塩対応の悪役令嬢は砕けない!

猫宮かろん

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「カシュー。今日は市場へ行こう。新鮮な『スモークサーモンの原木』が入荷したらしい」

昨夜の「図書室の激昂」から一夜明け。

アーモンド公爵は、何事もなかったかのように爽やかな笑顔で私を誘ってきた。

「原木って、サーモンは木に生えませんよ」

「比喩だ。それくらい巨大で立派だということだ」

「……行きます。私の目で確かめないと気が済みません」

私は即答した。

昨夜、彼の背中にかっこよさを感じてしまったことは、一旦脳内の「要冷凍」フォルダに保存して凍結することにした。

意識しすぎると、調子が狂う。

今は食欲を優先すべきだ。

   *   *   *

ロースト公爵領の市場は、朝から活気に満ちていた。

威勢のいい掛け声、スパイスの香り、そして焼きたてのパンの匂い。

私たちは変装もせず(アーモンドが「美貌を隠すのは罪だ」と言ったため)、人混みの中を歩いていた。

「見ろ、カシュー! あのチーズの山! エベレストのようだ!」

「あれは積みすぎです。崩落事故が起きます」

「おっと、こっちには巨大なソーセージが! まるで丸太だ!」

「だから例えがいちいち建築資材なんですよ」

彼は子供のようにはしゃぎ回り、次々と食材を買い込んでいく。

後ろをついてくるペッパー執事と数名の従者が、荷物持ちとしてすでに埋もれかけていた。

「……公爵様。少し買いすぎでは?」

「何を言う。今日は『記念日』だぞ」

「ん? 何のですか?」

「君が私に惚れ直した記念日だ」

彼はニカっと笑ってウインクした。

私はカッと顔が熱くなるのを感じた。

「……自意識過剰です。昨日のあれは、照明の加減で少しマシに見えただけです」

「照れるな照れるな。私の魅力に気づくのが遅いくらいだ」

「うるさいですね! あっちの魚屋を見てきます!」

私はたまらず、彼から逃げるように早足で歩き出した。

心臓が少し早く打っている。

悔しい。

あの変人の言う通り、私は確かに少し動揺しているのだ。

(落ち着きなさい、カシューナッツ。相手は『おつまみ狂』よ。人間としてのスペックは高いけど、中身は燻製されているのよ)

自分に言い聞かせながら、人混みをかき分けて進む。

その時だった。

「どいてくれぇぇぇ! ブレーキが利かねぇぇぇ!」

前方から、切迫した怒鳴り声が聞こえた。

顔を上げると、野菜を満載した荷車が、坂道を猛スピードで下ってくるのが見えた。

人々が悲鳴を上げて左右に散らばる。

しかし、考え事をしていた私は反応が遅れた。

「え……?」

目の前に迫る、巨大なカボチャの山。

足がすくんで動かない。

(あ、これぶつかる)

冷静にそう判断した瞬間。

「カシュー!!」

誰かが私の名前を叫んだ。

次の瞬間、強い力で腕を引かれた。

視界がぐるりと回転する。

ドンッ!

鈍い衝撃と共に、私は誰かの胸の中に抱きすくめられていた。

すぐ横を、荷車が轟音を立てて通り過ぎていく。

ガシャーン! と何かが砕ける音が遠くでした。

「……っ」

私は目を開けた。

目の前には、黒いコートの生地があった。

そして、鼻をくすぐる微かな香り。

燻製の煙と、高級なコロンが混じった、アーモンド公爵独特の匂いだ。

「……大丈夫か?」

頭上から降ってきた声は、いつものふざけたトーンではなかった。

低く、震えるような、真剣な声。

恐る恐る顔を上げると、アーモンド公爵が私を覗き込んでいた。

その顔が、近かった。

あまりにも近い。

整った鼻筋、長い睫毛、そして私を案じる琥珀色の瞳。

いつもは緩んでいる口元が、今は真一文字に結ばれている。

「け、怪我は……」

「ない。君は無事か? どこか痛むところは?」

彼は私の肩を強く掴み、頭から爪先まで視線を走らせた。

その必死な様子に、私の喉がキュッと詰まった。

「……へ、平気です。貴方が助けてくれたから」

「よかった……」

彼は深く安堵の息を吐き、私をさらに強く抱きしめた。

「本当によかった……! もし君に何かあったら、私は一生、カボチャを恨むところだった!」

「……そこはカボチャなんですね」

ツッコミを入れる声が、自分でも驚くほど弱々しかった。

彼の腕の中は温かく、心臓の音がトクトクと早く打っているのが聞こえる。

それが、彼の鼓動なのか、私の鼓動なのか、区別がつかなかった。

(……あれ?)

おかしい。

離れなきゃいけないのに、体が動かない。

むしろ、この安心感に浸っていたいと思ってしまう。

ふと、彼が顔を上げた。

朝日が逆光になって、彼の金髪がキラキラと輝いている。

汗ばんだ額。

乱れた襟元。

私を守るために必死になってくれた、その姿。

(……うそ)

私は認めたくなくて、目を逸らした。

でも、脳内の「冷静沈着なカシューナッツ会議」が、満場一致で可決してしまった。

『かっこいい』と。

「……カシュー? 顔が赤いぞ。やはりどこか打ったのか?」

彼が心配そうに私のおでこに手を当てる。

その冷たい手の感触に、さらに顔が熱くなる。

「ち、違います! 暑いだけです!」

私はパッと彼を突き飛ばした。

「そ、そんなにくっつかないでください! 燻製臭いのが移ります!」

「ひどいな! 命の恩人に対して!」

「とにかく! 助けてくれて……その、ありがとうございました!」

私はお礼だけ叫ぶと、逃げるように背を向けた。

心臓がうるさい。

ドラムロールみたいに鳴り響いている。

(なんなのよ、もう……!)

ピーナン殿下には一度も感じたことのない、この胸のざわめき。

これが「ときめき」というやつなのだろうか。

いや、違う。

きっとこれは、急激な運動による不整脈だ。

あるいは、朝食のコーヒーのカフェイン過剰摂取だ。

そうに決まっている。

「おーい、カシュー! 待ってくれ!」

背後から彼が追いかけてくる。

「危ないから手を繋ごう! 逸れたら大変だ!」

「子供扱いしないでください!」

「いや、君は私の『大事なスルメ』だ。誰かに噛まれる前に保護しなければ!」

「やっぱり食材扱いじゃないですか!」

いつもの軽口の応酬。

でも、差し出されたその大きな手を、私は振り払うことができなかった。

「……今回だけですからね」

「ん? 何か言ったか?」

「……なんでもありません!」

私はぶっきらぼうに彼の手を握り返した。

彼の手は大きくて、やっぱり少し硬くて、安心する温度だった。

「へへっ」

彼が嬉しそうに笑う。

その笑顔を見て、私もつられて少しだけ笑ってしまった。

(……まあ、悪くないかもね)

私の「おつまみ生活」に、予期せぬ「甘酸っぱいスパイス(恋心)」が混入してしまった瞬間だった。

もちろん、この直後にマシュ・マロが「市場デートなんてズルいですぅ!」と乱入してきて、ムードが台無しになるのだが。
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