15 / 28
15
しおりを挟む
「カシュー。今日は市場へ行こう。新鮮な『スモークサーモンの原木』が入荷したらしい」
昨夜の「図書室の激昂」から一夜明け。
アーモンド公爵は、何事もなかったかのように爽やかな笑顔で私を誘ってきた。
「原木って、サーモンは木に生えませんよ」
「比喩だ。それくらい巨大で立派だということだ」
「……行きます。私の目で確かめないと気が済みません」
私は即答した。
昨夜、彼の背中にかっこよさを感じてしまったことは、一旦脳内の「要冷凍」フォルダに保存して凍結することにした。
意識しすぎると、調子が狂う。
今は食欲を優先すべきだ。
* * *
ロースト公爵領の市場は、朝から活気に満ちていた。
威勢のいい掛け声、スパイスの香り、そして焼きたてのパンの匂い。
私たちは変装もせず(アーモンドが「美貌を隠すのは罪だ」と言ったため)、人混みの中を歩いていた。
「見ろ、カシュー! あのチーズの山! エベレストのようだ!」
「あれは積みすぎです。崩落事故が起きます」
「おっと、こっちには巨大なソーセージが! まるで丸太だ!」
「だから例えがいちいち建築資材なんですよ」
彼は子供のようにはしゃぎ回り、次々と食材を買い込んでいく。
後ろをついてくるペッパー執事と数名の従者が、荷物持ちとしてすでに埋もれかけていた。
「……公爵様。少し買いすぎでは?」
「何を言う。今日は『記念日』だぞ」
「ん? 何のですか?」
「君が私に惚れ直した記念日だ」
彼はニカっと笑ってウインクした。
私はカッと顔が熱くなるのを感じた。
「……自意識過剰です。昨日のあれは、照明の加減で少しマシに見えただけです」
「照れるな照れるな。私の魅力に気づくのが遅いくらいだ」
「うるさいですね! あっちの魚屋を見てきます!」
私はたまらず、彼から逃げるように早足で歩き出した。
心臓が少し早く打っている。
悔しい。
あの変人の言う通り、私は確かに少し動揺しているのだ。
(落ち着きなさい、カシューナッツ。相手は『おつまみ狂』よ。人間としてのスペックは高いけど、中身は燻製されているのよ)
自分に言い聞かせながら、人混みをかき分けて進む。
その時だった。
「どいてくれぇぇぇ! ブレーキが利かねぇぇぇ!」
前方から、切迫した怒鳴り声が聞こえた。
顔を上げると、野菜を満載した荷車が、坂道を猛スピードで下ってくるのが見えた。
人々が悲鳴を上げて左右に散らばる。
しかし、考え事をしていた私は反応が遅れた。
「え……?」
目の前に迫る、巨大なカボチャの山。
足がすくんで動かない。
(あ、これぶつかる)
冷静にそう判断した瞬間。
「カシュー!!」
誰かが私の名前を叫んだ。
次の瞬間、強い力で腕を引かれた。
視界がぐるりと回転する。
ドンッ!
鈍い衝撃と共に、私は誰かの胸の中に抱きすくめられていた。
すぐ横を、荷車が轟音を立てて通り過ぎていく。
ガシャーン! と何かが砕ける音が遠くでした。
「……っ」
私は目を開けた。
目の前には、黒いコートの生地があった。
そして、鼻をくすぐる微かな香り。
燻製の煙と、高級なコロンが混じった、アーモンド公爵独特の匂いだ。
「……大丈夫か?」
頭上から降ってきた声は、いつものふざけたトーンではなかった。
低く、震えるような、真剣な声。
恐る恐る顔を上げると、アーモンド公爵が私を覗き込んでいた。
その顔が、近かった。
あまりにも近い。
整った鼻筋、長い睫毛、そして私を案じる琥珀色の瞳。
いつもは緩んでいる口元が、今は真一文字に結ばれている。
「け、怪我は……」
「ない。君は無事か? どこか痛むところは?」
彼は私の肩を強く掴み、頭から爪先まで視線を走らせた。
その必死な様子に、私の喉がキュッと詰まった。
「……へ、平気です。貴方が助けてくれたから」
「よかった……」
彼は深く安堵の息を吐き、私をさらに強く抱きしめた。
「本当によかった……! もし君に何かあったら、私は一生、カボチャを恨むところだった!」
「……そこはカボチャなんですね」
ツッコミを入れる声が、自分でも驚くほど弱々しかった。
彼の腕の中は温かく、心臓の音がトクトクと早く打っているのが聞こえる。
それが、彼の鼓動なのか、私の鼓動なのか、区別がつかなかった。
(……あれ?)
おかしい。
離れなきゃいけないのに、体が動かない。
むしろ、この安心感に浸っていたいと思ってしまう。
ふと、彼が顔を上げた。
朝日が逆光になって、彼の金髪がキラキラと輝いている。
汗ばんだ額。
乱れた襟元。
私を守るために必死になってくれた、その姿。
(……うそ)
私は認めたくなくて、目を逸らした。
でも、脳内の「冷静沈着なカシューナッツ会議」が、満場一致で可決してしまった。
『かっこいい』と。
「……カシュー? 顔が赤いぞ。やはりどこか打ったのか?」
彼が心配そうに私のおでこに手を当てる。
その冷たい手の感触に、さらに顔が熱くなる。
「ち、違います! 暑いだけです!」
私はパッと彼を突き飛ばした。
「そ、そんなにくっつかないでください! 燻製臭いのが移ります!」
「ひどいな! 命の恩人に対して!」
「とにかく! 助けてくれて……その、ありがとうございました!」
私はお礼だけ叫ぶと、逃げるように背を向けた。
心臓がうるさい。
ドラムロールみたいに鳴り響いている。
(なんなのよ、もう……!)
ピーナン殿下には一度も感じたことのない、この胸のざわめき。
これが「ときめき」というやつなのだろうか。
いや、違う。
きっとこれは、急激な運動による不整脈だ。
あるいは、朝食のコーヒーのカフェイン過剰摂取だ。
そうに決まっている。
「おーい、カシュー! 待ってくれ!」
背後から彼が追いかけてくる。
「危ないから手を繋ごう! 逸れたら大変だ!」
「子供扱いしないでください!」
「いや、君は私の『大事なスルメ』だ。誰かに噛まれる前に保護しなければ!」
「やっぱり食材扱いじゃないですか!」
いつもの軽口の応酬。
でも、差し出されたその大きな手を、私は振り払うことができなかった。
「……今回だけですからね」
「ん? 何か言ったか?」
「……なんでもありません!」
私はぶっきらぼうに彼の手を握り返した。
彼の手は大きくて、やっぱり少し硬くて、安心する温度だった。
「へへっ」
彼が嬉しそうに笑う。
その笑顔を見て、私もつられて少しだけ笑ってしまった。
(……まあ、悪くないかもね)
私の「おつまみ生活」に、予期せぬ「甘酸っぱいスパイス(恋心)」が混入してしまった瞬間だった。
もちろん、この直後にマシュ・マロが「市場デートなんてズルいですぅ!」と乱入してきて、ムードが台無しになるのだが。
昨夜の「図書室の激昂」から一夜明け。
アーモンド公爵は、何事もなかったかのように爽やかな笑顔で私を誘ってきた。
「原木って、サーモンは木に生えませんよ」
「比喩だ。それくらい巨大で立派だということだ」
「……行きます。私の目で確かめないと気が済みません」
私は即答した。
昨夜、彼の背中にかっこよさを感じてしまったことは、一旦脳内の「要冷凍」フォルダに保存して凍結することにした。
意識しすぎると、調子が狂う。
今は食欲を優先すべきだ。
* * *
ロースト公爵領の市場は、朝から活気に満ちていた。
威勢のいい掛け声、スパイスの香り、そして焼きたてのパンの匂い。
私たちは変装もせず(アーモンドが「美貌を隠すのは罪だ」と言ったため)、人混みの中を歩いていた。
「見ろ、カシュー! あのチーズの山! エベレストのようだ!」
「あれは積みすぎです。崩落事故が起きます」
「おっと、こっちには巨大なソーセージが! まるで丸太だ!」
「だから例えがいちいち建築資材なんですよ」
彼は子供のようにはしゃぎ回り、次々と食材を買い込んでいく。
後ろをついてくるペッパー執事と数名の従者が、荷物持ちとしてすでに埋もれかけていた。
「……公爵様。少し買いすぎでは?」
「何を言う。今日は『記念日』だぞ」
「ん? 何のですか?」
「君が私に惚れ直した記念日だ」
彼はニカっと笑ってウインクした。
私はカッと顔が熱くなるのを感じた。
「……自意識過剰です。昨日のあれは、照明の加減で少しマシに見えただけです」
「照れるな照れるな。私の魅力に気づくのが遅いくらいだ」
「うるさいですね! あっちの魚屋を見てきます!」
私はたまらず、彼から逃げるように早足で歩き出した。
心臓が少し早く打っている。
悔しい。
あの変人の言う通り、私は確かに少し動揺しているのだ。
(落ち着きなさい、カシューナッツ。相手は『おつまみ狂』よ。人間としてのスペックは高いけど、中身は燻製されているのよ)
自分に言い聞かせながら、人混みをかき分けて進む。
その時だった。
「どいてくれぇぇぇ! ブレーキが利かねぇぇぇ!」
前方から、切迫した怒鳴り声が聞こえた。
顔を上げると、野菜を満載した荷車が、坂道を猛スピードで下ってくるのが見えた。
人々が悲鳴を上げて左右に散らばる。
しかし、考え事をしていた私は反応が遅れた。
「え……?」
目の前に迫る、巨大なカボチャの山。
足がすくんで動かない。
(あ、これぶつかる)
冷静にそう判断した瞬間。
「カシュー!!」
誰かが私の名前を叫んだ。
次の瞬間、強い力で腕を引かれた。
視界がぐるりと回転する。
ドンッ!
鈍い衝撃と共に、私は誰かの胸の中に抱きすくめられていた。
すぐ横を、荷車が轟音を立てて通り過ぎていく。
ガシャーン! と何かが砕ける音が遠くでした。
「……っ」
私は目を開けた。
目の前には、黒いコートの生地があった。
そして、鼻をくすぐる微かな香り。
燻製の煙と、高級なコロンが混じった、アーモンド公爵独特の匂いだ。
「……大丈夫か?」
頭上から降ってきた声は、いつものふざけたトーンではなかった。
低く、震えるような、真剣な声。
恐る恐る顔を上げると、アーモンド公爵が私を覗き込んでいた。
その顔が、近かった。
あまりにも近い。
整った鼻筋、長い睫毛、そして私を案じる琥珀色の瞳。
いつもは緩んでいる口元が、今は真一文字に結ばれている。
「け、怪我は……」
「ない。君は無事か? どこか痛むところは?」
彼は私の肩を強く掴み、頭から爪先まで視線を走らせた。
その必死な様子に、私の喉がキュッと詰まった。
「……へ、平気です。貴方が助けてくれたから」
「よかった……」
彼は深く安堵の息を吐き、私をさらに強く抱きしめた。
「本当によかった……! もし君に何かあったら、私は一生、カボチャを恨むところだった!」
「……そこはカボチャなんですね」
ツッコミを入れる声が、自分でも驚くほど弱々しかった。
彼の腕の中は温かく、心臓の音がトクトクと早く打っているのが聞こえる。
それが、彼の鼓動なのか、私の鼓動なのか、区別がつかなかった。
(……あれ?)
おかしい。
離れなきゃいけないのに、体が動かない。
むしろ、この安心感に浸っていたいと思ってしまう。
ふと、彼が顔を上げた。
朝日が逆光になって、彼の金髪がキラキラと輝いている。
汗ばんだ額。
乱れた襟元。
私を守るために必死になってくれた、その姿。
(……うそ)
私は認めたくなくて、目を逸らした。
でも、脳内の「冷静沈着なカシューナッツ会議」が、満場一致で可決してしまった。
『かっこいい』と。
「……カシュー? 顔が赤いぞ。やはりどこか打ったのか?」
彼が心配そうに私のおでこに手を当てる。
その冷たい手の感触に、さらに顔が熱くなる。
「ち、違います! 暑いだけです!」
私はパッと彼を突き飛ばした。
「そ、そんなにくっつかないでください! 燻製臭いのが移ります!」
「ひどいな! 命の恩人に対して!」
「とにかく! 助けてくれて……その、ありがとうございました!」
私はお礼だけ叫ぶと、逃げるように背を向けた。
心臓がうるさい。
ドラムロールみたいに鳴り響いている。
(なんなのよ、もう……!)
ピーナン殿下には一度も感じたことのない、この胸のざわめき。
これが「ときめき」というやつなのだろうか。
いや、違う。
きっとこれは、急激な運動による不整脈だ。
あるいは、朝食のコーヒーのカフェイン過剰摂取だ。
そうに決まっている。
「おーい、カシュー! 待ってくれ!」
背後から彼が追いかけてくる。
「危ないから手を繋ごう! 逸れたら大変だ!」
「子供扱いしないでください!」
「いや、君は私の『大事なスルメ』だ。誰かに噛まれる前に保護しなければ!」
「やっぱり食材扱いじゃないですか!」
いつもの軽口の応酬。
でも、差し出されたその大きな手を、私は振り払うことができなかった。
「……今回だけですからね」
「ん? 何か言ったか?」
「……なんでもありません!」
私はぶっきらぼうに彼の手を握り返した。
彼の手は大きくて、やっぱり少し硬くて、安心する温度だった。
「へへっ」
彼が嬉しそうに笑う。
その笑顔を見て、私もつられて少しだけ笑ってしまった。
(……まあ、悪くないかもね)
私の「おつまみ生活」に、予期せぬ「甘酸っぱいスパイス(恋心)」が混入してしまった瞬間だった。
もちろん、この直後にマシュ・マロが「市場デートなんてズルいですぅ!」と乱入してきて、ムードが台無しになるのだが。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】白い結婚はあなたへの導き
白雨 音
恋愛
妹ルイーズに縁談が来たが、それは妹の望みでは無かった。
彼女は姉アリスの婚約者、フィリップと想い合っていると告白する。
何も知らずにいたアリスは酷くショックを受ける。
先方が承諾した事で、アリスの気持ちは置き去りに、婚約者を入れ換えられる事になってしまった。
悲しみに沈むアリスに、夫となる伯爵は告げた、「これは白い結婚だ」と。
運命は回り始めた、アリスが辿り着く先とは… ◇異世界:短編16話《完結しました》
《完結》愛する人と結婚するだけが愛じゃない
ぜらちん黒糖
恋愛
オリビアはジェームズとこのまま結婚するだろうと思っていた。
ある日、可愛がっていた後輩のマリアから「先輩と別れて下さい」とオリビアは言われた。
ジェームズに確かめようと部屋に行くと、そこにはジェームズとマリアがベッドで抱き合っていた。
ショックのあまり部屋を飛び出したオリビアだったが、気がつくと走る馬車の前を歩いていた。
【完結】薔薇の花をあなたに贈ります
彩華(あやはな)
恋愛
レティシアは階段から落ちた。
目を覚ますと、何かがおかしかった。それは婚約者である殿下を覚えていなかったのだ。
ロベルトは、レティシアとの婚約解消になり、聖女ミランダとの婚約することになる。
たが、それに違和感を抱くようになる。
ロベルト殿下視点がおもになります。
前作を多少引きずってはいますが、今回は暗くはないです!!
11話完結です。
この度改編した(ストーリーは変わらず)をなろうさんに投稿しました。
私ってわがまま傲慢令嬢なんですか?
山科ひさき
恋愛
政略的に結ばれた婚約とはいえ、婚約者のアランとはそれなりにうまくやれていると思っていた。けれどある日、メアリはアランが自分のことを「わがままで傲慢」だと友人に話している場面に居合わせてしまう。話を聞いていると、なぜかアランはこの婚約がメアリのわがままで結ばれたものだと誤解しているようで……。
あなたのことなんて、もうどうでもいいです
もるだ
恋愛
舞踏会でレオニーに突きつけられたのは婚約破棄だった。婚約者の相手にぶつかられて派手に転んだせいで、大騒ぎになったのに……。日々の業務を押しつけられ怒鳴りつけられいいように扱われていたレオニーは限界を迎える。そして、気がつくと魔法が使えるようになっていた。
元婚約者にこき使われていたレオニーは復讐を始める。
【完結】ずっと、ずっとあなたを愛していました 〜後悔も、懺悔も今更いりません〜
高瀬船
恋愛
リスティアナ・メイブルムには二歳年上の婚約者が居る。
婚約者は、国の王太子で穏やかで優しく、婚約は王命ではあったが仲睦まじく関係を築けていた。
それなのに、突然ある日婚約者である王太子からは土下座をされ、婚約を解消して欲しいと願われる。
何故、そんな事に。
優しく微笑むその笑顔を向ける先は確かに自分に向けられていたのに。
婚約者として確かに大切にされていたのに何故こうなってしまったのか。
リスティアナの思いとは裏腹に、ある時期からリスティアナに悪い噂が立ち始める。
悪い噂が立つ事など何もしていないのにも関わらず、リスティアナは次第に学園で、夜会で、孤立していく。
セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。
もう散々泣いて悔やんだから、過去に戻ったら絶対に間違えない
もーりんもも
恋愛
セラフィネは一目惚れで結婚した夫に裏切られ、満足な食事も与えられず自宅に軟禁されていた。
……私が馬鹿だった。それは分かっているけど悔しい。夫と出会う前からやり直したい。 そのチャンスを手に入れたセラフィネは復讐を誓う――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる