悪役令嬢、自由になれたので憧れの田舎暮らしを満喫しようとしたら拾われた。

黒猫かの

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リリーナ嬢の「自演転倒未遂事件」が物理学的なアプローチによって鎮火した後。

会場の空気は、奇妙な凪の状態にあった。

貴族たちは遠巻きに私たちを観察し、ヒソヒソと噂話をしている。

「聞いたか? 物理法則で論破したらしいぞ」

「氷の公爵と計算の悪女……最強のカップルだ」

「近寄ったら資産状況を暴かれるぞ……」

どうやら私たちは、歩く災害指定区域として認定されたらしい。

おかげで、誰も挨拶に来ない。

平和だ。

「……少し、席を外す」

アレクセイ公爵が、ふとグラスを置いて言った。

「国王陛下にご挨拶をしてくる。君はここで待機していろ」

「承知しました。残ったローストビーフを守っておきます」

「誰にも食われんよ。……いいか、余計な動きはするな。特に、あの馬鹿(エドワード)には関わるな」

「善処します」

公爵は私に釘を刺すと、国王陛下がいる貴賓席の方へと歩いていった。

その背中は、どこまでも優雅で、周囲を威圧するオーラに満ちている。

一人残された私は、壁の花として会場を見渡した。

煌びやかなシャンデリア。

高価なドレス。

そして、虚飾に満ちた会話。

(……帰りたい)

切実にそう思った。

ここの暖房費だけで、私の領地の村が一つ潤うだろうな、とか、あのシャンデリアの清掃コストはいくらだろう、とか、そんなことばかり考えてしまう。

職業病だ。

ふと、私の視界が遮られた。

「……ジョアンナ」

目の前に、金髪の青年が立っていた。

エドワード殿下だ。

リリーナ嬢をどこかに置いてきたらしく、単身での特攻である。

「今だ! 今のうちに逃げるんだ!」

殿下が切羽詰まった表情で囁く。

「はい?」

「叔父上(アレクセイ)がいなくなった隙に、ここから脱出するんだ! 僕が手引きしてやる!」

殿下は私の手首を掴もうとした。

私はサッと半歩下がって回避する。

「殿下、何を仰っているのですか? 私は逃げる理由がありません」

「無理をするな! 君の目は死んでいるぞ!」

「通常運転です」

「叔父上に脅されているんだろう!? 『私の元で働け』と無理やり契約させられ、昼夜を問わず計算をさせられ、自由を奪われている……。君は囚われの姫だ!」

すごい。

事実関係はだいたい合っているのに、ニュアンスが劇的に違う。

「訂正させていただきます。脅されてはいません。高額な給与と福利厚生に釣られて契約しました。計算は趣味です。自由に関しては、むしろ実家にいた頃よりあります」

「嘘だ! あの冷徹な叔父上が、まともな待遇をするはずがない! 君を使い捨ての道具として見ているに決まっている!」

殿下が熱弁を振るう。

「君は騙されているんだ! 目を覚ませ、ジョアンナ! 君の居場所は、あんな氷のような男の隣じゃない!」

殿下の声が大きくなり、周囲の視線が集まり始める。

面倒くさい。

非常に面倒くさい。

公爵が戻ってくるまでの数分間が、これほど長く感じるとは。

「殿下、落ち着いてください。私は現状に満足して……」

「満足なものか! 見ろ、その痩せた体を! やつれた顔を! 叔父上に酷使されている証拠じゃないか!」

「これはダイエットではなく、単に太りにくい体質なだけで……」

「言い訳はいい! さあ、僕の手を取れ! リリーナには悪いが、君をこの地獄から救い出してやる!」

殿下の手が伸びてくる。

今度は回避できなかった。

私の手首が、殿下の温かい(そして少し手汗で湿った)手に掴まれる。

「離してください、殿下。これはセクシャルハラスメント、および公務執行妨害に該当します」

「うるさい! 君のためなんだ!」

殿下が私を強引に引っ張ろうとした、その時だった。

「――ほう」

地獄の底から響くような、低く、冷たい声がした。

一瞬にして、周囲の気温が氷点下まで下がった(気がした)。

殿下の動きが止まる。

私の背筋も凍る。

ゆっくりと振り向くと、そこには魔王が立っていた。

いや、アレクセイ公爵だ。

しかし、その表情は「無」だった。

怒りすら通り越した、完全なる無表情。

ただ、その青い瞳だけが、青白い炎のように燃え上がっている。

「……私の留守に、随分と楽しそうだな、エドワード」

「ひっ……! お、叔父上……!」

殿下が私の手首を掴んだまま、震え上がった。

公爵の視線が、殿下の手と、私の手首の接合点に注がれる。

「……その汚い手を離せ」

静かな命令だった。

しかし、そこには逆らえば即座に社会的抹殺(あるいは物理的抹殺)が実行されるような圧力が込められていた。

「い、嫌だ! 僕はジョアンナを助けるんだ! 叔父上の支配から、彼女を解放する!」

殿下が勇気を振り絞って叫ぶ。

珍しい。このヘタレ王子が、叔父相手にここまで食い下がるとは。

よほど、脳内シナリオにおける「正義の騎士」役に入り込んでいるらしい。

「彼女は僕の大切な幼馴染だ! 叔父上のオモチャになんてさせない!」

「オモチャ……?」

公爵が片眉を跳ね上げた。

彼はゆっくりと歩み寄り、殿下と私の間に割って入った。

そして、殿下の手を私の手首から強引に引き剥がすと、そのまま私の肩を抱き寄せた。

ガシッ。

強い力だった。

逃さない、とでも言うような、所有権を主張するような抱擁。

「勘違いするな、エドワード」

公爵が、私の耳元で囁くような距離で、殿下を見下ろした。

「彼女はオモチャなどではない。……私の、誰よりも得難い『財産』だ」

会場がどよめいた。

「きゃあ……!」

「聞いた!? 『財産』ですって!」

「なんて独占欲……!」

「愛の重さが違うわ……!」

令嬢たちが頬を染めて卒倒しかけている。

殿下も口をパクパクさせている。

「ざ、財産……だと……? 人間をモノ扱いするのか!」

「言葉の綾だ。……彼女がいなければ、私の領地の経営は立ち行かない。国の予算も破綻する。彼女の頭脳、その計算能力、そしてこの度胸……。全てが私にとって不可欠なのだ」

公爵の声に熱がこもる。

「代わりなどいない。彼女は私のものだ。……誰にも渡さん」

決定打だった。

「私のもの」。

その一言が、会場という巨大な反響版を通して、隅々まで行き渡った。

エドワード殿下は、完全に打ちのめされた顔をしていた。

「そ、そんな……。叔父上が、そこまでジョアンナを……本気で……?」

「理解したら消えろ。……二度と、私の視界に入るな」

公爵が袖を払うような仕草をする。

殿下はよろよろと後ずさりし、「ジョ、ジョアンナ……幸せにな……」と捨て台詞(勘違い)を残して、人混みの中へ消えていった。

完全勝利だ。

周囲からは「まあ素敵」「情熱的ね」「氷が溶けたわ」という感嘆の声が上がっている。

公爵は、殿下が見えなくなるまで睨みつけていたが、やがてふぅと息を吐き、私を見た。

「……災難だったな」

いつもの冷静な顔に戻っている。

しかし、抱き寄せた腕はまだ解かれていない。

「閣下」

私は公爵を見上げた。

「なんの真似ですか?」

「なんの、とは?」

「今の『私のもの』発言です。あれでは周囲に『愛人宣言』と受け取られかねませんよ」

「事実だろう」

「はい?」

「君は私の雇用下にある。つまり、私の人的資源だ。それを部外者が勝手に持ち出そうとしたのだから、所有権を主張するのは当然の権利だ」

公爵は平然と言い放った。

「私が投資した(ドレス代や菓子代)リソースを回収する前に、他人に奪われてたまるか」

なるほど。

やはりこの男、ブレない。

周囲の色めき立った反応とは裏腹に、彼の思考はあくまで「損益計算」に基づいていた。

だが、私としては一つ確認しておきたいことがあった。

「あの、閣下」

「なんだ」

「先ほどの『不可欠』とか『代わりがいない』というお言葉……あれは、人事考課として受け取ってよろしいのでしょうか?」

「……なんだそれは」

「つまり、私の能力を高く評価していただいている、ということですよね?」

私の目が、「¥」のマークに変わった(気がした)。

「でしたら、次回の契約更新時に、お給料のベースアップを要求しても?」

「……」

公爵が呆れた顔をした。

「この状況で、考えるのは金のことか?」

「当然です。私は『財産』なのですから。資産価値に見合った維持費が必要です」

「……ははっ」

公爵が吹き出した。

「君というやつは……。本当に、色気より食い気(金)だな」

彼は私の頭をポンと叩いた。

「いいだろう。考えておく。……ただし、私の期待以上の働きを続ければ、だがな」

「ありがとうございます! 一生ついていきます!」

「現金なやつだ」

公爵は苦笑しながらも、その目はどこか楽しそうだった。

こうして、夜会での「公爵による愛の告白(実は雇用契約の確認)」は、伝説として語り継がれることになった。

「氷の公爵」が、公衆の面前で一人の女性を独占し、熱烈な言葉を囁いた……と。

もちろん、その内容が「お前は便利な計算機だ」という意味だったとは、誰も知る由もない。

「さあ、帰るぞジョアンナ。明日は早い」

「はい、閣下。……あ、お土産のタルトをもらって帰っても?」

「好きにしろ」

私たちは腕を組んで会場を後にした。

背中に突き刺さる嫉妬や羨望の視線を、公爵の「絶対零度バリア」で弾き返しながら。

馬車に乗り込むと、どっと疲れが出た。

「……疲れました」

「私もだ。エドワードの相手は、国務より疲れる」

公爵がネクタイを緩める。

その無防備な姿に、少しだけドキッとしたのは秘密だ。

「ですが、これでしばらくは静かになるでしょう」

「そう願いたいものだ」

しかし。

私たちの願いは、翌日あっさりと打ち砕かれることになる。

静かになるどころか、事態はさらにややこしい方向へと転がり始めていた。

それは、公爵邸に届いた一通の手紙ではなく――王都中に拡散された「新聞」によってもたらされた。

翌朝。

いつものように優雅な朝食を楽しんでいた私の元へ、血相を変えたマリーが飛び込んできた。

「ジョ、ジョアンナ様! 大変です!」

「どうしたの? また計算ミス?」

「違います! これをご覧ください!」

マリーが差し出したのは、王都で一番の発行部数を誇るゴシップ紙『王都週報』だった。

その一面トップに、デカデカと掲載されていたのは。

私と公爵が、昨夜の夜会で見つめ合っている(ように見える)写真(魔導写真)。

そして、衝撃的な見出し。

『氷の公爵、悪女に堕ちる! 国を傾ける魔性の女ジョアンナ、次なるターゲットは宰相の座か!?』

「……」

私はトーストを落とした。

「なんですか、これ」

「記事によると……『ジョアンナ嬢は王子を捨て、より権力のある公爵に乗り換えた』『公爵は彼女の色香に惑わされ、国政を私物化しようとしている』……と」

「……」

「さらに、『彼女は公爵邸で毎晩、怪しげな儀式(残業)を行っている』とも書かれています!」

事実無根だ。

いや、残業はしているが、儀式ではない。

「誰がこんなデタラメを……」

私は記事の末尾を見た。

そこには『情報提供者:匿名希望の男爵令嬢R』と書かれていた。

「リリーナ……!」

私は拳を震わせた。

あの小娘、転んでもただでは起きないとはこのことか。

自分への同情を集めるのではなく、私を「国を狙う悪女」に仕立て上げることで、社会的に抹殺しようという作戦に出たらしい。

「おはよう、ジョアンナ。朝から騒がしいな」

そこへ、アレクセイ公爵が起きてきた。

彼は私の手にある新聞を覗き込み、そして眉をひそめた。

「……ほう」

怒るかと思った。

あるいは、呆れるか。

しかし、公爵の反応は違った。

彼は口元を歪め、最高に冷酷で、そして楽しそうな笑みを浮かべたのだ。

「面白い。……売られた喧嘩だ。盛大に買ってやろうじゃないか」

「か、閣下?」

「ジョアンナ、今日の予定を変更する」

公爵が指を鳴らす。

「城下町へ行くぞ」

「へ?」

「噂が本当かどうか、民衆に見せつけてやるのだ。……我々の『デート』をな」

「はあああ!?」

こうして、リリーナ嬢の放ったゴシップ記事を逆手に取った、公爵による「公開デート(という名の視察)」作戦が決行されることになった。

それは、私の平穏な事務員生活をさらに脅かす、甘くて危険な一日の始まりだった。
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