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「……味がしない」
ロースト公爵邸の夕食時。
広すぎる食堂で、アーモンド公爵は一人、最高級のステーキを見つめていた。
焼き加減は完璧なレア。
添えられたのは、カシューが狂喜乱舞したあの「ローズソルト」だ。
しかし、アーモンドのフォークは動かない。
「ペッパー。今日の肉は、何か手違いがあったのか?」
後ろに控えていた執事が、静かに首を横に振った。
「いいえ、旦那様。いつもと同じ、最高品質の熟成肉でございます」
「そうか。……では、私の舌が壊れたらしい」
アーモンドはため息をつき、ナイフを置いた。
カチン、という硬質な音が、静まり返った食堂に響く。
カシューが国へ戻ってから、まだ三日しか経っていない。
なのに、この屋敷はまるで火が消えたように静かだった。
「……静かすぎるな」
「はい。マシュ男爵令嬢の叫び声も、ピーナン殿下の情けない声も聞こえません」
「彼らはどうした?」
「カシュー様が発たれた翌日、こっそりと国へ帰られました。『ここにいたら殺される気がする』との書き置きを残して」
「賢明な判断だ。……だが、問題はそこじゃない」
アーモンドはワイングラスを傾けた。
芳醇な香りのはずが、今日はただの色のついた水にしか感じられない。
「足りないんだ、ペッパー」
「何がでございましょう?」
「刺激が。『うるさいですね』という冷ややかなツッコミが。『変人』と蔑むような目が。……そして、美味いものを食った時に見せる、あの屈託のない笑顔が」
アーモンドは頭を抱えた。
重症だった。
自分でも驚くほど、カシューという存在が日常に侵食していたのだ。
朝、ハーブ園で彼女を待ち伏せする楽しみがない。
昼、執務の合間に彼女と市場へ繰り出す高揚感がない。
そして夜、二人で晩酌しながら、くだらない話で盛り上がる至福の時間がない。
「……私は、ただの『おつまみ』を失っただけのはずだ」
自分に言い聞かせるように呟く。
「代わりはいくらでもある。世界中から最高の乾物を集めればいい」
彼は立ち上がり、サイドボードにあった最高級スルメの瓶を掴んだ。
そして、一枚取り出して齧り付く。
ガリッ。
「……硬い」
当たり前だ。
「……しょっぱい」
当然だ。
「……違う。これじゃない」
彼はスルメをテーブルに放り投げた。
物理的な塩分は足りているのに、心の渇きが癒えない。
「ああ、クソッ! 禁断症状か!?」
彼が頭をかきむしっていると、食堂の扉が開いた。
「あらあら。随分と荒れてるじゃない、アーモンド」
乗馬服姿のカカオ男爵令嬢が入ってきた。
彼女はテーブルの上の手付かずのステーキと、齧りかけのスルメを見て、ニヤリと笑った。
「どうしたの? 食欲不振? それとも、恋煩い?」
「……うるさい、カカオ。冷やかしなら帰れ」
「冷やかしに来たのよ。親友(カシュー)がいない間に、あんたがどれだけ情けない顔をしてるか確認しにね」
カカオは勝手に椅子を引き、座り込んだ。
「で? 図星なんでしょ? カシューがいなくて寂しいのよね」
「……寂しいわけじゃない。ただ、調子が狂うだけだ」
「それを世間では『寂しい』って言うのよ。素直になりなさいな」
カカオはペッパーに目配せして、自分用のグラスを持ってこさせた。
アーモンドの飲みかけのワインを勝手に注ぐ。
「あんたね、カシューのこと『おつまみ』だの『スパイス』だの言ってるけど、本当はもっと別の感情があるんでしょ?」
「別の感情?」
「ええ。例えば……彼女が他の男、そうね、あの馬鹿王子と復縁したらどう思う?」
「……許さん」
即答だった。
アーモンドの声が低くなる。
「あんな味音痴に、彼女を渡すわけにはいかない。彼女の価値を理解できるのは私だけだ」
「ほらね。独占欲丸出しじゃない」
カカオがカラカラと笑う。
「アーモンド。あんたはカシューを『最高のつまみ』だと思ってるかもしれないけど、彼女にとってもあんたは『最高の酒』だったのよ」
「私が、酒?」
「そう。度数が高くて、癖が強くて、でも一度ハマると抜け出せない、中毒性のある美酒ね」
カカオはワインを一口飲み、真剣な目でアーモンドを見た。
「二人は、互いに互いを必要としてるのよ。……それって、もう『愛』って呼んでもいいんじゃない?」
「愛……」
アーモンドはその言葉を反芻した。
これまで、数多の女性から愛を囁かれてきた。
だが、それらは全て「公爵家」というブランドや、彼の外見に向けられたものだった。
しかし、カシューは違う。
彼女は、彼の変人ぶりを真っ向から受け止め、呆れながらも面白がってくれた。
「……そうか」
アーモンドはゆっくりと顔を上げた。
視界にかかっていた霧が晴れていくようだった。
「私は、彼女に恋をしていたのか」
「やっと気づいた? 遅すぎるわよ、この朴念仁」
カカオが呆れたように言う。
アーモンドは立ち上がった。
体の奥底から、熱いものが込み上げてくる。
それは、食欲でも、酒への渇望でもない。
ただひたすらに、一人の女性に会いたいという強烈な衝動だった。
「ペッパー!」
「はい、旦那様」
「最速の馬を用意しろ! いや、馬車だ! 私が自ら御者をする!」
「えっ? 旦那様がですか?」
「じっとしていられないんだ! 今すぐ彼女の元へ飛んでいきたい!」
彼は上着をひっつかみ、食堂を飛び出した。
「カカオ、留守は頼んだぞ!」
「はいはい。……行ってらっしゃい、不器用なロマンチストさん」
カカオは残されたステーキを代わりに食べながら、満足げに見送った。
* * *
夜の街道を、一台の馬車が疾走していた。
御者台に座るのは、公爵自らだ。
彼は手綱を握りしめ、闇を見つめていた。
「待っていろ、カシュー」
風が彼の髪を乱す。
「君が『一人で決着をつける』と言ったのはわかっている。だが、私はもう、君を一人にはしておけない」
脳裏に浮かぶのは、彼女の「塩顔」の笑顔。
「君がいない食卓なんて、もう真っ平御免だ!」
彼は鞭を振るった。
馬がいななき、さらに速度を上げる。
国境を越え、隣国の王都へ。
愛しい「おつまみ」を取り戻すため、変人公爵の爆走が始まった。
ロースト公爵邸の夕食時。
広すぎる食堂で、アーモンド公爵は一人、最高級のステーキを見つめていた。
焼き加減は完璧なレア。
添えられたのは、カシューが狂喜乱舞したあの「ローズソルト」だ。
しかし、アーモンドのフォークは動かない。
「ペッパー。今日の肉は、何か手違いがあったのか?」
後ろに控えていた執事が、静かに首を横に振った。
「いいえ、旦那様。いつもと同じ、最高品質の熟成肉でございます」
「そうか。……では、私の舌が壊れたらしい」
アーモンドはため息をつき、ナイフを置いた。
カチン、という硬質な音が、静まり返った食堂に響く。
カシューが国へ戻ってから、まだ三日しか経っていない。
なのに、この屋敷はまるで火が消えたように静かだった。
「……静かすぎるな」
「はい。マシュ男爵令嬢の叫び声も、ピーナン殿下の情けない声も聞こえません」
「彼らはどうした?」
「カシュー様が発たれた翌日、こっそりと国へ帰られました。『ここにいたら殺される気がする』との書き置きを残して」
「賢明な判断だ。……だが、問題はそこじゃない」
アーモンドはワイングラスを傾けた。
芳醇な香りのはずが、今日はただの色のついた水にしか感じられない。
「足りないんだ、ペッパー」
「何がでございましょう?」
「刺激が。『うるさいですね』という冷ややかなツッコミが。『変人』と蔑むような目が。……そして、美味いものを食った時に見せる、あの屈託のない笑顔が」
アーモンドは頭を抱えた。
重症だった。
自分でも驚くほど、カシューという存在が日常に侵食していたのだ。
朝、ハーブ園で彼女を待ち伏せする楽しみがない。
昼、執務の合間に彼女と市場へ繰り出す高揚感がない。
そして夜、二人で晩酌しながら、くだらない話で盛り上がる至福の時間がない。
「……私は、ただの『おつまみ』を失っただけのはずだ」
自分に言い聞かせるように呟く。
「代わりはいくらでもある。世界中から最高の乾物を集めればいい」
彼は立ち上がり、サイドボードにあった最高級スルメの瓶を掴んだ。
そして、一枚取り出して齧り付く。
ガリッ。
「……硬い」
当たり前だ。
「……しょっぱい」
当然だ。
「……違う。これじゃない」
彼はスルメをテーブルに放り投げた。
物理的な塩分は足りているのに、心の渇きが癒えない。
「ああ、クソッ! 禁断症状か!?」
彼が頭をかきむしっていると、食堂の扉が開いた。
「あらあら。随分と荒れてるじゃない、アーモンド」
乗馬服姿のカカオ男爵令嬢が入ってきた。
彼女はテーブルの上の手付かずのステーキと、齧りかけのスルメを見て、ニヤリと笑った。
「どうしたの? 食欲不振? それとも、恋煩い?」
「……うるさい、カカオ。冷やかしなら帰れ」
「冷やかしに来たのよ。親友(カシュー)がいない間に、あんたがどれだけ情けない顔をしてるか確認しにね」
カカオは勝手に椅子を引き、座り込んだ。
「で? 図星なんでしょ? カシューがいなくて寂しいのよね」
「……寂しいわけじゃない。ただ、調子が狂うだけだ」
「それを世間では『寂しい』って言うのよ。素直になりなさいな」
カカオはペッパーに目配せして、自分用のグラスを持ってこさせた。
アーモンドの飲みかけのワインを勝手に注ぐ。
「あんたね、カシューのこと『おつまみ』だの『スパイス』だの言ってるけど、本当はもっと別の感情があるんでしょ?」
「別の感情?」
「ええ。例えば……彼女が他の男、そうね、あの馬鹿王子と復縁したらどう思う?」
「……許さん」
即答だった。
アーモンドの声が低くなる。
「あんな味音痴に、彼女を渡すわけにはいかない。彼女の価値を理解できるのは私だけだ」
「ほらね。独占欲丸出しじゃない」
カカオがカラカラと笑う。
「アーモンド。あんたはカシューを『最高のつまみ』だと思ってるかもしれないけど、彼女にとってもあんたは『最高の酒』だったのよ」
「私が、酒?」
「そう。度数が高くて、癖が強くて、でも一度ハマると抜け出せない、中毒性のある美酒ね」
カカオはワインを一口飲み、真剣な目でアーモンドを見た。
「二人は、互いに互いを必要としてるのよ。……それって、もう『愛』って呼んでもいいんじゃない?」
「愛……」
アーモンドはその言葉を反芻した。
これまで、数多の女性から愛を囁かれてきた。
だが、それらは全て「公爵家」というブランドや、彼の外見に向けられたものだった。
しかし、カシューは違う。
彼女は、彼の変人ぶりを真っ向から受け止め、呆れながらも面白がってくれた。
「……そうか」
アーモンドはゆっくりと顔を上げた。
視界にかかっていた霧が晴れていくようだった。
「私は、彼女に恋をしていたのか」
「やっと気づいた? 遅すぎるわよ、この朴念仁」
カカオが呆れたように言う。
アーモンドは立ち上がった。
体の奥底から、熱いものが込み上げてくる。
それは、食欲でも、酒への渇望でもない。
ただひたすらに、一人の女性に会いたいという強烈な衝動だった。
「ペッパー!」
「はい、旦那様」
「最速の馬を用意しろ! いや、馬車だ! 私が自ら御者をする!」
「えっ? 旦那様がですか?」
「じっとしていられないんだ! 今すぐ彼女の元へ飛んでいきたい!」
彼は上着をひっつかみ、食堂を飛び出した。
「カカオ、留守は頼んだぞ!」
「はいはい。……行ってらっしゃい、不器用なロマンチストさん」
カカオは残されたステーキを代わりに食べながら、満足げに見送った。
* * *
夜の街道を、一台の馬車が疾走していた。
御者台に座るのは、公爵自らだ。
彼は手綱を握りしめ、闇を見つめていた。
「待っていろ、カシュー」
風が彼の髪を乱す。
「君が『一人で決着をつける』と言ったのはわかっている。だが、私はもう、君を一人にはしておけない」
脳裏に浮かぶのは、彼女の「塩顔」の笑顔。
「君がいない食卓なんて、もう真っ平御免だ!」
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