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「――さて、ゲルマン伯爵」
アレクセイ公爵の声が、夜会の会場の隅にある談話スペースで低く響いた。
私たちの目の前にいるのは、恰幅の良い、タヌキのような顔をした初老の男性だ。
彼は額から滝のような汗を流し、プルプルと震えている。
「あ、あの、なんでしょうか、宰相閣下……」
「先日の領地からの納税申告だが。……どうも計算が合わない気がしてな」
公爵がグラスを揺らす。
その隣で、私は無言で伯爵を見下ろした。
私の脳内では、すでに彼が提出した申告書のデータと、実際に観測された彼の領地の物流データ(事前に公爵からインプットされた)の照合作業が完了していた。
「……伯爵」
私は口を開いた。
「ひっ!」
伯爵がのけぞる。
「昨年度、貴殿の領地では小麦が豊作でしたね。市場への卸値も例年より二割高騰していたはずです。しかし、申告された売上高は平年並み。……差額の約三百万ゴールドは、どこへ消えたのでしょう?」
私は淡々と事実を述べた。
感情などない。ただの計算だ。
しかし、伯爵には死神の宣告に聞こえたらしい。
「そ、それは……その……経費がかさみまして……!」
「経費? 用水路の補修工事ですね。ですが、あの工法なら工期は三ヶ月、費用は五十万もあれば足ります。貴殿は二百万を計上していますが、残りの百五十万で何を? 用水路に金箔でも貼ったのですか?」
「あ、あわわ……」
「それとも、その百五十万は、貴殿が新しく購入された別荘の建築費に化けたのでしょうか? 計算上、数字がぴったり一致しますが」
「ひいいいいっ!」
伯爵が白目を剥きかけた。
「正解のようだな」
公爵が満足げに頷く。
「明日の朝一番で、修正申告書を持ってこい。さもなくば、脱税の容疑で査察官を送る。……担当は彼女だ」
「やります! 払います! すぐに書き直しますぅぅ!」
伯爵は脱兎のごとく逃げ出した。
「一件落着ですね」
私は手元のメモ(脳内帳簿)に『済』のマークをつけた。
「素晴らしい。この調子で次だ。あそこにいるのは、軍需産業の癒着が噂される男爵で……」
公爵が次のターゲットを指差そうとした、その時だった。
「――お待ちなさい!」
甲高い声が割り込んできた。
ピンク色のドレスを揺らし、憤然とした表情で近づいてくるのは、リリーナ嬢だ。
後ろには、心配そうな顔をしたエドワード殿下もついている。
「また来たわね」
私は小さく溜息をついた。
せっかく仕事(恐喝まがいの徴税)が順調だったのに。
「何かしら、リリーナ様。今は公務中なのですが」
「公務ですって!? よく言うわ!」
リリーナ嬢は私をビシッと指差した。
「さっき見ていましたよ! 可哀想なゲルマン伯爵を、二人でいじめていたでしょう!」
「いじめ? いいえ、監査です」
「嘘よ! 伯爵様、泣きそうな顔で逃げていったじゃない! ジョアンナ様、あなたがまた怖い顔で脅したんでしょう!?」
リリーナ嬢が殿下に振り返る。
「エドワード様、聞いてください! ジョアンナ様ったら、権力を笠に着て弱い者いじめをしているんです! なんて卑怯なんでしょう!」
「な、なんだって……?」
殿下が眉をひそめる。
「ジョアンナ、本当か? 伯爵を脅迫したのか?」
「脅迫ではありません。納税の義務を思い出させて差し上げただけです」
「それが脅迫だと言っているんだ! 君は……君はいつからそんな冷徹な女になってしまったんだ!」
殿下が悲痛な声を上げる。
話が通じない。
ゲルマン伯爵が長年不正を働いていた「悪徳貴族」だという前提知識が彼らにはないのだ。
「もう許せません!」
リリーナ嬢が一歩踏み出してきた。
「私が伯爵様に代わって、あなたに抗議します! 謝ってください!」
彼女は私の目の前まで詰め寄ると、何を思ったのか、急に足をもつれさせた。
「あっ……!」
わざとらしい声と共に、彼女の体が大きく傾く。
そして、私の腕に触れるか触れないかの距離で――。
ドサッ!
派手に床に倒れ込んだ。
「きゃああああ!」
悲鳴が上がる。
周囲の視線が一斉に集まる。
「リ、リリーナ!」
殿下が駆け寄る。
リリーナ嬢は床に伏せたまま、涙目で私を見上げた。
「ひどい……! ジョアンナ様、突き飛ばすなんて……!」
会場が凍りついた。
出た。
悪役令嬢モノにおける伝統芸、「自演転倒」だ。
「なんてことだ……」
「見たか? 今、突き飛ばしたぞ」
「いや、触れてなかったような……」
「でも、悪役令嬢ならやりかねん」
憶測が飛び交う。
殿下が私を睨みつける。
「ジョアンナ! 君というやつは……! 言葉で勝てないからといって、暴力を振るうとは!」
「痛い……足が……」
リリーナ嬢が嘘泣きを始める。
完璧な演技だ。女優賞ものだ。
ここで私が「やってません!」と叫べば、泥沼の言い争いになる。
「やってません」と言ったところで、私の顔面凶器フェイスでは説得力ゼロだ。
公爵が一歩前に出ようとした。
彼が口を開けば一発で解決するだろうが、それでは私の「事務処理能力」が疑われる。
私は手で公爵を制した。
そして、静かに、倒れているリリーナ嬢の元へ歩み寄った。
「ひっ……な、何を……」
リリーナ嬢が怯える(演技)。
私は彼女を見下ろし、そして屈み込んだ。
「……なるほど」
私は真顔で呟き、床を指先でスッとこすった。
そして、その指先をじっと観察する。
「……殿下、これは由々しき事態です」
「な、なんだと? 言い訳をするつもりか!」
「いいえ。現場検証の結果が出ました」
私は立ち上がり、近くにいた給仕を呼びつけた。
「そこのあなた。掃除責任者を呼んでちょうだい」
「は、はい?」
「見ての通りです。この床、ワックスの塗布量が規定値を大幅に超えています」
「は……?」
会場中がポカンとする。
私はリリーナ嬢の足元を指差して解説を始めた。
「ここの摩擦係数が著しく低下しています。これでは、ヒールを履いた女性が転倒するのは物理的に必然。……これは明らかに、施設管理側の過失ですね」
「な……何を言って……」
リリーナ嬢が涙を止めて呆然とする。
「リリーナ様、災難でしたね。王城の管理不届きにより、おみ足を滑らせるとは」
私は彼女に手を差し伸べた。
「立てますか? もし怪我をされているなら、すぐに王城の管理部門に損害賠償を請求しましょう。計算なら私が請け負いますよ。慰謝料込みで、ざっと五十万ゴールドは取れるはずです」
「い、慰謝料……?」
「はい。公衆の面前で転倒させられた精神的苦痛と、ドレスのクリーニング代。……さあ、請求書を作成しますので、そこにサインを」
私は懐からメモ帳とペンを取り出した(常に携帯している)。
「え、あ、いや……」
リリーナ嬢が混乱している。
「突き飛ばされた」というシナリオを進行したいのに、私が「床のワックス問題」という斜め上の業務改善案件にすり替えたせいで、台詞が出てこないのだ。
「ジョ、ジョアンナ! 誤魔化すな! 君が突き飛ばしたんだろう!」
殿下が食い下がる。
「殿下、物理学をご存知ですか?」
私は冷ややかに返した。
「私が彼女を突き飛ばしたと仮定しましょう。私の筋力と彼女の体重、そして倒れた方向を計算すると、彼女はあそこまで吹っ飛ぶはずです。しかし、彼女はその場に崩れ落ちた。……これは『垂直方向への重力』と『足元の摩擦力不足』による現象です。つまり、自滅です」
「ぶ、物理……?」
殿下の脳の処理が追いつかない。
そこへ、公爵がゆっくりと口を開いた。
「……ふっ」
また笑っている。
「ジョアンナの言う通りだ。私も見ていたが、彼女は一人で勝手に滑っていたぞ。……まあ、あるいは」
公爵はリリーナ嬢を見下ろし、氷のような視線を突き刺した。
「私のパートナーの前で、三文芝居を打とうとして失敗したか……どちらかだな」
「ッ……!」
リリーナ嬢の顔が真っ赤になる。
図星を突かれたのだ。
彼女は私の手(まだ差し出している)をパシーン!と叩き落とし、自力で立ち上がった。
「も、もういいです! エドワード様、行きましょう!」
「えっ? あ、ああ……リリーナ、足は大丈夫なのか?」
「平気です! ……覚えてらっしゃい、ジョアンナ様!」
リリーナ嬢は捨て台詞を残し、今度は転ばずにスタスタと歩き去っていった。
「あ、賠償請求はしないのですかー?」
私が背中に呼びかけると、彼女は一度だけ肩を震わせたが、振り返らずに消えていった。
殿下も慌てて追いかけていく。
嵐が去った。
周囲の貴族たちは、「……ワックス?」「物理?」「結局、自作自演か……」と困惑しながら散っていった。
「……見事な処理だな」
公爵が感心したように言った。
「感情論を業務問題にすり替えるとは。新しい手口だ」
「事実ですから。あのワックスのかけ方はムラがありすぎます。あとで掃除係に指導しておきます」
「君は本当に、ロマンスの欠片もないな」
「ロマンスで飯は食えません。安全管理の方が重要です」
私はハンカチで手を拭いた。
「しかし……彼女、相当恨んでいるようですね」
「だろうな。二度も恥をかかされたんだ。……次はもっと陰湿な手を使ってくるぞ」
「面倒ですね。いっそ、彼女のドレス代を全額負担してあげれば満足するでしょうか?」
「金で解決しようとするな。……まあいい、来るなら来い。その時は……」
公爵は不敵に笑った。
「倍返しにしてやる」
「……閣下が楽しそうで何よりです」
私たちは再び夜会の波の中へ戻っていった。
悪徳貴族を震え上がらせ、ヒロイン(?)の冤罪劇を物理法則で粉砕し、私たちの「最強コンビ」としての名は、この夜で確固たるものとなった。
だが、リリーナ嬢が去り際に見せたあの目。
あれは、単なる嫉妬ではない。もっとドロドロとした、執念のようなものを感じた。
彼女はまだ諦めていない。
そして数日後。
私の「事務員生命」を揺るがす、最大にして最悪の事件が勃発することになる。
それは、私の最も得意とする「帳簿」を使った罠だった。
アレクセイ公爵の声が、夜会の会場の隅にある談話スペースで低く響いた。
私たちの目の前にいるのは、恰幅の良い、タヌキのような顔をした初老の男性だ。
彼は額から滝のような汗を流し、プルプルと震えている。
「あ、あの、なんでしょうか、宰相閣下……」
「先日の領地からの納税申告だが。……どうも計算が合わない気がしてな」
公爵がグラスを揺らす。
その隣で、私は無言で伯爵を見下ろした。
私の脳内では、すでに彼が提出した申告書のデータと、実際に観測された彼の領地の物流データ(事前に公爵からインプットされた)の照合作業が完了していた。
「……伯爵」
私は口を開いた。
「ひっ!」
伯爵がのけぞる。
「昨年度、貴殿の領地では小麦が豊作でしたね。市場への卸値も例年より二割高騰していたはずです。しかし、申告された売上高は平年並み。……差額の約三百万ゴールドは、どこへ消えたのでしょう?」
私は淡々と事実を述べた。
感情などない。ただの計算だ。
しかし、伯爵には死神の宣告に聞こえたらしい。
「そ、それは……その……経費がかさみまして……!」
「経費? 用水路の補修工事ですね。ですが、あの工法なら工期は三ヶ月、費用は五十万もあれば足ります。貴殿は二百万を計上していますが、残りの百五十万で何を? 用水路に金箔でも貼ったのですか?」
「あ、あわわ……」
「それとも、その百五十万は、貴殿が新しく購入された別荘の建築費に化けたのでしょうか? 計算上、数字がぴったり一致しますが」
「ひいいいいっ!」
伯爵が白目を剥きかけた。
「正解のようだな」
公爵が満足げに頷く。
「明日の朝一番で、修正申告書を持ってこい。さもなくば、脱税の容疑で査察官を送る。……担当は彼女だ」
「やります! 払います! すぐに書き直しますぅぅ!」
伯爵は脱兎のごとく逃げ出した。
「一件落着ですね」
私は手元のメモ(脳内帳簿)に『済』のマークをつけた。
「素晴らしい。この調子で次だ。あそこにいるのは、軍需産業の癒着が噂される男爵で……」
公爵が次のターゲットを指差そうとした、その時だった。
「――お待ちなさい!」
甲高い声が割り込んできた。
ピンク色のドレスを揺らし、憤然とした表情で近づいてくるのは、リリーナ嬢だ。
後ろには、心配そうな顔をしたエドワード殿下もついている。
「また来たわね」
私は小さく溜息をついた。
せっかく仕事(恐喝まがいの徴税)が順調だったのに。
「何かしら、リリーナ様。今は公務中なのですが」
「公務ですって!? よく言うわ!」
リリーナ嬢は私をビシッと指差した。
「さっき見ていましたよ! 可哀想なゲルマン伯爵を、二人でいじめていたでしょう!」
「いじめ? いいえ、監査です」
「嘘よ! 伯爵様、泣きそうな顔で逃げていったじゃない! ジョアンナ様、あなたがまた怖い顔で脅したんでしょう!?」
リリーナ嬢が殿下に振り返る。
「エドワード様、聞いてください! ジョアンナ様ったら、権力を笠に着て弱い者いじめをしているんです! なんて卑怯なんでしょう!」
「な、なんだって……?」
殿下が眉をひそめる。
「ジョアンナ、本当か? 伯爵を脅迫したのか?」
「脅迫ではありません。納税の義務を思い出させて差し上げただけです」
「それが脅迫だと言っているんだ! 君は……君はいつからそんな冷徹な女になってしまったんだ!」
殿下が悲痛な声を上げる。
話が通じない。
ゲルマン伯爵が長年不正を働いていた「悪徳貴族」だという前提知識が彼らにはないのだ。
「もう許せません!」
リリーナ嬢が一歩踏み出してきた。
「私が伯爵様に代わって、あなたに抗議します! 謝ってください!」
彼女は私の目の前まで詰め寄ると、何を思ったのか、急に足をもつれさせた。
「あっ……!」
わざとらしい声と共に、彼女の体が大きく傾く。
そして、私の腕に触れるか触れないかの距離で――。
ドサッ!
派手に床に倒れ込んだ。
「きゃああああ!」
悲鳴が上がる。
周囲の視線が一斉に集まる。
「リ、リリーナ!」
殿下が駆け寄る。
リリーナ嬢は床に伏せたまま、涙目で私を見上げた。
「ひどい……! ジョアンナ様、突き飛ばすなんて……!」
会場が凍りついた。
出た。
悪役令嬢モノにおける伝統芸、「自演転倒」だ。
「なんてことだ……」
「見たか? 今、突き飛ばしたぞ」
「いや、触れてなかったような……」
「でも、悪役令嬢ならやりかねん」
憶測が飛び交う。
殿下が私を睨みつける。
「ジョアンナ! 君というやつは……! 言葉で勝てないからといって、暴力を振るうとは!」
「痛い……足が……」
リリーナ嬢が嘘泣きを始める。
完璧な演技だ。女優賞ものだ。
ここで私が「やってません!」と叫べば、泥沼の言い争いになる。
「やってません」と言ったところで、私の顔面凶器フェイスでは説得力ゼロだ。
公爵が一歩前に出ようとした。
彼が口を開けば一発で解決するだろうが、それでは私の「事務処理能力」が疑われる。
私は手で公爵を制した。
そして、静かに、倒れているリリーナ嬢の元へ歩み寄った。
「ひっ……な、何を……」
リリーナ嬢が怯える(演技)。
私は彼女を見下ろし、そして屈み込んだ。
「……なるほど」
私は真顔で呟き、床を指先でスッとこすった。
そして、その指先をじっと観察する。
「……殿下、これは由々しき事態です」
「な、なんだと? 言い訳をするつもりか!」
「いいえ。現場検証の結果が出ました」
私は立ち上がり、近くにいた給仕を呼びつけた。
「そこのあなた。掃除責任者を呼んでちょうだい」
「は、はい?」
「見ての通りです。この床、ワックスの塗布量が規定値を大幅に超えています」
「は……?」
会場中がポカンとする。
私はリリーナ嬢の足元を指差して解説を始めた。
「ここの摩擦係数が著しく低下しています。これでは、ヒールを履いた女性が転倒するのは物理的に必然。……これは明らかに、施設管理側の過失ですね」
「な……何を言って……」
リリーナ嬢が涙を止めて呆然とする。
「リリーナ様、災難でしたね。王城の管理不届きにより、おみ足を滑らせるとは」
私は彼女に手を差し伸べた。
「立てますか? もし怪我をされているなら、すぐに王城の管理部門に損害賠償を請求しましょう。計算なら私が請け負いますよ。慰謝料込みで、ざっと五十万ゴールドは取れるはずです」
「い、慰謝料……?」
「はい。公衆の面前で転倒させられた精神的苦痛と、ドレスのクリーニング代。……さあ、請求書を作成しますので、そこにサインを」
私は懐からメモ帳とペンを取り出した(常に携帯している)。
「え、あ、いや……」
リリーナ嬢が混乱している。
「突き飛ばされた」というシナリオを進行したいのに、私が「床のワックス問題」という斜め上の業務改善案件にすり替えたせいで、台詞が出てこないのだ。
「ジョ、ジョアンナ! 誤魔化すな! 君が突き飛ばしたんだろう!」
殿下が食い下がる。
「殿下、物理学をご存知ですか?」
私は冷ややかに返した。
「私が彼女を突き飛ばしたと仮定しましょう。私の筋力と彼女の体重、そして倒れた方向を計算すると、彼女はあそこまで吹っ飛ぶはずです。しかし、彼女はその場に崩れ落ちた。……これは『垂直方向への重力』と『足元の摩擦力不足』による現象です。つまり、自滅です」
「ぶ、物理……?」
殿下の脳の処理が追いつかない。
そこへ、公爵がゆっくりと口を開いた。
「……ふっ」
また笑っている。
「ジョアンナの言う通りだ。私も見ていたが、彼女は一人で勝手に滑っていたぞ。……まあ、あるいは」
公爵はリリーナ嬢を見下ろし、氷のような視線を突き刺した。
「私のパートナーの前で、三文芝居を打とうとして失敗したか……どちらかだな」
「ッ……!」
リリーナ嬢の顔が真っ赤になる。
図星を突かれたのだ。
彼女は私の手(まだ差し出している)をパシーン!と叩き落とし、自力で立ち上がった。
「も、もういいです! エドワード様、行きましょう!」
「えっ? あ、ああ……リリーナ、足は大丈夫なのか?」
「平気です! ……覚えてらっしゃい、ジョアンナ様!」
リリーナ嬢は捨て台詞を残し、今度は転ばずにスタスタと歩き去っていった。
「あ、賠償請求はしないのですかー?」
私が背中に呼びかけると、彼女は一度だけ肩を震わせたが、振り返らずに消えていった。
殿下も慌てて追いかけていく。
嵐が去った。
周囲の貴族たちは、「……ワックス?」「物理?」「結局、自作自演か……」と困惑しながら散っていった。
「……見事な処理だな」
公爵が感心したように言った。
「感情論を業務問題にすり替えるとは。新しい手口だ」
「事実ですから。あのワックスのかけ方はムラがありすぎます。あとで掃除係に指導しておきます」
「君は本当に、ロマンスの欠片もないな」
「ロマンスで飯は食えません。安全管理の方が重要です」
私はハンカチで手を拭いた。
「しかし……彼女、相当恨んでいるようですね」
「だろうな。二度も恥をかかされたんだ。……次はもっと陰湿な手を使ってくるぞ」
「面倒ですね。いっそ、彼女のドレス代を全額負担してあげれば満足するでしょうか?」
「金で解決しようとするな。……まあいい、来るなら来い。その時は……」
公爵は不敵に笑った。
「倍返しにしてやる」
「……閣下が楽しそうで何よりです」
私たちは再び夜会の波の中へ戻っていった。
悪徳貴族を震え上がらせ、ヒロイン(?)の冤罪劇を物理法則で粉砕し、私たちの「最強コンビ」としての名は、この夜で確固たるものとなった。
だが、リリーナ嬢が去り際に見せたあの目。
あれは、単なる嫉妬ではない。もっとドロドロとした、執念のようなものを感じた。
彼女はまだ諦めていない。
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