君が尊すぎて直視できない!?婚約破棄の理由がそれってどうなの?

黒猫かの

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 王宮の回廊を、鋭い靴音を響かせて進む美しい影があった。
 ベルシュタイン公爵令嬢ローゼンは、かつてないほど「怒って」いた。
 その後ろを、相変わらず無表情な侍女のマリーが、大量の領収書と苦情申し立て書を持って歩いている。

「お嬢様、足元にお気をつけください。あまりにも歩みが早すぎて、床の絨毯が摩擦熱で焦げ始めております」

「放っておいてちょうだい、マリー。今の私は、あのバカ……失礼、殿下の脳みそを魔法で直接冷やして差し上げたい気分なのよ」

「それは素晴らしい。ついでに冷凍保存して、国家の重要文化財に指定してはいかがでしょうか。『世界で最も愛が重すぎて使い物にならなかった脳』として」

 そんな主従の会話を聞きつけたのか、廊下の角から現れた王宮騎士たちが、ローゼンの姿を見た瞬間に一斉にその場にひれ伏した。

「ろ、ローゼン様だ! 女神が、女神が降り立たれたぞ!」

「全員、目を伏せろ! 直視すれば網膜が焼かれるぞ! 殿下の教えを忘れたのか!」

 騎士たちは申し合わせたように、地面に額をこすりつけ、あるいは慌ててポケットからサングラスを取り出して装着し始めた。

「……何ですの、この異様な光景は」

 ローゼンは足を止め、困惑してマリーを振り返った。

「恐らく、殿下が騎士団に対して『ローゼン嬢は太陽以上の輝きを放つ存在ゆえ、許可なく直視することは不敬、かつ健康被害を及ぼす』という訓示を出されたのでしょう。……ほら、あそこの掲示板に『ローゼン嬢対策マニュアル・初級編』が貼ってあります」

「……帰りたい。今すぐ帰って苔の世話をしていたほうがマシですわ」

 しかし、ここで逃げれば、ベルシュタイン邸は永遠にアルフレッドの「聖域」として改造され続けてしまう。
 ローゼンは意を決して、王太子執務室の重厚な扉を勢いよく蹴り開けた。

「殿下! お話があります!」

 部屋の中にいたアルフレッドは、机の上に広げられた山のような書類……ではなく、ローゼンの「隠し撮り」ならぬ「隠し描画」された肖像画のコレクションを整理している最中だった。
 彼は扉が開いた衝撃にビクンと肩を揺らすと、こちらを振り向き、そして次の瞬間には机の下に潜り込んだ。

「……殿下? 何をなさっているのですか?」

「き、君……! なぜここに! まだ心の準備ができていない! 今日の君の尊さは、事前のシミュレーションを五万回繰り返した私の精神防御を容易に突き破っている!」

 机の下から、震える声が響く。

「お嬢様、殿下は現在、あまりの光栄にパニックを起こしているようです。机をひっくり返しましょうか?」

「いいわ、マリー。殿下、いい加減にしてください。あの苔! 十トンの苔はどういうつもりですの!」

「……苔? ああ、あれか……。不服だったのかい? やはり十トンでは、君が吐き出す二酸化炭素を完全に浄化するには不足だったということだね。わかった、すぐにあと五十トン追加発注を……」

「させませんわよ! うちの庭をジャングルにする気ですか! いいですか殿下、あなたは私との婚約を破棄されたのでしょう? ならば、もう私は他人も同然です。このような過剰な贈り物は迷惑以外の何物でもありませんわ」

 ローゼンが冷たく言い放つと、ようやくアルフレッドが机の下から這い出してきた。
 その顔は、涙と鼻血でぐちゃぐちゃ……になりかけているが、不思議と造形が美しいので見ていられるのが余計に腹立たしい。

「他人……? ああ、そうか。確かに世間的にはそう見えるのかもしれない。だがローゼン、私は君を解放するために婚約破棄したのではない。君という存在を、特定の誰かの所有物(私)という枠から外し、全人類が共有すべき『文化遺産』として保存するために、まずは私が一番の信者となって守護しようと決めたんだ!」

「……理解不能ですわ」

「君を妻にすれば、私は君を独り占めしてしまう。それは罪だ! 私は君を遠くから見守り、供え物をし、君が歩く道を清め、君が吸う空気を濾過する。それこそが私の新しい生きる道なんだ!」

「それを世間ではストーカーと呼ぶのですよ、殿下」

 ローゼンは一歩、アルフレッドに詰め寄った。

「いいですか。今すぐすべての贈り物を止め、わたくしの周囲に配置した監視……いえ、『守護騎士』たちを撤収させてください。さもなければ、わたくしは今この場で、あなたを一生呪い続けますわ」

「呪い……! 君に呪われる!? それはつまり、君の意識の中に私が永遠に居座り続けるということだね!? ああ、なんて甘美な響きなんだ……。ローゼン、君はどこまで私に尽くしてくれるんだ!」

「ダメだわ、この人。言葉が通じないどころか、マイナスをプラスに変換する魔法のフィルターが脳内に標準装備されているわ」

 ローゼンは絶望感に襲われ、フラフラとよろめいた。
 その体を支えたのは、マリーではなく、いつの間にか部屋に入ってきていた見慣れぬ美青年だった。

「兄上、いい加減にしてください。義姉上……いえ、ローゼン殿が本気で困っているではありませんか」

「レオナルド! 邪魔をするな! 私は今、彼女の呪いを受け入れるための心の儀式を行っている最中なんだ!」

 現れたのは、第二王子のレオナルドだった。
 彼はアルフレッドの弟であり、兄とは対照的に非常に理性的で、王宮内の良心と言われている人物だ。

「ローゼン殿、申し訳ありません。兄の脳内は、あなたが生まれた瞬間からバラ色と紫色のオーラで埋め尽くされているんです。……正直、我々親族も、彼をどう止めたらいいのか頭を抱えておりまして」

「レオナルド様……。あなただけが頼りですわ。どうにかして、この男の暴走を止めてください」

「善処します。ですが、兄は『愛が重い』のではなく、『愛そのものが自転している』ような状態ですから、物理的に止めるのは難しいかもしれません」

 アルフレッドは、弟と親しげに話すローゼンの姿を見て、再び「ぐはぁっ!」と胸を押さえて倒れ込んだ。

「二人の……二人の高貴な会話が……! 構図が完璧すぎて……キャンバスが……キャンバスを持ってこい……! 今すぐこの光景を国宝にするんだ!」

「マリー、帰りましょう。ここにいると、こちらの知能指数まで下がっていく気がするわ」

「賢明な判断です、お嬢様。既に殿下の鼻血で床が汚れ始めております」

 ローゼンはレオナルドに深々とお辞儀をし、背後で「待ってくれ! まだ君の今日の歩数の報告を受けていないんだ!」と叫ぶアルフレッドを無視して、執務室を後にした。

 王宮を出る際、再びサングラス姿の騎士たちが整列していた。

「……マリー」

「はい、お嬢様」

「明日から、変装して街に出るわ。殿下の目に触れない場所へ逃げるのよ」

「承知いたしました。では、農夫の格好から始めましょうか。殿下が昨日なさっていたものよりは、はるかに質の高い変装をご用意いたします」

 ローゼンの決意とは裏腹に、王宮の空にはアルフレッドが放った「ローゼン嬢への愛の祝砲(魔力による光の弾)」が数千発、昼間だというのに虚しく打ち上がり続けていた。
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