君が尊すぎて直視できない!?婚約破棄の理由がそれってどうなの?

黒猫かの

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 ベルシュタイン公爵邸の裏門から、こっそりと二人の人影が這い出した。
 一人は、つぎはぎだらけの茶色いワンピースに身を包み、頭に手拭いを巻いた少女。
 もう一人は、同じく地味な灰色の服を着た、冷めた目つきの侍女である。

「……マリー。本当にこれで大丈夫なの? 鏡を見たけれど、どこからどう見ても『不作に悩む農家の娘』にしか見えなかったわ」

 ローゼンは、自分のゴワゴワしたスカートを摘み上げながら不安げに呟いた。
 あんなに輝いていた銀髪は手拭いの中に隠し、顔にはわざと少しだけ泥を塗ってある。

「お嬢様、それこそが狙いです。殿下の仰る『女神の輝き』を物理的に遮断するには、泥と粗末な麻布が最適なのです。現在のあなたは、道端に転がるジャガイモと同程度の存在感しかありません」

「ジャガイモ……。少し傷つくけれど、今の私には最高の褒め言葉ね。これでようやく、殿下の監視の目から逃れて、普通の女の子として街歩きを楽しめるわ!」

 ローゼンは意気揚々と、下町の市場へと足を踏み入れた。
 鼻をくすぐる焼きたてのパンの香り、威勢の良い商人たちの掛け声、そして飛び交う罵声すら、今の彼女には新鮮で心地よい響きだった。

「見て、マリー! あそこの串焼き、とっても美味しそう! 公爵邸では絶対に出てこないような、ワイルドな見た目だわ!」

「お嬢様、はしゃぎすぎて手拭いがズレております。……ですが、たまには羽を伸ばすのもよろしいでしょう。さあ、あの脂ぎった肉の塊を購入して差し上げます」

 二人が屋台の列に並ぼうとした、その時だった。
 背後から、異様に重苦しく、それでいて熱を帯びた視線を感じ、ローゼンは反射的に身震いした。

「……嫌な予感がするわ」

「奇遇ですね、お嬢様。私もです。それも、王室特有の、あの高貴かつ独りよがりな予感です」

 おそるおそる振り返ると、そこには不自然なほど「普通」を装った一人の男が立っていた。
 ボロボロのコートを着込み、深く帽子を被っているが、その隙間から覗く顎のラインが異常に整っている。
 何より、その男は鼻眼鏡(大きな鼻と太い眉毛がついたおもちゃのメガネ)を装着していた。

「……ねえ、マリー。あの鼻眼鏡の不審者、誰かしら」

「お嬢様、深く考えないでください。ただの、絶望的に変装センスのない王太子です」

 鼻眼鏡の男――アルフレッドは、ローゼンが自分を見たことに気づくと、これ見よがしに咳払いをし、低い声(変声のつもり)で話しかけてきた。

「……おや、そこの可愛らしい村娘さん。お一人……いや、お二人かな? 奇遇だね、私もたった今、この街のジャガイモの流通量を調査しに来たところなんだ」

「殿下。バレバレですわよ。その鼻眼鏡、逆効果です」

 ローゼンが冷たく言い放つと、アルフレッドは一瞬で鼻眼鏡をかなぐり捨て、その場に崩れ落ちた。

「あああ! バレてしまった! だが、見てくれローゼン! 君がどんなに泥にまみれ、粗末な布を纏おうとも、私の愛の眼差し(ラブ・レーダー)は君から放たれる聖なるフォトンを逃さない!」

「フォトンって何ですの。とにかく、私は今日、一人で街を楽しみたかったのです。ついてこないでいただけますか?」

「無理な相談だ! 君がそんな無防備な格好で街を歩くなど、ライオンの群れの中にマシュマロを投げ込むようなものだ! 見てみろ、周囲の男たちの目を! 君の泥に隠された美しさに、皆が気づき始めている!」

 アルフレッドが周囲を指差すと、そこには「なんだあの騒がしい男は」という白い目でこちらを見る通行人たちがいただけだった。

「誰も私のことなんて見ていませんわよ。見ているのは、道端で絶叫している変な格好のあなただけです」

「それは彼らが節穴だからだ! あるいは、君が放つ『あまりにも庶民に擬態しすぎたオーラ』に脳が処理を拒否しているに違いない! だが私は違う! そのつぎはぎの布地の一枚一枚が、君の肌に触れているという事実に嫉妬して狂いそうだ!」

「お嬢様、やはりこの男は一度神殿で清めてもらうべきです。脳の浄化が必要です」

 マリーが真顔で提案するが、アルフレッドは止まらない。

「さあ、ローゼン! 一人で歩くのが危険なら、私が護衛しよう! 幸い、今日の私は『名もなき傭兵A』という設定だ。この剣(飾りが豪華すぎて隠せていない)にかけて、君の平穏を守り抜こう!」

「設定とか言わないでください。……はあ、わかりましたわよ。もう勝手にしてください。その代わり、騒がないと約束してくださいね」

 結局、ローゼンはアルフレッドを連れて(正確には勝手についてこられて)市場を回ることになった。

「ほら、殿下。あそこの屋台の串焼き、食べてみたかったのです。あなたが騒ぐから、お店の人が怯えているではありませんか」

「な、なんだって……! 君が、その……棒に刺さった謎の肉を食べたいというのか!? ああ、なんという庶民への慈しみ! 君は王族の食事を捨て、民と同じ苦しみ(?)を分かち合おうというのだね!」

「ただ美味しいそうだから食べたいだけですわよ」

 ローゼンが串焼きを一本受け取り、上品に一口かじると、アルフレッドはそれを見て再び胸を押さえた。

「……あ、今の……。肉汁が君の唇に……。ああああ、その串になりたい! 君に噛み締められるその一本の木の棒になりたいんだ、私は!」

「マリー、聞こえないふりをして。全力で無視するのよ」

「心得ております、お嬢様。私は今、時を刻むだけの石像になっております」

 ローゼンが黙々と串焼きを食べる横で、アルフレッドは店主に金貨を投げつけ、「この串は国宝にする! 彼女が触れた部分をダイヤモンドでコーティングするから今すぐ譲れ!」と叫び始めた。

「……殿下。それ、私が今食べている途中ですわよ」

「構わん! 君が食べ終えた瞬間に、それは聖遺物へと昇華されるんだ! さあ、最後の一口までゆっくり、私に見せつけながら食べるがいい!」

 結局、ローゼンの「普通の女の子体験」は、一人の狂信的な王太子の乱入によって、ただの「公開崇拝イベント」へと成り果ててしまった。
 ローゼンは最後の一口を飲み込むと、半分泣きそうな顔でマリーを見た。

「マリー……。私、次はもっと深い森の中にでも逃げようかしら」

「お嬢様。殿下なら、たとえ地底湖の底でも、お嬢様の吐息を頼りに潜水艦を建造して追いかけてくるでしょう」

 夕暮れの市場に、アルフレッドの「ブラボー! 咀嚼する姿も美しいぞ、ローゼン!」という叫び声が、いつまでも虚しく響き渡っていた。
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