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「……これは、ひどいわね」
数日後。
馬車を飛ばして帰国した私が最初に目にしたのは、かつての活気が嘘のように静まり返ったナッツ領の姿だった。
街からは、あの食欲をそそる燻製の香りが消えている。
代わりに漂っているのは、なんとも言えない澱んだ空気と、腐敗しかけた肉の気配だ。
「お嬢様。……保存庫の機能が停止しています」
ソルトが窓の外を見て、悔しそうに唇を噛む。
「塩がないため、肉を漬け込むことができず、ただの生ゴミになりかけています」
「許せないわ」
私は扇子を握りしめ、パキッと音を立てて閉じた。
「私の愛するジャーキーや生ハムたちを、こんな無残な姿にするなんて……! これは食文化への冒涜よ!」
* * *
屋敷に到着すると、父・ピスタチオ侯爵が出迎えてくれた。
しかし、その姿は以前とは別人のようにやつれていた。
肌はカサカサで、目の下には隈ができている。
「おお、カシュー……! よく戻ってきてくれた……!」
「お父様、大丈夫ですか? 干からびたドライフルーツみたいになってますよ」
「塩分が足りないんだ……。今のわしは、ただの『殻』だ……」
父は力なく笑った。
母や弟も似たようなものだ。
ナッツ家の人間は、塩分と旨味がないと急速に生命力を失うらしい。
「カシュー。アーモンド公爵からの支援物資は?」
弟のマカダが縋るように聞いてくる。
「ないわ」
「えっ」
「私が断ったの」
家族全員が「信じられない」という顔で私を見た。
「な、なぜだカシュー! お前は我々を見殺しにする気か!?」
「違うわ、お父様。……支援をもらっても、蛇口を閉められたままじゃ意味がないでしょう? 私がやるべきは、バケツで水を運ぶことじゃない」
私はニヤリと笑い、懐から分厚い書類の束を取り出した。
馬車の中で徹夜して書き上げた、渾身の作だ。
「蛇口を閉めた馬鹿の首根っこを掴んで、無理やり開けさせることよ」
「……その書類は?」
「『損害賠償請求書』兼『通商条約違反に対する抗議文』よ。あと、ついでに『精神的苦痛に対する慰謝料(追加分)』も上乗せしておいたわ」
私が書類をパンと叩くと、父の目に生気が戻った。
「……そうか。やるか、カシュー」
「ええ。ナッツ家の女は、やられたら倍返し。……いいえ、消費税と延滞金をつけて十倍返しです」
「行ってこい! わしらの命(塩)はお前にかかっている!」
* * *
私は休む間もなく、再び馬車に乗り込み、王都の中心にある王宮を目指した。
門番が槍を交差させて立ちはだかる。
「止まれ! ここはこの国の王宮であるぞ!」
「知ってるわよ。元婚約者の家だもの」
私は馬車から降りると、門番の前で仁王立ちした。
「ナッツ侯爵令嬢、カシュー・ナッツです。ピーナン・ツー殿下に緊急の面会を求めます」
「ア、アポはありますか?」
「ないわ。でも、これがある」
私は父から預かった『塩不足により腐敗したハム(超臭い)』を突きつけた。
「うわっ!? くさっ!?」
「今のナッツ領の香りよ。殿下がこの匂いを嗅ぎたいと仰るなら、アポを取って出直すけれど?」
「と、通ってよし!!」
門番は鼻をつまんで道を開けた。
物理的な悪臭攻撃は効果覿面だ。
私は堂々と王宮の回廊を歩いた。
すれ違う貴族やメイドたちが、ギョッとして道を空ける。
私の今の格好は、煌びやかなドレスではない。
動きやすいパンツスーツに、腰にはソルトから託された短剣(飾り)、そして片手には請求書の束。
完全に「取り立て屋」のスタイルだ。
目指すは、殿下の執務室。
あるいは、逃げ込んでいるであろう奥の私室だ。
「……ここね」
重厚な扉の前で、私は足を止めた。
ノック?
そんなまどろっこしいことはしない。
私は大きく息を吸い込み、右足に渾身の力を込めた。
ドンッ!
扉を蹴破る。
「ごめんあそばせぇぇぇ!!!」
部屋の中には、お菓子を食べてくつろいでいるピーナン殿下……の姿はなかった。
代わりに、机にかじりついて書類と格闘している、見知らぬ官僚たちが数名。
彼らは一斉に私を見た。
「な、なんだ君は!?」
「ピーナン殿下はどこ!?」
私が叫ぶと、官僚の一人が震える指で奥の部屋を指差した。
「で、殿下なら……『マシュ様の機嫌を取るために中庭でピクニック中』です……」
「……は?」
領地一つを干上がらせておいて、ピクニック?
私の脳内で、何かがプツンと切れる音がした。
「……そう。ありがとう」
私は優雅に微笑み、窓際に歩み寄った。
そして、窓を全開にする。
眼下には、美しく整備された中庭が見える。
そこには、ピンク色のドレスと、白い王子服が、キャッキャウフフと追いかけっこをしている姿があった。
「まて~、マシュ~」
「あはは~、捕まえてごらんなさ~い」
平和だ。
あまりにも平和で、反吐が出る。
私は窓枠に足をかけた。
「お嬢様、ここから飛び降りるおつもりで?」
遅れて追いついたソルトが尋ねる。ここは三階だ。
「まさか。……これを落とすのよ」
私は部屋の隅にあった、巨大な観葉植物(鉢植え)を持ち上げた。
「天罰(物理)よ」
「……当たりどころによっては死にます」
「大丈夫、あの二人は悪運だけは強いから」
私は狙いを定め、鉢植えを落とした。
ヒュルルルル……。
ガシャーン!!!
「うわああああっ!?」
眼下で悲鳴が上がる。
鉢植えは二人のすぐ横の噴水に直撃し、泥水を派手に撒き散らしたようだ。
ずぶ濡れになったピーナン殿下が、上を見上げて絶叫した。
「な、なんだ!? テロか!?」
私は窓から身を乗り出し、大声で叫んだ。
「テロじゃありません! 請求書のお届けです!!」
「カ、カシュー!?」
殿下の顔が引きつるのが、ここからでもわかった。
「お久しぶりですね、殿下! さあ、逃げも隠れもせず、そこを動かないでください! 今すぐ降りて、そのふやけた脳みそを塩漬けにして差し上げますわ!」
私は窓から離れ、階段へとダッシュした。
背後でソルトが「お嬢様、完全に悪役です」と呟いたが、今の私には最高の褒め言葉だった。
待っていろ、ピーナン。
ナッツ家の怒り、骨の髄まで味わわせてやる。
数日後。
馬車を飛ばして帰国した私が最初に目にしたのは、かつての活気が嘘のように静まり返ったナッツ領の姿だった。
街からは、あの食欲をそそる燻製の香りが消えている。
代わりに漂っているのは、なんとも言えない澱んだ空気と、腐敗しかけた肉の気配だ。
「お嬢様。……保存庫の機能が停止しています」
ソルトが窓の外を見て、悔しそうに唇を噛む。
「塩がないため、肉を漬け込むことができず、ただの生ゴミになりかけています」
「許せないわ」
私は扇子を握りしめ、パキッと音を立てて閉じた。
「私の愛するジャーキーや生ハムたちを、こんな無残な姿にするなんて……! これは食文化への冒涜よ!」
* * *
屋敷に到着すると、父・ピスタチオ侯爵が出迎えてくれた。
しかし、その姿は以前とは別人のようにやつれていた。
肌はカサカサで、目の下には隈ができている。
「おお、カシュー……! よく戻ってきてくれた……!」
「お父様、大丈夫ですか? 干からびたドライフルーツみたいになってますよ」
「塩分が足りないんだ……。今のわしは、ただの『殻』だ……」
父は力なく笑った。
母や弟も似たようなものだ。
ナッツ家の人間は、塩分と旨味がないと急速に生命力を失うらしい。
「カシュー。アーモンド公爵からの支援物資は?」
弟のマカダが縋るように聞いてくる。
「ないわ」
「えっ」
「私が断ったの」
家族全員が「信じられない」という顔で私を見た。
「な、なぜだカシュー! お前は我々を見殺しにする気か!?」
「違うわ、お父様。……支援をもらっても、蛇口を閉められたままじゃ意味がないでしょう? 私がやるべきは、バケツで水を運ぶことじゃない」
私はニヤリと笑い、懐から分厚い書類の束を取り出した。
馬車の中で徹夜して書き上げた、渾身の作だ。
「蛇口を閉めた馬鹿の首根っこを掴んで、無理やり開けさせることよ」
「……その書類は?」
「『損害賠償請求書』兼『通商条約違反に対する抗議文』よ。あと、ついでに『精神的苦痛に対する慰謝料(追加分)』も上乗せしておいたわ」
私が書類をパンと叩くと、父の目に生気が戻った。
「……そうか。やるか、カシュー」
「ええ。ナッツ家の女は、やられたら倍返し。……いいえ、消費税と延滞金をつけて十倍返しです」
「行ってこい! わしらの命(塩)はお前にかかっている!」
* * *
私は休む間もなく、再び馬車に乗り込み、王都の中心にある王宮を目指した。
門番が槍を交差させて立ちはだかる。
「止まれ! ここはこの国の王宮であるぞ!」
「知ってるわよ。元婚約者の家だもの」
私は馬車から降りると、門番の前で仁王立ちした。
「ナッツ侯爵令嬢、カシュー・ナッツです。ピーナン・ツー殿下に緊急の面会を求めます」
「ア、アポはありますか?」
「ないわ。でも、これがある」
私は父から預かった『塩不足により腐敗したハム(超臭い)』を突きつけた。
「うわっ!? くさっ!?」
「今のナッツ領の香りよ。殿下がこの匂いを嗅ぎたいと仰るなら、アポを取って出直すけれど?」
「と、通ってよし!!」
門番は鼻をつまんで道を開けた。
物理的な悪臭攻撃は効果覿面だ。
私は堂々と王宮の回廊を歩いた。
すれ違う貴族やメイドたちが、ギョッとして道を空ける。
私の今の格好は、煌びやかなドレスではない。
動きやすいパンツスーツに、腰にはソルトから託された短剣(飾り)、そして片手には請求書の束。
完全に「取り立て屋」のスタイルだ。
目指すは、殿下の執務室。
あるいは、逃げ込んでいるであろう奥の私室だ。
「……ここね」
重厚な扉の前で、私は足を止めた。
ノック?
そんなまどろっこしいことはしない。
私は大きく息を吸い込み、右足に渾身の力を込めた。
ドンッ!
扉を蹴破る。
「ごめんあそばせぇぇぇ!!!」
部屋の中には、お菓子を食べてくつろいでいるピーナン殿下……の姿はなかった。
代わりに、机にかじりついて書類と格闘している、見知らぬ官僚たちが数名。
彼らは一斉に私を見た。
「な、なんだ君は!?」
「ピーナン殿下はどこ!?」
私が叫ぶと、官僚の一人が震える指で奥の部屋を指差した。
「で、殿下なら……『マシュ様の機嫌を取るために中庭でピクニック中』です……」
「……は?」
領地一つを干上がらせておいて、ピクニック?
私の脳内で、何かがプツンと切れる音がした。
「……そう。ありがとう」
私は優雅に微笑み、窓際に歩み寄った。
そして、窓を全開にする。
眼下には、美しく整備された中庭が見える。
そこには、ピンク色のドレスと、白い王子服が、キャッキャウフフと追いかけっこをしている姿があった。
「まて~、マシュ~」
「あはは~、捕まえてごらんなさ~い」
平和だ。
あまりにも平和で、反吐が出る。
私は窓枠に足をかけた。
「お嬢様、ここから飛び降りるおつもりで?」
遅れて追いついたソルトが尋ねる。ここは三階だ。
「まさか。……これを落とすのよ」
私は部屋の隅にあった、巨大な観葉植物(鉢植え)を持ち上げた。
「天罰(物理)よ」
「……当たりどころによっては死にます」
「大丈夫、あの二人は悪運だけは強いから」
私は狙いを定め、鉢植えを落とした。
ヒュルルルル……。
ガシャーン!!!
「うわああああっ!?」
眼下で悲鳴が上がる。
鉢植えは二人のすぐ横の噴水に直撃し、泥水を派手に撒き散らしたようだ。
ずぶ濡れになったピーナン殿下が、上を見上げて絶叫した。
「な、なんだ!? テロか!?」
私は窓から身を乗り出し、大声で叫んだ。
「テロじゃありません! 請求書のお届けです!!」
「カ、カシュー!?」
殿下の顔が引きつるのが、ここからでもわかった。
「お久しぶりですね、殿下! さあ、逃げも隠れもせず、そこを動かないでください! 今すぐ降りて、そのふやけた脳みそを塩漬けにして差し上げますわ!」
私は窓から離れ、階段へとダッシュした。
背後でソルトが「お嬢様、完全に悪役です」と呟いたが、今の私には最高の褒め言葉だった。
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