はモノクルを押し上げ、冷ややかな視線で惨状を見下ろした。


「さ、宰相! いや、これは事故で……ミナが気を利かせて……」


「その書類が、再発行に半年かかる重要文書であることはご存知ですよね?」


「うぐっ……」


「まあいいでしょう。外交問題になる前に、私の魔法で復元を試みます。それより、緊急の報告があります」


宰相はため息をつき、一枚の報告書を突きつけた。


「王都の物流が止まりました」


「は? 物流?」


「今朝から、市場に食材が入ってきません。パンも、肉も、野菜もです。原因は、全てのスリープ公爵家傘下の運送業者が『王都への配送ボイコット』を開始したからです」


「な、なんだと!?」


「彼らの言い分はこうです。『当主の愛娘カモミール様が不当に追放されたため、精神的ショックで馬車馬が動かない』と」


「ふざけるな! 馬車馬に感情があるか!」


「建前でしょう。しかし、事実は事実。このままでは三日で王都は干上がります」


宰相の言葉に、アレック王子の顔色から血の気が引いていく。


スリープ公爵家が物流の要であることは知っていたが、まさかこれほど即効性があるとは。


「ど、どうすればいいのだ……父上に知られたら廃嫡にされてしまう!」


「すでに陛下のお耳には入っております。激怒されて『アレックの馬鹿を呼べ』と仰せですが、私がなんとか止めています」


「ひぃぃぃっ!」


「殿下。解決策は一つしかありません」


宰相は冷徹に言い放った。


「今すぐ、カモミール様が残されたという『引き継ぎマニュアル』を探し出し、業務を正常化すること。そして、スリープ公爵家に土下座して謝罪することです」


「ど、土下座だと!? 王太子の私が!?」


「国が滅ぶよりはマシでしょう。……そういえば、カモミール様は去り際に『マニュアルは机の中』と仰っていたそうですが」


「あ、ああ! そうだ、あったはずだ!」


アレック王子は藁にもすがる思いで、机の引き出しを漁った。


カモミールが去り際に言っていた言葉を思い出す。


『読む読まないはご自由に』


あいつのことだ、きっと完璧な手順書を残しているに違いない。


なんだかんだ言っても、あいつは私のことを愛していたのだから!


「あった! これだ!」


一番下の引き出しから、分厚い革表紙のノートが出てきた。


表紙には達筆な文字で『アレック殿下のための公務完全攻略マニュアル』と書かれている。


「おお! やはりカモミールは私のために!」


アレック王子は歓喜の声を上げ、ノートを開いた。


しかし、1ページ目を見た瞬間、彼の表情が凍りついた。


『第1章:まずは己の無能を知れ』


大きく、太い文字でそう書かれていた。


「……な、なんだこれは」


震える手でページをめくる。


『第2章:印鑑を押す前に文章を読め(文字が読めるなら)』


『第3章:女遊びは公務が終わってからにしろ(予算で遊ぶな)』


『第4章:泣きつけば誰かがやってくれると思うな』


「ば、馬鹿にしているのかーっ!!」


アレック王子はノートを床に叩きつけた。


「具体的な手順が一つも書いてないではないか! ただの悪口集だ!」


「……失礼。拝見します」


宰相が床に落ちたノートを拾い上げ、パラパラとめくった。


「……いえ、殿下。後半のページをご覧ください」


「ん?」


宰相が示したページには、びっしりと細かい文字で、条約の抜け穴、貴族たちの派閥相関図、裏帳簿の隠し場所などが記されていた。


しかし、そのすべてが『暗号』で書かれていた。


「こ、これは……?」


「スリープ家独自の商用暗号ですね。解読できるのは、スリープ家の人間か、カモミール様本人だけでしょう」


「意味ないではないかーっ!!」


アレック王子は頭を抱えて叫んだ。


「結局、あいつがいないと何も分からないということか!」


「そういうことですね。カモミール様は、ご自身の重要性を理解させ、復讐するために、あえてこのような形にしたのでしょう。……実に合理的で、素晴らしい性格の悪さです」


宰相はどこか感心したように頷いた。


「他人事みたいに言うな! どうするんだ、この書類の山は!」


「自分でやるしかありません。さあ、ペンを持ってください。今日から不眠不休で働いていただきます」


「い、嫌だ! 私は寝たい! ミナと遊びたい!」


「アレック様ぁ、ミナ、難しいこと分かんなぁい。お城の外でショッピングしたいですぅ」


ミナが無邪気に王子の袖を引っ張る。


「ショッピングなどできるか! 店に商品がないんだぞ!」


アレック王子は初めてミナを怒鳴りつけた。


ミナが「ひどいっ!」と泣き出し、さらに事態は混沌としていく。


「ああ……カモミール……」


書類の雪崩に埋もれながら、アレック王子は元婚約者の名前を呟いた。


いつも眠そうな半眼で、淡々と仕事をこなしていた彼女。


「お前が……お前が必要だ……!」


それは愛ではない。


単なる『労働力への渇望』だった。


しかし、その願いが届くことはない。


なぜなら彼女は今頃、遠い辺境の地で、魔王公爵の腕の中で幸せな二度寝を楽しんでいるのだから。


「殿下、手を動かしてください。今夜は徹夜ですよ」


宰相の無慈悲な宣告が下る。


「いやだぁぁぁぁぁ! カモミールぅぅぅ! 戻ってきてくれぇぇぇ!」


王太子の情けない絶叫が、王城の空に虚しく吸い込まれていった。


一方、その頃。


辺境の『常闇の城』では。


「……くしゅんっ!」


カモミールが可愛らしいくしゃみをした。


「風邪か?」


シルベスターが心配そうに覗き込む。


「いえ、誰かが私の噂をしているようです。……おそらく、地獄に落ちた誰かが」


カモミールはニヤリと笑い、再びふかふかの枕に顔を埋めた。


「まあ、私には関係のないことですね。おやすみなさい」


「ああ、おやすみ。俺の可愛い安眠の女神」


カモミールの平和な睡眠ライフ(仕事中)は、まだしばらく続きそうである。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

婚約破棄したその場から、ざまぁは始まっていました

ふわふわ
恋愛
王国随一の名門、アルファルド公爵家の令嬢シャウラは、 ある日、第一王子アセルスから一方的に婚約を破棄される。 理由はただ一つ―― 「平民出身の聖女と婚約するため」。 だが、その“婚約破棄したその場”で、ざまぁはすでに始まっていた。 シャウラは泣かず、怒らず、抗議もしない。 ただ静かに席を立っただけ。 それだけで―― 王国最大派閥アルファルド派は王子への支持を撤回し、 王国最大の商会は資金提供を打ち切り、 王太子候補だったアセルスは、政治と経済の両方を失っていく。 一方シャウラは、何もしていない。 復讐もしない。断罪もしない。 平穏な日常を送りながら、無自覚のまま派閥の結束を保ち続ける。 そして王国は、 “王太子を立てない”という前代未聞の選択をし、 聡明な第一王女マリーが女王として即位する――。 誰かを裁くことなく、 誰かを蹴落とすことなく、 ただ「席を立った」者だけが、最後まで穏やかでいられた。 これは、 婚約破棄から始まる―― 静かで、上品で、取り返しのつかないざまぁの物語。 「私は何もしていませんわ」 それが、最強の勝利だった。

病弱を演じる妹に婚約者を奪われましたが、大嫌いだったので大助かりです

克全
恋愛
「アルファポリス」「カクヨム」「小説家になろう」「ノベルバ」に同時投稿しています。 『病弱を演じて私から全てを奪う妹よ、全て奪った後で梯子を外してあげます』 メイトランド公爵家の長女キャメロンはずっと不当な扱いを受け続けていた。天性の悪女である妹のブリトニーが病弱を演じて、両親や周りの者を味方につけて、姉キャメロンが受けるはずのモノを全て奪っていた。それはメイトランド公爵家のなかだけでなく、社交界でも同じような状況だった。生まれて直ぐにキャメロンはオーガスト第一王子と婚約していたが、ブリトニーがオーガスト第一王子を誘惑してキャメロンとの婚約を破棄させようとしたいた。だがキャメロンはその機会を捉えて復讐を断行した。

両親に溺愛されて育った妹の顛末

葉柚
恋愛
皇太子妃になるためにと厳しく育てられた私、エミリアとは違い、本来私に与えられるはずだった両親からの愛までも注ぎ込まれて溺愛され育てられた妹のオフィーリア。 オフィーリアは両親からの過剰な愛を受けて愛らしく育ったが、過剰な愛を受けて育ったために次第に世界は自分のためにあると勘違いするようになってしまい……。 「お姉さまはずるいわ。皇太子妃になっていずれはこの国の妃になるのでしょう?」 「私も、この国の頂点に立つ女性になりたいわ。」 「ねえ、お姉さま。私の方が皇太子妃に相応しいと思うの。代わってくださらない?」 妹の要求は徐々にエスカレートしていき、最後には……。

私の手からこぼれ落ちるもの

アズやっこ
恋愛
5歳の時、お父様が亡くなった。 優しくて私やお母様を愛してくれたお父様。私達は仲の良い家族だった。 でもそれは偽りだった。 お父様の書斎にあった手記を見た時、お父様の優しさも愛も、それはただの罪滅ぼしだった。 お父様が亡くなり侯爵家は叔父様に奪われた。侯爵家を追い出されたお母様は心を病んだ。 心を病んだお母様を助けたのは私ではなかった。 私の手からこぼれていくもの、そして最後は私もこぼれていく。 こぼれた私を救ってくれる人はいるのかしら… ❈ 作者独自の世界観です。 ❈ 作者独自の設定です。 ❈ ざまぁはありません。

旦那様。私が悪女ならば、愛人の女は何になるのかしら?

白雲八鈴
恋愛
 我が公爵家主催の夜会の最中。夫が愛人を連れてやってきたのです。そして、私を悪女という理由で離縁を突きつけてきました。  離縁して欲しいというのであれば、今まで支援してきた金額を全額返済していただけません?  あら?愛人の貴女が支払ってくれると?お優しいわね。  私が悪女というのであれば、妻のいる夫の愛人に収まっている貴女は何なのかしら?

【完結】私は聖女の代用品だったらしい

雨雲レーダー
恋愛
異世界に聖女として召喚された紗月。 元の世界に帰る方法を探してくれるというリュミナス王国の王であるアレクの言葉を信じて、聖女として頑張ろうと決意するが、ある日大学の後輩でもあった天音が真の聖女として召喚されてから全てが変わりはじめ、ついには身に覚えのない罪で荒野に置き去りにされてしまう。 絶望の中で手を差し伸べたのは、隣国グランツ帝国の冷酷な皇帝マティアスだった。 「俺のものになれ」 突然の言葉に唖然とするものの、行く場所も帰る場所もない紗月はしぶしぶ着いて行くことに。 だけど帝国での生活は意外と楽しくて、マティアスもそんなにイヤなやつじゃないのかも? 捨てられた聖女と孤高の皇帝が絆を深めていく一方で、リュミナス王国では次々と異変がおこっていた。 ・完結まで予約投稿済みです。 ・1日3回更新(7時・12時・18時)

妹の身代わり人生です。愛してくれた辺境伯の腕の中さえ妹のものになるようです。

桗梛葉 (たなは)
恋愛
タイトルを変更しました。 ※※※※※※※※※※※※※ 双子として生まれたエレナとエレン。 かつては忌み子とされていた双子も何代か前の王によって、そういった扱いは禁止されたはずだった。 だけどいつの時代でも古い因習に囚われてしまう人達がいる。 エレナにとって不幸だったのはそれが実の両親だったということだった。 両親は妹のエレンだけを我が子(長女)として溺愛し、エレナは家族とさえ認められない日々を過ごしていた。 そんな中でエレンのミスによって辺境伯カナトス卿の令息リオネルがケガを負ってしまう。 療養期間の1年間、娘を差し出すよう求めてくるカナトス卿へ両親が差し出したのは、エレンではなくエレナだった。 エレンのフリをして初恋の相手のリオネルの元に向かうエレナは、そんな中でリオネルから優しさをむけてもらえる。 だが、その優しささえも本当はエレンへ向けられたものなのだ。 自分がニセモノだと知っている。 だから、この1年限りの恋をしよう。 そう心に決めてエレナは1年を過ごし始める。 ※※※※※※※※※※※※※ 異世界として、その世界特有の法や産物、鉱物、身分制度がある前提で書いています。 現実と違うな、という場面も多いと思います(すみません💦) ファンタジーという事でゆるくとらえて頂けると助かります💦

悪役令息(冤罪)が婿に来た

花車莉咲
恋愛
前世の記憶を持つイヴァ・クレマー 結婚等そっちのけで仕事に明け暮れていると久しぶりに参加した王家主催のパーティーで王女が婚約破棄!? 王女が婚約破棄した相手は公爵令息? 王女と親しくしていた神の祝福を受けた平民に嫌がらせをした? あれ?もしかして恋愛ゲームの悪役令嬢じゃなくて悪役令息って事!?しかも公爵家の元嫡男って…。 その時改めて婚約破棄されたヒューゴ・ガンダー令息を見た。 彼の顔を見た瞬間強い既視感を感じて前世の記憶を掘り起こし彼の事を思い出す。 そうオタク友達が話していた恋愛小説のキャラクターだった事を。 彼が嫌がらせしたなんて事実はないという事を。 その数日後王家から正式な手紙がくる。 ヒューゴ・ガンダー令息と婚約するようにと「こうなったらヒューゴ様は私が幸せする!!」 イヴァは彼を幸せにする為に奮闘する。 「君は…どうしてそこまでしてくれるんだ?」「貴方に幸せになってほしいからですわ!」 心に傷を負い悪役令息にされた男とそんな彼を幸せにしたい元オタク令嬢によるラブコメディ! ※ざまぁ要素はあると思います。 ※何もかもファンタジーな世界観なのでふわっとしております。

処理中です...