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ベルシュタイン公爵邸の門前は、もはや一つの野外音楽堂と化していた。
整列した千人の合唱団が、お揃いの「ローゼン様親衛隊」と刺繍されたローブを纏い、空に響き渡るような美声で合唱している。
「ああ、ローゼン。君の瞳は紫の銀河……。君の吐息は春の南風……」
その指揮を執っているのは、黄金のタクトを軽やかに振るアルフレッドだった。
彼はこの世の至福を体現したような笑顔で、自らも一節ごとに力強く歌い上げている。
「殿下あああああ!! いい加減にしてください!!」
ついに公爵邸の正門が乱暴に開き、怒り心頭のローゼンが飛び出してきた。
その後ろには、遮音効果のある特注の耳栓を装着したマリーが、無表情で旗を振っている(「中止」と書かれた赤い旗だ)。
ローゼンの怒声を聞くやいなや、アルフレッドはタクトをぴたりと止めた。
千人の合唱団も一糸乱れぬ動きで静止し、現場に不気味なほどの静寂が訪れる。
「……見たか、諸君。今の、彼女の喉の震わせ方を。怒りによって高まった声の倍音。あれこそが究極のソプラノだ」
アルフレッドは感極まった様子で、自分の胸に手を当てた。
「殿下、今の私の声に音楽的価値を見出さないでください! 普通の挨拶をするとおっしゃったのに、なぜ合唱団を連れてくるのですか!」
「ローゼン、君はまだ気づかないのかい? 『普通』とは、大衆に支持されるということだ。ならば、千人の市民が君の美しさを肯定し、歌い上げる。これこそが、民主的で最も『普通』な挨拶の形ではないか!」
「どこがですか! 近所迷惑以外の何物でもありませんわ! お父様が先ほどから、書斎で耳を塞ぎながら遺書を書き始めましたのよ!」
ローゼンは肩で息をしながら、アルフレッドに指を突きつけた。
今日の彼女は、怒りのあまり完璧な令嬢の仮面をかなぐり捨て、髪を振り乱している。
しかし、その「乱れた美」さえも、アルフレッドの狂信的な瞳には「情熱的な女神の顕現」として焼き付けられていた。
「ああ……。怒る君も、またダイヤモンドより眩しい。ローゼン、そんなに私に構ってほしいのかい? 千人の声をかき消してまで、自分の声を私に届けたいというのかい?」
「……もう、限界ですわ」
ローゼンは深く、冷たい溜息をついた。
説得も、変装も、筋肉への抗議も、すべてが無駄だった。
この男の脳内にあるフィルターを破壊するには、もっと直接的で、致命的な言葉が必要だ。
「アルフレッド殿下。……わたくし、決めましたわ」
ローゼンの声が、今までとは違う、絶対零度の冷たさを帯びた。
マリーが耳栓を外し、事態の深刻さを察して姿勢を正す。
「おや、改まってどうしたんだい? もしかして、再婚約の申し入れかな? だが、今の私はまだ『普通の隣人』としての修行が足りないから、あと百年ほど待って……」
「いいえ。――絶交です」
その言葉が、王宮の庭園にまで届くのではないかというほど明瞭に響いた。
「ぜ、ぜっこう……?」
アルフレッドが、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まる。
「ええ。もう二度と、わたくしの前に姿を現さないでください。声も聞きたくありませんし、贈り物の箱を見るだけで吐き気がします。あなたがこの屋敷の半径一キロ以内に近づいた瞬間、わたくしは自分に禁忌の魔法をかけて、あなたに関するすべての記憶を消去しますわ。……いいですか、殿下。わたくしは、あなたが『嫌い』です。心の底から、軽蔑しています」
ローゼンは言い切った。
これ以上ないほどの罵倒。
これ以上ないほどの絶縁宣言。
たとえアルフレッドでも、ここまで明確に「嫌い」「軽蔑」と言われれば、流石に心が折れるはずだ。
実際、周囲の合唱団のメンバーたちは「ヒッ……」と息を呑み、あまりの迫力に次々と後ずさりしている。
しかし。
アルフレッドは、そのままゆっくりと膝を突き、両手で顔を覆った。
「……ああ……。ああああああ……!!」
「(……ようやく届いたのね。可哀想だけれど、これでお互いのために……)」
ローゼンが少しだけ罪悪感を覚え、言葉をかけようとしたその瞬間。
アルフレッドは、見たこともないほど幸せそうな、恍惚の表情で顔を上げた。
「……究極だ。究極のご褒美だ、ローゼン!!」
「……はい?」
「聞いたか、諸君! 彼女は今、私を『軽蔑している』と言った! それはつまり、彼女の清廉潔白な心の中に、『アルフレッド』という名の深い傷跡が刻まれたということだ! 愛の反対は無関心。だが嫌悪とは、執着の裏返し! 君は今、私を意識の外に置くことができず、全力で『排除したい』と思うほど、私の存在に囚われているということだ!」
アルフレッドは立ち上がり、狂喜乱舞して叫んだ。
「絶交!? それは私と君だけの、二人だけの特別な関係性が完成したという宣言だ! 『近づいたら記憶を消す』!? なんという情熱的な心中宣告なんだ! 私の存在が君の記憶を壊すほどに大きいということを、君自身が認めてくれたんだね!」
「違います! 本当に嫌なだけですわ!!」
「嫌よ嫌よも好きのうち……。いや、君の場合は『嫌よ嫌よは死ぬほど愛してる』という意味なのは、その潤んだ瞳を見ればわかる! ああ、ローゼン! 君に嫌われるなんて、なんて甘美な苦痛なんだ! 私の筋肉が、君の冷たい言葉を受けて今、かつてないほど激しくパンプアップしているぞ!」
アルフレッドは着ていたシャツを自ら引きちぎり、バキバキの筋肉を夕陽に晒しながら絶叫した。
「諸君! 曲を変更だ! 新しい讃美歌のタイトルは『蔑みの女神と、囚われの僕(しもべ)』だ! 短調で、もっと激しく、彼女の冷酷さを讃えるんだ!!」
再び合唱団が、今度は不気味で重厚なメロディを歌い始めた。
「……マリー。私、もう死んでいいかしら」
「お嬢様、死んではいけません。死んだら、殿下は間違いなく『ローゼン嬢・永久保存用クリスタル宮殿』を建設し、一生その前で歌い続けます」
「……この世に、私の逃げ場はないのね」
ローゼンは、自分の言葉さえもガソリンに変えて燃え上がるアルフレッドの背中を見つめながら、ついにその場に泣き崩れた。
絶交という名の「愛のスパイス」を手に入れた王太子の暴走は、もはや神の加護を以てしても止めることはできない領域へと突入していた。
整列した千人の合唱団が、お揃いの「ローゼン様親衛隊」と刺繍されたローブを纏い、空に響き渡るような美声で合唱している。
「ああ、ローゼン。君の瞳は紫の銀河……。君の吐息は春の南風……」
その指揮を執っているのは、黄金のタクトを軽やかに振るアルフレッドだった。
彼はこの世の至福を体現したような笑顔で、自らも一節ごとに力強く歌い上げている。
「殿下あああああ!! いい加減にしてください!!」
ついに公爵邸の正門が乱暴に開き、怒り心頭のローゼンが飛び出してきた。
その後ろには、遮音効果のある特注の耳栓を装着したマリーが、無表情で旗を振っている(「中止」と書かれた赤い旗だ)。
ローゼンの怒声を聞くやいなや、アルフレッドはタクトをぴたりと止めた。
千人の合唱団も一糸乱れぬ動きで静止し、現場に不気味なほどの静寂が訪れる。
「……見たか、諸君。今の、彼女の喉の震わせ方を。怒りによって高まった声の倍音。あれこそが究極のソプラノだ」
アルフレッドは感極まった様子で、自分の胸に手を当てた。
「殿下、今の私の声に音楽的価値を見出さないでください! 普通の挨拶をするとおっしゃったのに、なぜ合唱団を連れてくるのですか!」
「ローゼン、君はまだ気づかないのかい? 『普通』とは、大衆に支持されるということだ。ならば、千人の市民が君の美しさを肯定し、歌い上げる。これこそが、民主的で最も『普通』な挨拶の形ではないか!」
「どこがですか! 近所迷惑以外の何物でもありませんわ! お父様が先ほどから、書斎で耳を塞ぎながら遺書を書き始めましたのよ!」
ローゼンは肩で息をしながら、アルフレッドに指を突きつけた。
今日の彼女は、怒りのあまり完璧な令嬢の仮面をかなぐり捨て、髪を振り乱している。
しかし、その「乱れた美」さえも、アルフレッドの狂信的な瞳には「情熱的な女神の顕現」として焼き付けられていた。
「ああ……。怒る君も、またダイヤモンドより眩しい。ローゼン、そんなに私に構ってほしいのかい? 千人の声をかき消してまで、自分の声を私に届けたいというのかい?」
「……もう、限界ですわ」
ローゼンは深く、冷たい溜息をついた。
説得も、変装も、筋肉への抗議も、すべてが無駄だった。
この男の脳内にあるフィルターを破壊するには、もっと直接的で、致命的な言葉が必要だ。
「アルフレッド殿下。……わたくし、決めましたわ」
ローゼンの声が、今までとは違う、絶対零度の冷たさを帯びた。
マリーが耳栓を外し、事態の深刻さを察して姿勢を正す。
「おや、改まってどうしたんだい? もしかして、再婚約の申し入れかな? だが、今の私はまだ『普通の隣人』としての修行が足りないから、あと百年ほど待って……」
「いいえ。――絶交です」
その言葉が、王宮の庭園にまで届くのではないかというほど明瞭に響いた。
「ぜ、ぜっこう……?」
アルフレッドが、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まる。
「ええ。もう二度と、わたくしの前に姿を現さないでください。声も聞きたくありませんし、贈り物の箱を見るだけで吐き気がします。あなたがこの屋敷の半径一キロ以内に近づいた瞬間、わたくしは自分に禁忌の魔法をかけて、あなたに関するすべての記憶を消去しますわ。……いいですか、殿下。わたくしは、あなたが『嫌い』です。心の底から、軽蔑しています」
ローゼンは言い切った。
これ以上ないほどの罵倒。
これ以上ないほどの絶縁宣言。
たとえアルフレッドでも、ここまで明確に「嫌い」「軽蔑」と言われれば、流石に心が折れるはずだ。
実際、周囲の合唱団のメンバーたちは「ヒッ……」と息を呑み、あまりの迫力に次々と後ずさりしている。
しかし。
アルフレッドは、そのままゆっくりと膝を突き、両手で顔を覆った。
「……ああ……。ああああああ……!!」
「(……ようやく届いたのね。可哀想だけれど、これでお互いのために……)」
ローゼンが少しだけ罪悪感を覚え、言葉をかけようとしたその瞬間。
アルフレッドは、見たこともないほど幸せそうな、恍惚の表情で顔を上げた。
「……究極だ。究極のご褒美だ、ローゼン!!」
「……はい?」
「聞いたか、諸君! 彼女は今、私を『軽蔑している』と言った! それはつまり、彼女の清廉潔白な心の中に、『アルフレッド』という名の深い傷跡が刻まれたということだ! 愛の反対は無関心。だが嫌悪とは、執着の裏返し! 君は今、私を意識の外に置くことができず、全力で『排除したい』と思うほど、私の存在に囚われているということだ!」
アルフレッドは立ち上がり、狂喜乱舞して叫んだ。
「絶交!? それは私と君だけの、二人だけの特別な関係性が完成したという宣言だ! 『近づいたら記憶を消す』!? なんという情熱的な心中宣告なんだ! 私の存在が君の記憶を壊すほどに大きいということを、君自身が認めてくれたんだね!」
「違います! 本当に嫌なだけですわ!!」
「嫌よ嫌よも好きのうち……。いや、君の場合は『嫌よ嫌よは死ぬほど愛してる』という意味なのは、その潤んだ瞳を見ればわかる! ああ、ローゼン! 君に嫌われるなんて、なんて甘美な苦痛なんだ! 私の筋肉が、君の冷たい言葉を受けて今、かつてないほど激しくパンプアップしているぞ!」
アルフレッドは着ていたシャツを自ら引きちぎり、バキバキの筋肉を夕陽に晒しながら絶叫した。
「諸君! 曲を変更だ! 新しい讃美歌のタイトルは『蔑みの女神と、囚われの僕(しもべ)』だ! 短調で、もっと激しく、彼女の冷酷さを讃えるんだ!!」
再び合唱団が、今度は不気味で重厚なメロディを歌い始めた。
「……マリー。私、もう死んでいいかしら」
「お嬢様、死んではいけません。死んだら、殿下は間違いなく『ローゼン嬢・永久保存用クリスタル宮殿』を建設し、一生その前で歌い続けます」
「……この世に、私の逃げ場はないのね」
ローゼンは、自分の言葉さえもガソリンに変えて燃え上がるアルフレッドの背中を見つめながら、ついにその場に泣き崩れた。
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