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「大変です! お嬢様!」
ロースト公爵領での生活も一ヶ月が過ぎ、すっかり馴染んできた頃。
平和な朝のティータイムを破ったのは、いつになく慌てふためいたソルトの声だった。
彼女は手に一枚の羊皮紙を握りしめている。
いつもの冷静沈着なソルトが息を切らせている時点で、ただ事ではない。
「どうしたの、ソルト。燻製小屋が火事でもなった?」
「いいえ。もっと深刻です。……実家のピスタチオ旦那様より、緊急連絡(SOS)が入りました」
「お父様から? また『チーズが切れた』とかじゃないでしょうね」
「違います。……ナッツ領への塩の供給が、全面的にストップしました」
「は?」
私はティーカップを取り落としそうになった。
「塩が止まった? どういうこと?」
「王宮からの通達です。『ナッツ侯爵家への塩の専売公社からの供給を、本日付で無期限停止とする』と。理由は『輸入規制の見直し』とされていますが……」
「そんなの表向きの理由に決まってるわ」
私はギリリと奥歯を噛み締めた。
塩。
それは人間が生きていく上で不可欠なものだ。
特に、保存食(ハムやソーセージ、干物など)を主力産業としているナッツ領にとって、塩の供給停止は死刑宣告に等しい。
「……やったわね、あの馬鹿王子」
脳裏に浮かぶのは、ピーナン殿下の顔だ。
先日、図書室でアーモンドにこっぴどく叱られ、泣いて逃げ帰った彼。
その腹いせに、私の実家を狙い撃ちにしてきたのだ。
「お嬢様。旦那様の手紙には続きがあります。『在庫の塩はあと一週間分しかない。このままでは今年の仕込みが全滅する。……至急、アーモンド公爵に泣きついて塩を融通してもらえ』とのことです」
「……親父、最後まで他力本願ね」
私は立ち上がった。
怒りで体が震える。
私を侮辱するのはいい。
マシュ・マロとイチャイチャするのも勝手だ。
だが、私の家族と領民の生活、そして何より「美味しい保存食」を人質に取るやり方は、絶対に許せない。
「カシュー! 聞いたぞ!」
食堂の扉が開き、アーモンド公爵が飛び込んできた。
彼もまた、険しい表情をしている。
「ナッツ領の塩が止められたというのは本当か!?」
「ええ。たった今、連絡がありました」
「なんてことだ……! 塩がないと、ナッツ家の名産『熟成生ハム』が作れなくなるじゃないか! 人類の損失だ!」
「そこですか」
「当たり前だ! すぐに我が領の備蓄塩を送ろう! 岩塩鉱山をフル稼働させて、山ごと送りつけてやる!」
アーモンドがペッパーに指示を出そうとする。
しかし、私はそれを手で制した。
「待ってください、アーモンド」
「なぜだ? 遠慮するな。君の実家の危機は、私の危機だ」
「違います。……これは、根本的な解決になりません」
私は静かに首を振った。
「貴方が塩を送れば、一時的には助かるでしょう。でも、ピーナン殿下はまた別の手を使ってくるはずです。次は小麦か、あるいは流通ルートそのものを封鎖するかもしれない」
「む……確かに、あいつの粘着質ならやりかねん」
「それに、これはナッツ家の問題です。私が他国の公爵の力に頼って解決しては、父の顔が立ちませんし、何より……私が許せない」
私の声に、ドス黒い怒りが混じるのがわかった。
「自分の失態を棚に上げて、弱い者いじめで憂さ晴らしをするような男に、これ以上好き勝手させてたまるもんですか」
私は拳を握りしめ、宣言した。
「私、戻ります」
「……国へ帰るのか?」
アーモンドの声が揺れた。
「はい。王都へ乗り込んで、殿下と直接対決をしてきます。ねじ曲がった根性を、物理的に叩き直してやります」
「危ないぞ! あいつは腐っても王子だ。権力を振りかざして、君を捕らえるかもしれない」
「上等です。その時は、法廷闘争でも何でもやってやります」
私はキッパリと言い放った。
ナッツ家の女は、売られた喧嘩は倍の値段で買い取るのが流儀だ。
「カシュー……」
アーモンドが私を見つめる。
引き止めるかと思った。
「……わかった」
彼は短く言った。
「行ってこい。君ならやれる」
「アーモンド?」
「君のその『覚悟を決めた目』を見たら、止められないさ。……それに、自分の始末は自分でつける。それが君の美学だろう?」
彼はニッと笑ったが、その笑顔はどこか寂しげだった。
「ただし、条件がある」
「何ですか?」
「ソルトと、護衛の騎士を連れて行け。それと……この手紙を持って行け」
彼は懐から、封蝋された一通の手紙を取り出した。
宛名は書かれていない。
「これは?」
「いざという時の切り札だ。どうしても困った時に開けろ。……私の全権力を君に貸与する誓約書だ」
「……そんな危ないもの、受け取れません」
「持っているだけでいい。お守りだ」
彼は無理やり手紙を私の手に押し付けた。
その手の温もりが、私の決意を支えてくれる気がした。
「ありがとう、アーモンド。……必ず、戻ってきます」
「ああ。待っている。……君がいないと、晩酌の酒が不味くなるからな」
* * *
出発の準備は迅速に行われた。
私は旅装に着替え、ソルトと共に馬車に乗り込んだ。
見送りには、アーモンドだけでなく、カカオ様も来てくれた。
「カシュー。もし王子をボコボコにするなら呼んでね。私も参加するから」
「心強いです。でも、まずは言葉のナイフで刺してきます」
「ふふ、行ってらっしゃい」
マシュ・マロとピーナン殿下は、この騒動を知ってか知らずか、部屋に引きこもって出てこなかった。
いや、おそらく殿下は、自分がやったことの重大さに気づいて、私と顔を合わせるのが怖いのだろう。
「……逃がさないわよ」
馬車が動き出す。
遠ざかるロースト公爵邸。
住み慣れた(といっても一ヶ月だが)部屋の窓。
そして、いつまでも手を振ってくれているアーモンドの姿。
胸がチクリと痛む。
(……帰りたくないな)
本音を言えば、ずっとここで、彼と美味しいものを食べて暮らしたかった。
でも、だからこそ。
この幸せな場所を守るために、私は過去との決着をつけなければならない。
「ソルト。急がせて」
「はい、お嬢様」
馬車はスピードを上げる。
目指すは我が祖国、スイート王国。
待っていろ、ピーナン・ツー。
塩の恨みは、岩塩よりも硬くて重いということを、骨の髄まで教えてやる。
私は窓の外を見つめ、静かに闘志を燃やした。
その横顔を見たソルトが、ポツリと呟いた。
「お嬢様。……今の顔、完全に『悪役令嬢』ですよ」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
こうして、私の「帰省(殴り込み)」の旅が始まったのである。
ロースト公爵領での生活も一ヶ月が過ぎ、すっかり馴染んできた頃。
平和な朝のティータイムを破ったのは、いつになく慌てふためいたソルトの声だった。
彼女は手に一枚の羊皮紙を握りしめている。
いつもの冷静沈着なソルトが息を切らせている時点で、ただ事ではない。
「どうしたの、ソルト。燻製小屋が火事でもなった?」
「いいえ。もっと深刻です。……実家のピスタチオ旦那様より、緊急連絡(SOS)が入りました」
「お父様から? また『チーズが切れた』とかじゃないでしょうね」
「違います。……ナッツ領への塩の供給が、全面的にストップしました」
「は?」
私はティーカップを取り落としそうになった。
「塩が止まった? どういうこと?」
「王宮からの通達です。『ナッツ侯爵家への塩の専売公社からの供給を、本日付で無期限停止とする』と。理由は『輸入規制の見直し』とされていますが……」
「そんなの表向きの理由に決まってるわ」
私はギリリと奥歯を噛み締めた。
塩。
それは人間が生きていく上で不可欠なものだ。
特に、保存食(ハムやソーセージ、干物など)を主力産業としているナッツ領にとって、塩の供給停止は死刑宣告に等しい。
「……やったわね、あの馬鹿王子」
脳裏に浮かぶのは、ピーナン殿下の顔だ。
先日、図書室でアーモンドにこっぴどく叱られ、泣いて逃げ帰った彼。
その腹いせに、私の実家を狙い撃ちにしてきたのだ。
「お嬢様。旦那様の手紙には続きがあります。『在庫の塩はあと一週間分しかない。このままでは今年の仕込みが全滅する。……至急、アーモンド公爵に泣きついて塩を融通してもらえ』とのことです」
「……親父、最後まで他力本願ね」
私は立ち上がった。
怒りで体が震える。
私を侮辱するのはいい。
マシュ・マロとイチャイチャするのも勝手だ。
だが、私の家族と領民の生活、そして何より「美味しい保存食」を人質に取るやり方は、絶対に許せない。
「カシュー! 聞いたぞ!」
食堂の扉が開き、アーモンド公爵が飛び込んできた。
彼もまた、険しい表情をしている。
「ナッツ領の塩が止められたというのは本当か!?」
「ええ。たった今、連絡がありました」
「なんてことだ……! 塩がないと、ナッツ家の名産『熟成生ハム』が作れなくなるじゃないか! 人類の損失だ!」
「そこですか」
「当たり前だ! すぐに我が領の備蓄塩を送ろう! 岩塩鉱山をフル稼働させて、山ごと送りつけてやる!」
アーモンドがペッパーに指示を出そうとする。
しかし、私はそれを手で制した。
「待ってください、アーモンド」
「なぜだ? 遠慮するな。君の実家の危機は、私の危機だ」
「違います。……これは、根本的な解決になりません」
私は静かに首を振った。
「貴方が塩を送れば、一時的には助かるでしょう。でも、ピーナン殿下はまた別の手を使ってくるはずです。次は小麦か、あるいは流通ルートそのものを封鎖するかもしれない」
「む……確かに、あいつの粘着質ならやりかねん」
「それに、これはナッツ家の問題です。私が他国の公爵の力に頼って解決しては、父の顔が立ちませんし、何より……私が許せない」
私の声に、ドス黒い怒りが混じるのがわかった。
「自分の失態を棚に上げて、弱い者いじめで憂さ晴らしをするような男に、これ以上好き勝手させてたまるもんですか」
私は拳を握りしめ、宣言した。
「私、戻ります」
「……国へ帰るのか?」
アーモンドの声が揺れた。
「はい。王都へ乗り込んで、殿下と直接対決をしてきます。ねじ曲がった根性を、物理的に叩き直してやります」
「危ないぞ! あいつは腐っても王子だ。権力を振りかざして、君を捕らえるかもしれない」
「上等です。その時は、法廷闘争でも何でもやってやります」
私はキッパリと言い放った。
ナッツ家の女は、売られた喧嘩は倍の値段で買い取るのが流儀だ。
「カシュー……」
アーモンドが私を見つめる。
引き止めるかと思った。
「……わかった」
彼は短く言った。
「行ってこい。君ならやれる」
「アーモンド?」
「君のその『覚悟を決めた目』を見たら、止められないさ。……それに、自分の始末は自分でつける。それが君の美学だろう?」
彼はニッと笑ったが、その笑顔はどこか寂しげだった。
「ただし、条件がある」
「何ですか?」
「ソルトと、護衛の騎士を連れて行け。それと……この手紙を持って行け」
彼は懐から、封蝋された一通の手紙を取り出した。
宛名は書かれていない。
「これは?」
「いざという時の切り札だ。どうしても困った時に開けろ。……私の全権力を君に貸与する誓約書だ」
「……そんな危ないもの、受け取れません」
「持っているだけでいい。お守りだ」
彼は無理やり手紙を私の手に押し付けた。
その手の温もりが、私の決意を支えてくれる気がした。
「ありがとう、アーモンド。……必ず、戻ってきます」
「ああ。待っている。……君がいないと、晩酌の酒が不味くなるからな」
* * *
出発の準備は迅速に行われた。
私は旅装に着替え、ソルトと共に馬車に乗り込んだ。
見送りには、アーモンドだけでなく、カカオ様も来てくれた。
「カシュー。もし王子をボコボコにするなら呼んでね。私も参加するから」
「心強いです。でも、まずは言葉のナイフで刺してきます」
「ふふ、行ってらっしゃい」
マシュ・マロとピーナン殿下は、この騒動を知ってか知らずか、部屋に引きこもって出てこなかった。
いや、おそらく殿下は、自分がやったことの重大さに気づいて、私と顔を合わせるのが怖いのだろう。
「……逃がさないわよ」
馬車が動き出す。
遠ざかるロースト公爵邸。
住み慣れた(といっても一ヶ月だが)部屋の窓。
そして、いつまでも手を振ってくれているアーモンドの姿。
胸がチクリと痛む。
(……帰りたくないな)
本音を言えば、ずっとここで、彼と美味しいものを食べて暮らしたかった。
でも、だからこそ。
この幸せな場所を守るために、私は過去との決着をつけなければならない。
「ソルト。急がせて」
「はい、お嬢様」
馬車はスピードを上げる。
目指すは我が祖国、スイート王国。
待っていろ、ピーナン・ツー。
塩の恨みは、岩塩よりも硬くて重いということを、骨の髄まで教えてやる。
私は窓の外を見つめ、静かに闘志を燃やした。
その横顔を見たソルトが、ポツリと呟いた。
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