塩対応の悪役令嬢は砕けない!

猫宮かろん

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「ひぃぃぃ! み、水がぁぁぁ!」

王宮の中庭。

私が落とした鉢植えの直撃(に近い水しぶき)を受けたピーナン殿下は、情けない声を上げて逃げ惑っていた。

隣にいたマシュ・マロも、泥水でピンク色のドレスが茶色く汚れ、半泣きになっている。

「な、なんなんですかぁ! 空から降ってくるなんて聞いてませんよぉ!」

「お黙りなさい。天罰は予告なしに降るものです」

私はソルトを従え、悠然と中庭に降り立った。

コツ、コツ、とヒールの音が響く。

その音を聞くたびに、殿下の肩がビクリと震える。

「カ、カシュー……! 貴様、王族に向かってなんという狼藉を……!」

「狼藉? 人聞きが悪いですね。私はただ、熱くなりすぎたお二人の頭を冷やして差し上げただけです」

私は殿下の目の前で立ち止まり、手に持っていた請求書の束を突きつけた。

「さあ、殿下。感動の再会はこれくらいにして、お仕事の話をしましょうか」

「し、仕事だと……?」

「ええ。貴方が一方的に停止させた、ナッツ領への塩の供給についてです」

私が書類をめくると、殿下はバツが悪そうに視線を逸らした。

「ふん……。やっとその話をする気になったか。私がどれほど待ちわびていたか……」

「待ちわびていた? 貴方は私が『塩がなくて困りました、殿下助けてください』と泣きついてくるのを待っていたのでしょう?」

「そ、そうだ! 貴様はプライドが高いからな! これくらい荒療治をしないと、私の元へ戻ってこないと思ったのだ!」

殿下は濡れた髪をかき上げ、開き直ったように言った。

「どうだ、参っただろう? 塩がなければ、貴様の実家は終わりだ。……さあ、今すぐ私の靴にキスをして詫びるなら、供給を再開してやらんでもないぞ!」

最低だ。

この男は、自分の権力を「元カノを振り向かせる道具」として使ったのだ。

私は怒りを通り越して、冷え冷えとした感情しか湧かなかった。

「……殿下。一つ、勘違いをなさっていませんか?」

「勘違い?」

「これは『恋の駆け引き』ではありません。『通商条約違反』という、立派な犯罪行為です」

私は請求書の一枚を抜き取り、殿下の顔の前に掲げた。

「貴方が止めた塩の供給は、王家とナッツ侯爵家の間で結ばれた『永代供給契約』に基づいています。正当な理由なくこれを停止した場合、違約金が発生します」

「い、違約金だと……?」

「はい。その額、金貨5万枚。さらに、この数日間の操業停止による損害賠償、腐敗した在庫の補填、そして私の精神的苦痛への慰謝料を合わせると……」

私はニッコリと微笑んだ。

「総額、国家予算の3%に相当します」

「さっ、3%ぉぉぉ!?」

殿下が裏返った声を上げた。

横で聞いていたマシュも、目を白黒させている。

「な、なんですかその金額ぅ! ドレスが何万着買えるんですかぁ!?」

「貴女のドレスなどどうでもいいです。……殿下、払えますか? 今すぐに」

「は、払えるわけがあるまい! そんな大金!」

「でしょうね。貴方の小遣いでは、一生かかっても無理でしょう」

私は冷徹に告げた。

「払えないなら、即刻、塩の供給を再開してください。そして、正式な謝罪文を書いていただきます」

「しゃ、謝罪文だと!? この私が!?」

「嫌なら、この請求書を持って国王陛下の元へ参ります。……『第二王子が私情で経済制裁を行い、国庫に穴を空けようとしています』と報告しますが、よろしいですか?」

「ま、待て! 父上に知られたら廃嫡されてしまう!」

殿下の顔色が、泥水よりも土色になった。

彼はガタガタと震えながら、後ずさりする。

「卑怯だぞカシュー! もっとこう、情に訴えるとかないのか! 『愛していたから戻りたかったんです』と言えば、私も悪い気はしなかったのに!」

「愛? 寝言は寝て言ってください」

私は一歩踏み出した。

殿下が「ひぃっ」と悲鳴を上げる。

「貴方がやったことは、愛ではありません。ただの『支配』です。自分の思い通りにならないからといって、相手の弱みを握り、脅して従わせようとする……それは三流の悪役がやることです」

「うぐっ……」

「私はカシュー・ナッツ。硬くて、噛みごたえがあって、貴方の思い通りにならない女です。……塩を止めたくらいで、私が折れると思いましたか?」

私の眼光に射抜かれ、殿下はへなへなと地面に座り込んだ。

「か、勝てない……。やはり、この女には勝てない……」

「わかればよろしい。……ソルト、筆記用具を」

「はい、お嬢様」

ソルトが懐から羊皮紙とペンを取り出す。

私はそれを殿下の前に放り投げた。

「さあ、サインしてください。『塩の供給再開』と『今後一切の干渉をしない』旨の誓約書です」

「くっ……くそぅ……!」

殿下は震える手でペンを握った。

その姿は、あまりにも小さく、哀れだった。

「殿下ぁ……サインしちゃうんですかぁ?」

マシュが心配そうに覗き込む。

「仕方ないだろう! 廃嫡されたら、お前にも贅沢させてやれなくなるんだぞ!」

「それは困りますぅ!」

二人はブツブツ言いながら、誓約書に向かった。

これで終わった。

そう思った、その時だった。

「……お待ちください」

不意に、マシュ・マロが声を上げた。

彼女は誓約書を押さえつけ、殿下のサインを止めたのだ。

「マシュ? 何をしている?」

「殿下。……この誓約書、サインしちゃダメです」

マシュの声色が、いつもの甘ったるいトーンとは違っていた。

低く、冷たく、そして妙に落ち着いている。

「は? 何を言って……」

「だってぇ。これを書いちゃったら、もうナッツ家を揺さぶれないじゃないですかぁ」

マシュはゆっくりと顔を上げた。

その瞳から、いつもの「お花畑」のような輝きが消えていた。

代わりにあったのは、冷徹な計算と、底知れない悪意だった。

「カシュー様。……貴女、詰めが甘いですよぉ?」

「……何ですって?」

「殿下がサインしなくても、塩は止め続けられます。だって……その命令を出したのは、殿下じゃなくて『私』なんですもの」

「な……?」

殿下がポカンと口を開けた。

「マシュ? 何を言っているんだ? 命令書にサインしたのは私だぞ?」

「ええ。でも、その内容を考えたのも、関係各所に根回しをしたのも、全部私ですぅ。殿下はただ、私の言われるがままにハンコを押しただけですよねぇ?」

マシュがニヤリと笑った。

その笑顔は、砂糖菓子のように甘く、しかし猛毒を含んでいた。

「な、なんだ……? 今のマシュは……?」

私が困惑する中、彼女はスクッと立ち上がり、泥だらけのドレスを払った。

「あーあ。殿下が役立たずだから、私が表に出る羽目になっちゃいましたね」

彼女の雰囲気が一変する。

ドジっ子? 天然? 愛されキャラ?

いいや、違う。

目の前にいるのは、もっと得体の知れない「何か」だ。

「さあ、カシュー様。……本当の『交渉』をしましょうか?」

マシュ・マロが、氷のような視線で私を見据えた。

まさかの展開。

ラスボスは殿下ではなかったのか。

私は書類を握りしめ直し、警戒心を最大レベルに引き上げた。
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