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「おい、ロースト公爵。話がある」
その日の夕刻。
私は図書室の陰で、こっそりと聞き耳を立てていた。
本来なら盗み聞きなど趣味ではないが、内容が私の進退に関わることなら話は別だ。
図書室の中央で対峙しているのは、アーモンド公爵と、ピーナン殿下だ。
殿下はまだ少し顔色が悪いが、それでも王族としての威厳(のようなもの)を取り繕って、アーモンドを睨みつけている。
「なんだ、ピーナン殿下。私はこれから、カシューと『利き塩大会』をする予定なのだが」
アーモンドは面倒くさそうに本を閉じ、ため息をついた。
「手短に頼む。塩が湿気る」
「貴様、ふざけるな! 一国の王子を捕まえて、塩の方が大事だと言うのか!」
「当然だ。王子は代わりがいるかもしれんが、この『幻の岩塩』は採掘量が決まっている」
「ぐぬぬ……!」
相変わらずの切れ味だ。
私は本棚の隙間から、ガッツポーズをした。
しかし、殿下は引かなかった。
彼は一歩踏み出し、声を荒げた。
「単刀直入に言う。カシューを返せ」
「……ほう?」
アーモンドの眉がピクリと動く。
「昨日の今日で、まだそんな寝言を言っているのか? 彼女は断ったはずだが」
「あれは強がりだ! カシューは長年、私の婚約者だったのだぞ。私の好みを一番理解しているのは彼女だ!」
殿下は必死だ。
「マシュはダメだ! あいつは可愛いが、数字が読めん! 公務の書類を見せたら『文字が多すぎて目が回りますぅ』と気絶したのだぞ!」
「それは同情するが」
「それに比べてカシューはどうだ! 愛想はないが、計算は速い。根回しも完璧だ。私の失態も、何も言わずに処理してくれる!」
殿下の熱弁は続く。
「やはり、王妃になるにはカシューのような『実務能力の高い女』が必要なのだ! 愛とか恋とかはマシュで補えばいい。カシューには、私の『管理者』として戻ってきてほしいのだ!」
最低だ。
私は持っていた本(『キノコ図鑑』)の角で、本棚を殴りそうになるのを堪えた。
結局、この男は私を便利な道具としか見ていない。
「……なるほど」
アーモンドの声が、ふっと低くなった。
それまで浮かべていた人を食ったような笑みが、スッと消える。
図書室の空気が、急激に冷えたのを感じた。
「つまり、殿下はこう仰るわけだ。カシュー嬢を愛してはいないが、便利だから手元に置きたい。甘い菓子は別腹で楽しむから、彼女には『塩』として、保存料や防腐剤の役割を果たせ、と?」
「言い方は悪いが、そういうことだ! 適材適所というやつだ!」
殿下は開き直って胸を張った。
「貴様のような変人には勿体無い人材だ。金なら積む。いくら欲しい? カシューを私に譲れ!」
その瞬間だった。
バキッ。
乾いた音が響いた。
アーモンドが手に持っていたハードカバーの本の表紙が、握力だけでへし折れていた。
「……え?」
殿下が目を丸くする。
アーモンドは、ゆっくりと立ち上がった。
長身の彼が立ち上がると、その影が殿下を飲み込むように伸びる。
怒鳴り声はなかった。
しかし、その琥珀色の瞳には、これまで見たこともないほど冷徹で、静かな怒りの炎が宿っていた。
「……譲れ、だと?」
「ひっ……」
「聞き捨てならないな。君は彼女を、市場に並ぶ食材か何かだと思っているのか?」
アーモンドが一歩近づく。
それだけで、殿下が二歩下がる。
圧倒的な威圧感だ。
「彼女は『塩』だと言ったな。……ああ、その通りだ。彼女は塩だ。だが、君のような味音痴には、その本当の価値など一生理解できまい」
「な、なんだと……!」
「塩は、料理の脇役ではない。素材の輪郭を決め、生命力を引き出し、全てを調和させる『核』だ。彼女の厳しさ、彼女の聡明さ、そして彼女の辛辣さは、全て深い愛情と責任感の裏返しだ」
アーモンドは淡々と、しかし重く言葉を紡ぐ。
「君は、その恩恵を一方的に享受しておきながら、彼女を『辛い』『硬い』と切り捨てた。そして今、自分の舌が麻痺したからといって、都合よく戻ってこいと言う」
彼は殿下の目の前まで詰め寄り、見下ろした。
「恥を知れ」
「う……っ!」
「彼女の良さが分からない舌の持ち主に、彼女を渡す気はない。……いや、二度と彼女の名前を口にするな。その口が腐るぞ」
静かな宣告だった。
けれど、それはどんな罵倒よりも恐ろしく、鋭く響いた。
殿下はガタガタと震え、言葉を失っている。
「か、帰る……!」
耐えきれなくなった殿下は、逃げるように背を向けた。
「お、覚えていろ! これは国際問題だぞ! ……マシュぅぅぅ! 怖いよぉぉぉ!」
情けない悲鳴を残して、殿下は図書室から走り去っていった。
静寂が戻る。
アーモンドは、ふぅ、と小さく息を吐いた。
そして、壊れてしまった本を悲しそうに見つめた。
「……やってしまった。初版本だったのに」
いつもの彼に戻っている。
私は鼓動が早まるのを抑えながら、本棚の陰から姿を現した。
「……アーモンド」
「おや、カシュー。いたのか?」
彼はバツが悪そうに頭をかいた。
「見苦しいところを見せたな。……少し、熱くなりすぎた」
「怒っていたんですか?」
「ああ。君を『管理者』扱いしたことが許せなくてね。……君は私の大切な『晩酌の友』だ。道具じゃない」
彼は照れ隠しのように笑った。
「それに、君を返したら、私の料理の味が決まらなくなる。死活問題だ」
相変わらず、食い意地が張った言い訳だ。
でも。
今の彼の背中は、誰よりも大きく、頼もしく見えた。
「……ありがとう」
私が小さく呟くと、彼はきょとんとして、それから優しく微笑んだ。
「礼には及ばんよ。さあ、気を取り直して『利き塩大会』だ。君の舌で、私を負かしてくれ」
「ええ。手加減しませんよ」
私は彼の隣に並んだ。
今まで、彼のことを「ただの変人」だと思っていた。
けれど、この瞬間、私の認識は修正された。
(……変人だけど、かっこいい変人だわ)
初めて感じる胸のときめきに、私は気づかないふりをして、彼のエスコートに身を委ねたのだった。
その日の夕刻。
私は図書室の陰で、こっそりと聞き耳を立てていた。
本来なら盗み聞きなど趣味ではないが、内容が私の進退に関わることなら話は別だ。
図書室の中央で対峙しているのは、アーモンド公爵と、ピーナン殿下だ。
殿下はまだ少し顔色が悪いが、それでも王族としての威厳(のようなもの)を取り繕って、アーモンドを睨みつけている。
「なんだ、ピーナン殿下。私はこれから、カシューと『利き塩大会』をする予定なのだが」
アーモンドは面倒くさそうに本を閉じ、ため息をついた。
「手短に頼む。塩が湿気る」
「貴様、ふざけるな! 一国の王子を捕まえて、塩の方が大事だと言うのか!」
「当然だ。王子は代わりがいるかもしれんが、この『幻の岩塩』は採掘量が決まっている」
「ぐぬぬ……!」
相変わらずの切れ味だ。
私は本棚の隙間から、ガッツポーズをした。
しかし、殿下は引かなかった。
彼は一歩踏み出し、声を荒げた。
「単刀直入に言う。カシューを返せ」
「……ほう?」
アーモンドの眉がピクリと動く。
「昨日の今日で、まだそんな寝言を言っているのか? 彼女は断ったはずだが」
「あれは強がりだ! カシューは長年、私の婚約者だったのだぞ。私の好みを一番理解しているのは彼女だ!」
殿下は必死だ。
「マシュはダメだ! あいつは可愛いが、数字が読めん! 公務の書類を見せたら『文字が多すぎて目が回りますぅ』と気絶したのだぞ!」
「それは同情するが」
「それに比べてカシューはどうだ! 愛想はないが、計算は速い。根回しも完璧だ。私の失態も、何も言わずに処理してくれる!」
殿下の熱弁は続く。
「やはり、王妃になるにはカシューのような『実務能力の高い女』が必要なのだ! 愛とか恋とかはマシュで補えばいい。カシューには、私の『管理者』として戻ってきてほしいのだ!」
最低だ。
私は持っていた本(『キノコ図鑑』)の角で、本棚を殴りそうになるのを堪えた。
結局、この男は私を便利な道具としか見ていない。
「……なるほど」
アーモンドの声が、ふっと低くなった。
それまで浮かべていた人を食ったような笑みが、スッと消える。
図書室の空気が、急激に冷えたのを感じた。
「つまり、殿下はこう仰るわけだ。カシュー嬢を愛してはいないが、便利だから手元に置きたい。甘い菓子は別腹で楽しむから、彼女には『塩』として、保存料や防腐剤の役割を果たせ、と?」
「言い方は悪いが、そういうことだ! 適材適所というやつだ!」
殿下は開き直って胸を張った。
「貴様のような変人には勿体無い人材だ。金なら積む。いくら欲しい? カシューを私に譲れ!」
その瞬間だった。
バキッ。
乾いた音が響いた。
アーモンドが手に持っていたハードカバーの本の表紙が、握力だけでへし折れていた。
「……え?」
殿下が目を丸くする。
アーモンドは、ゆっくりと立ち上がった。
長身の彼が立ち上がると、その影が殿下を飲み込むように伸びる。
怒鳴り声はなかった。
しかし、その琥珀色の瞳には、これまで見たこともないほど冷徹で、静かな怒りの炎が宿っていた。
「……譲れ、だと?」
「ひっ……」
「聞き捨てならないな。君は彼女を、市場に並ぶ食材か何かだと思っているのか?」
アーモンドが一歩近づく。
それだけで、殿下が二歩下がる。
圧倒的な威圧感だ。
「彼女は『塩』だと言ったな。……ああ、その通りだ。彼女は塩だ。だが、君のような味音痴には、その本当の価値など一生理解できまい」
「な、なんだと……!」
「塩は、料理の脇役ではない。素材の輪郭を決め、生命力を引き出し、全てを調和させる『核』だ。彼女の厳しさ、彼女の聡明さ、そして彼女の辛辣さは、全て深い愛情と責任感の裏返しだ」
アーモンドは淡々と、しかし重く言葉を紡ぐ。
「君は、その恩恵を一方的に享受しておきながら、彼女を『辛い』『硬い』と切り捨てた。そして今、自分の舌が麻痺したからといって、都合よく戻ってこいと言う」
彼は殿下の目の前まで詰め寄り、見下ろした。
「恥を知れ」
「う……っ!」
「彼女の良さが分からない舌の持ち主に、彼女を渡す気はない。……いや、二度と彼女の名前を口にするな。その口が腐るぞ」
静かな宣告だった。
けれど、それはどんな罵倒よりも恐ろしく、鋭く響いた。
殿下はガタガタと震え、言葉を失っている。
「か、帰る……!」
耐えきれなくなった殿下は、逃げるように背を向けた。
「お、覚えていろ! これは国際問題だぞ! ……マシュぅぅぅ! 怖いよぉぉぉ!」
情けない悲鳴を残して、殿下は図書室から走り去っていった。
静寂が戻る。
アーモンドは、ふぅ、と小さく息を吐いた。
そして、壊れてしまった本を悲しそうに見つめた。
「……やってしまった。初版本だったのに」
いつもの彼に戻っている。
私は鼓動が早まるのを抑えながら、本棚の陰から姿を現した。
「……アーモンド」
「おや、カシュー。いたのか?」
彼はバツが悪そうに頭をかいた。
「見苦しいところを見せたな。……少し、熱くなりすぎた」
「怒っていたんですか?」
「ああ。君を『管理者』扱いしたことが許せなくてね。……君は私の大切な『晩酌の友』だ。道具じゃない」
彼は照れ隠しのように笑った。
「それに、君を返したら、私の料理の味が決まらなくなる。死活問題だ」
相変わらず、食い意地が張った言い訳だ。
でも。
今の彼の背中は、誰よりも大きく、頼もしく見えた。
「……ありがとう」
私が小さく呟くと、彼はきょとんとして、それから優しく微笑んだ。
「礼には及ばんよ。さあ、気を取り直して『利き塩大会』だ。君の舌で、私を負かしてくれ」
「ええ。手加減しませんよ」
私は彼の隣に並んだ。
今まで、彼のことを「ただの変人」だと思っていた。
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