悪役令嬢、自由になれたので憧れの田舎暮らしを満喫しようとしたら拾われた。

黒猫かの

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公爵邸での日々は、数字との格闘そのものだった。

私が「筆頭財務管理官」という大層な肩書き(実態はなんでも屋)に就任してから数日。

私のデスクには、常にエベレスト級の書類の山が築かれている。

領地の開発計画、騎士団の遠征費、屋敷の修繕費、そして王宮から持ち帰った国の予算案の修正。

それらを片っ端から処理していくのが私の日課だ。

「……ここ、計算が合わない。誰ですか、円周率を3で計算したのは」

「……この請求書、日付が未来になっています。タイムトラベラーの仕業ですか?」

「……却下。却下。承認。却下。……焼却処分」

私はマシンのように手を動かし続ける。

集中すると、周囲の音が聞こえなくなる。

そして、無意識のうちに表情筋が硬直し、目つきが限界まで鋭くなるのが私の悪い癖だ。

そのため、私が執務室にいる間、メイドや従僕たちは「魔獣の檻」の前を通るかのように、抜き足差し足で廊下を歩いているらしい。

「……ジョアンナ」

ふと、名前を呼ばれた。

ペンの動きを止めずに顔だけ上げる。

向かいのデスクで執務をしていたアレクセイ公爵が、頬杖をついてこちらを見ていた。

「なんでしょうか、閣下。今の私は時給換算で非常に高コストですよ」

「休憩しろと言っている」

「まだ定時まで二時間あります」

「君の顔が怖いからだ」

公爵は真顔で言った。

「眉間の皺で紙が切れそうだ。室内の気温も下がっている気がする」

「失礼な。これは集中力の現れです」

「いいから手を止めろ。……ほら」

公爵が、テーブルの上に小さな箱を置いた。

黒いベルベットの布張りで、金色の箔押しがされた高級感あふれる箱だ。

宝石箱だろうか。

「賄賂ですか? 残念ながら、不正な経理操作はお断りしております」

「違う。開けてみろ」

言われるがままに箱を開ける。

そこに入っていたのは、宝石のように艶やかな光沢を放つ、一口サイズのチョコレートだった。

カカオの芳醇な香りがふわりと漂う。

「これは……」

「隣国の使者から贈られた最高級品だ。『天使の涙』というらしい」

「天使の涙……!」

私はゴクリと喉を鳴らした。

知っている。一粒で平民の一ヶ月分の食費が飛ぶと言われる、幻のスイーツだ。

甘いものには目がない。

特に、脳を酷使した後の糖分は、砂漠における水と同等の価値がある。

「食べていいのですか?」

「君の眉間を伸ばすための必要経費だ」

私はありがたく一粒つまみ上げた。

口に入れる。

パリッとしたコーティングが割れ、中から濃厚なガナッシュが溶け出してくる。

苦味と甘味の完璧なバランス。

鼻に抜けるブランデーの香り。

「…………んんっ」

思わず、変な声が出た。

美味しい。

美味しすぎて、脳内の数字が全て溶けていくようだ。

幸せだ。生きててよかった。殿下に婚約破棄されて本当によかった。

私は口元を手で覆い、至福の余韻に浸った。

「……ほう」

公爵の声が聞こえた。

目を開けると、彼が興味深そうに私を観察していた。

「なんだ、その顔は」

「えっ? 変でしたか?」

「いや。……いつもの『殺し屋』のような顔が消えて、随分と……緩んでいるな」

公爵は少しだけ目を見開き、口元を緩めた。

「小動物みたいだ」

「はい?」

小動物。

私が? この身長165センチ、目つき凶悪、あだ名が『氷の令嬢(物理)』の私が?

「リスか、あるいは餌付けされた野良猫か」

「閣下、眼科に行かれた方がよろしいのでは」

「いや、間違いない。……そうか、君は甘いものを与えると無力化するのか」

公爵は何か新しい発見をしたかのように頷くと、箱ごと私の方へ押しやった。

「全部食え」

「えっ、全部ですか!? これ一箱で家が建ちますよ!?」

「構わん。その代わり、その顔をもう一度見せろ」

「その顔とは?」

「幸せそうな、アホ面だ」

「……減給を希望します」

私は抗議したが、手は正直にチョコレートへと伸びていた。

悔しいけれど、美味しいものは正義だ。

それからというもの、アレクセイ公爵の「餌付け」が日課になってしまった。

午後三時になると、必ず公爵の手によって何かしらの「供物」が捧げられる。

ある日は有名店のマカロン。

ある日は老舗の羊羹。

またある日は、焼き立てのクレープ。

公爵は私がそれを食べる様子を、まるで珍しい生き物の生態観察でもするかのようにじっと見つめるのだ。

「……閣下」

数日後、私はクッキーを齧りながら尋ねた。

「私の食事風景を見て、何がそんなに楽しいのですか?」

「面白いからだ」

公爵は書類にサインをしながら即答した。

「普段の君は、感情のない計算マシーンだ。だが、菓子を前にした時だけ、年相応の……いや、子供のような顔をする」

「子供……」

「そのギャップが、私の疲労回復に役立っている」

「私は閣下の癒やしグッズではありません」

「機能としては似たようなものだ」

ひどい言い草だ。

だが、公爵の目は笑っていた。

出会った頃の「氷の公爵」という異名はどこへ行ったのか。

最近の彼は、私に対して妙に過保護というか、構いたがりな一面を見せるようになっていた。

「それに、もう少し肉をつけた方がいい」

公爵が、私の二の腕あたりをじろりと見た。

「細すぎる。エドワードの好みか知らんが、私のパートナーを務めるなら、もっと健康的な方が見栄えがいい」

「あ、そうでした」

クッキーを持つ手が止まる。

週末の舞踏会。

公爵のパートナーとして出席するという、あの無茶振り業務命令だ。

「ドレスの準備はできているのか?」

「いいえ。捨ててしまいましたから」

「だろうな。……だから、呼んでおいた」

公爵が指を鳴らす。

執務室の扉が開き、華やかなドレスを抱えた数人の女性たちが入ってきた。

王都で一番人気の仕立屋『マダム・ローズ』の一行だ。

「さあ、ジョアンナ様! 採寸させていただきますわよ!」

マダム・ローズがメジャーを構えて突進してくる。

「ちょ、ここ執務室ですけど!?」

「閣下の許可は得ております! さあ、脱いで!」

「ここで!?」

「衝立は用意した」

公爵が涼しい顔で指差す。

いつの間にか部屋の隅に更衣スペースが作られていた。

用意周到すぎる。

「仕事中ですよ、閣下!」

「これも仕事だ。私の隣に立っても恥ずかしくない姿になってもらわねば困る」

公爵はニヤリと笑った。

「安心しろ、費用は全額経費で落とす」

「……領収書は『被服費』で切りますよ」

私は諦めて立ち上がった。

経費なら仕方ない。タダで最新のドレスが着られるなら、それもまた福利厚生の一環だと思おう。

          ◇

一時間後。

私はマダム・ローズたちの手によって、着せ替え人形にされていた。

「あら、意外と胸がおありになるのね」

「ウエストが細い! もっと締められるわ!」

「肌が白いから、濃い色が映えるわね」

彼女たちは専門用語を飛び交わせながら、次々と布をあてがい、ピンを打っていく。

公爵はデスクワークを続けていたが、時折顔を上げてチェックを入れてきた。

「フリルは不要だ。彼女には似合わん」

「色は黒か濃紺がいい。リボンも外せ」

「背中はもう少し開けてもいいんじゃないか?」

注文が多い。

「閣下、私のドレスですよ」

「私の隣を歩くのだから、私の美的感覚に合わせてもらう」

公爵は譲らない。

結局、彼の指示で選ばれたのは、夜空のような深いミッドナイトブルーのドレスだった。

装飾は最小限で、シンプルだがシルエットの美しいデザイン。

「……うん、悪くないわ」

鏡に映った自分を見て、私は素直に思った。

フリフリのパステルカラーが好きだったエドワード殿下に合わせていた頃より、ずっと自分らしく見える。

「いかがですか、閣下!」

マダム・ローズが仮縫いの終わった私を披露する。

公爵が書類から目を離し、私を見た。

その目が、わずかに見開かれる。

氷のような瞳が、ゆっくりと私の上から下までを舐めるように動き、そして顔に戻った。

沈黙が長い。

「……変ですか?」

私が不安になって尋ねると、公爵はふいっと顔を背けた。

「……いや。悪くない」

そっけない返事だ。

「馬子にも衣装だな」

「一言多いですよ」

「だが、まだ何かが足りない」

公爵は立ち上がり、私の前に歩み寄った。

そして、不意に私の髪に触れた。

長い黒髪を一房すくい上げ、首筋にかける。

その指先が肌に触れて、ぞくりとした感覚が走る。

「……宝石だ」

公爵が低く囁く。

「この首元には、何も飾りがない。地味すぎる」

「宝石なんて持っていません。全部実家に置いてきました」

「私の家の蔵から適当に見繕わせよう。……いや」

公爵は何かを思いついたように目を細めた。

「新しいのを買うか」

「は? もったいないです。一回きりのために」

「経費だと言っただろう。それに……」

公爵は私の耳元に顔を寄せた。

「エドワードがリリーナに買い与えている安物の宝石とは格が違うものを身につけて、彼を見下してやるのも一興だろう?」

性格が悪い。

本当に、この人は性格が悪い。

だが、その提案に乗る自分がいるのも事実だった。

「……承知しました。では、最高に高そうで、嫌味なほど輝くやつをお願いします」

「任せておけ」

公爵は満足げに笑った。

その笑顔は、相変わらず破壊的に美しかったが、どこか楽しそうで、私はつられて少し笑ってしまった。

「あ、笑った」

公爵が指摘する。

「チョコを食べてないのに笑ったな」

「……なんのことでしょう」

私はぷいっと顔を背けた。

こうして、舞踏会への準備は着々と進んでいった。

それは、私にとって単なる業務の一環だったはずだが、公爵の「不器用な餌付け」と「着せ替えごっこ」のおかげで、予想外に楽しいイベントになりつつあった。

もちろん、その舞踏会が、単なるパーティーではなく、元婚約者とその新しい恋人、そして社交界の猛獣たちが待ち受ける「戦場」であることを、私はまだ楽観視していたのだが。

(まあ、何かあっても閣下がなんとかするでしょう)

他力本願。

美味しいお菓子と新しいドレスに釣られて、私の警戒心は緩みきっていた。

まさか、あの夜会で、あんな大騒動が起きるとは知らずに。
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