15 / 28
15
しおりを挟む
ベルシュタイン公爵邸の地下、普段は古い家具や季節外れの装飾品が置かれている物置。
湿っぽく、埃の匂いが漂うその場所に、場違いなほど豪華な装飾が施された簡易ベッドが持ち込まれていた。
その上で、王太子アルフレッドは額に濡れタオルを乗せ、薄い毛布を被って横たわっている。
「……マリー。なぜわたくしは、自分の屋敷の地下で、元婚約者に特製のお粥を作らなければならないのかしら」
ローゼンは、銀の匙で鍋の中を虚しくかき混ぜながら呟いた。
彼女の目の前には、お世辞にも「病人食」とは呼べないほど、たっぷりの薬草(主に苦いやつ)と、嫌がらせのように刻まれた大量のニンニクが入ったお粥が鎮座している。
「お嬢様、それは慈悲でございます。公爵家の門前で王太子が干物になるのを防ぎ、かつ『絶交中だが最低限の人道支援は行う』という、国際政治のような高度なバランス感覚の現れです」
マリーは傍らで、温度計をじっと見つめながら答えた。
「ちなみに、殿下の体温は現在、平熱より二度ほど高い状態を維持しております。……ただ、心拍数が通常の三倍です。これは風邪の症状ではなく、単なる『お嬢様が近くにいることによる異常興奮』によるものかと推測されます」
「やっぱり、たたき出してよろしいかしら」
「お止めしませんが、今追い出すと、殿下は間違いなく『看病の途中で捨てられた悲劇の夫』という新しい設定を引っ提げて、さらに強力な雨雲を引き連れて戻ってこられるでしょう」
ローゼンは深く、深く溜息をつき、出来上がった(毒々しい香りのする)お粥を盆に乗せてベッドサイドへ向かった。
アルフレッドは目を閉じたまま、荒い呼吸を繰り返している。……が、ローゼンが近づくにつれ、その口角がわずかに、本当にわずかにピクピクと動いているのを、彼女は見逃さなかった。
「殿下。起きてください。お粥を持ってきましたわよ」
「……う、ううん……。ここは……天国かな……? ああ……ローゼンの声が聞こえる。天使のラッパの音より、ずっと心地よい響きだ……」
アルフレッドはゆっくりと、芝居がかった動作で目を開けた。
その瞳は、熱のせいか、あるいは欲望のせいか、らんらんと輝いている。
「早く食べてください。そして、食べたらすぐに王宮へ帰るのですわよ」
「……ああ、ローゼン。君の作った料理を食べられるなんて。……毒が入っていても構わない。いや、むしろ毒を入れてくれ。君の殺意を体内に取り込めるなら、それは最高の栄養剤だ」
「要望通り、世界で一番苦い薬草をこれでもかと入れておきましたわ。さあ、召し上がれ」
ローゼンが匙を口元に突き出すと、アルフレッドは恍惚とした表情でそれを飲み込んだ。
直後、彼の顔面が劇画のような凄まじい形相に歪んだ。あまりの苦さとニンニクの刺激に、喉が悲鳴を上げているはずだ。
「……ぐ、ふぅ……ッ!! な、なんという……刺激的な愛なんだ……! 舌が痺れる……! 食道が焼けるようだ……! だが、この苦みこそが、私の愚かさを叱責する君の厳格な愛の形……! ああ、美味しい……。美味しすぎて、内臓が喜びで痙攣しているぞ!」
「全部食べてくださいね。残したら、二度とこの屋敷の敷居は跨がせませんわ」
「完食だ! 君が望むなら、この皿まで食いちぎって見せよう!」
アルフレッドは涙を流しながら、猛烈な勢いで「処刑用お粥」を胃袋に流し込んでいった。
その様子を冷めた目で見守っていたローゼンだったが、ふと、彼が食べ終えた後に再びぐったりと横たわったのを見て、少しだけ不安になった。
(……流石に、少しやりすぎたかしら? 本当に体調が悪いのに、あんな刺激物を……)
少しだけ良心が痛んだ彼女は、マリーが新しいタオルを替えに行った隙に、彼の傍らに腰を下ろした。
「……殿下? 大丈夫ですの?」
「……ああ……。ローゼン……。幸せだ……。君が……君が隣にいる。……これなら、死んでもいい……。いや、死んだら君を崇められないから、やっぱり死なない……」
アルフレッドは夢うつつのように呟きながら、そのまま深い眠り(あるいは気絶)に落ちた。
静かになった地下室で、ローゼンはふと、彼の整った顔立ちを見つめた。
黙っていれば、本当に国一番の美男子なのだ。その高い鼻、長い睫毛、そして凛々しい眉。……脳内さえ正常であれば、理想の婚約者だったはずなのに。
その時だった。
「……むにゃ……。ああ……ローゼン……。もっと……もっとだ……」
アルフレッドが、寝言を漏らし始めた。
「……君の……膝……。膝枕を……所望する……。女神の太もも……。プライスレス……。ああ……私の頸椎が……君の温もりで……純白の光になって溶けていく……」
ローゼンのこめかみに、太い青筋が浮かび上がった。
「……むにゃ……。今の……お粥は……前菜だ……。メインディッシュは……君の……足蹴り……。ああ、踏まれたい……。ローゼン……膝枕を……膝枕をさせてくれ……。私の魂の、定位置なんだ……」
アルフレッドの顔には、この世のものとは思えないほどだらしない、幸福そうな笑みが浮かんでいる。
「……マリー」
「はい、お嬢様。……お呼びでしょうか」
タオルを持って戻ってきたマリーに、ローゼンは静かに、しかし決然とした声で言った。
「一番分厚くて、一番埃っぽい枕を持ってきて頂戴」
「承知いたしました。……用途を伺っても?」
「決まっているでしょう」
ローゼンは、マリーからひったくるように枕を受け取ると、それを両手で高く掲げた。
「この男の寝言を、永遠に封印しますわ!!」
「お嬢様、それは看病ではなく窒息死の刑でございます」
「構いません! 膝枕ですって!? 私の足を何だと思っているのですか! 定位置!? 勝手に住み着かないでちょうだい!」
ローゼンは、アルフレッドの幸せそうな顔面に向けて、全力で枕を押し当てた。
「死になさい! この煩悩の塊!!」
「……んぐっ!? む、むがーっ!? ……ハッ、ここは!? 私は今、ローゼンが柔らかい羽毛になって私を包み込んでくれる夢を……!」
枕の下からアルフレッドが暴れ出し、物置の中は羽毛と埃が舞い散る大惨事となった。
「夢じゃありませんわ! 現実の殺意です! マリー、今すぐこの男を荷車に乗せて、王宮の正門前に不法投棄してきなさい!」
「かしこまりました。……殿下、残念でしたね。夢の続きは、王宮の冷たいベッドでお楽しみください」
「待ってくれ、ローゼン! 今の枕越しのアプローチ、最高だったぞ! 君の重圧を顔面全体で受け止めたあの瞬間、私は宇宙の真理を見た……っ!」
ローゼンは、もはや叫ぶ気力もなく、舞い散る羽毛の中で力なく座り込んだ。
看病しても、殺そうとしても、すべてが「ご褒美」に変換されてしまう。
彼女は、この底なしの愛という名の沼から、一生抜け出せないのではないかという、これまでにない深い恐怖に震えるのであった。
湿っぽく、埃の匂いが漂うその場所に、場違いなほど豪華な装飾が施された簡易ベッドが持ち込まれていた。
その上で、王太子アルフレッドは額に濡れタオルを乗せ、薄い毛布を被って横たわっている。
「……マリー。なぜわたくしは、自分の屋敷の地下で、元婚約者に特製のお粥を作らなければならないのかしら」
ローゼンは、銀の匙で鍋の中を虚しくかき混ぜながら呟いた。
彼女の目の前には、お世辞にも「病人食」とは呼べないほど、たっぷりの薬草(主に苦いやつ)と、嫌がらせのように刻まれた大量のニンニクが入ったお粥が鎮座している。
「お嬢様、それは慈悲でございます。公爵家の門前で王太子が干物になるのを防ぎ、かつ『絶交中だが最低限の人道支援は行う』という、国際政治のような高度なバランス感覚の現れです」
マリーは傍らで、温度計をじっと見つめながら答えた。
「ちなみに、殿下の体温は現在、平熱より二度ほど高い状態を維持しております。……ただ、心拍数が通常の三倍です。これは風邪の症状ではなく、単なる『お嬢様が近くにいることによる異常興奮』によるものかと推測されます」
「やっぱり、たたき出してよろしいかしら」
「お止めしませんが、今追い出すと、殿下は間違いなく『看病の途中で捨てられた悲劇の夫』という新しい設定を引っ提げて、さらに強力な雨雲を引き連れて戻ってこられるでしょう」
ローゼンは深く、深く溜息をつき、出来上がった(毒々しい香りのする)お粥を盆に乗せてベッドサイドへ向かった。
アルフレッドは目を閉じたまま、荒い呼吸を繰り返している。……が、ローゼンが近づくにつれ、その口角がわずかに、本当にわずかにピクピクと動いているのを、彼女は見逃さなかった。
「殿下。起きてください。お粥を持ってきましたわよ」
「……う、ううん……。ここは……天国かな……? ああ……ローゼンの声が聞こえる。天使のラッパの音より、ずっと心地よい響きだ……」
アルフレッドはゆっくりと、芝居がかった動作で目を開けた。
その瞳は、熱のせいか、あるいは欲望のせいか、らんらんと輝いている。
「早く食べてください。そして、食べたらすぐに王宮へ帰るのですわよ」
「……ああ、ローゼン。君の作った料理を食べられるなんて。……毒が入っていても構わない。いや、むしろ毒を入れてくれ。君の殺意を体内に取り込めるなら、それは最高の栄養剤だ」
「要望通り、世界で一番苦い薬草をこれでもかと入れておきましたわ。さあ、召し上がれ」
ローゼンが匙を口元に突き出すと、アルフレッドは恍惚とした表情でそれを飲み込んだ。
直後、彼の顔面が劇画のような凄まじい形相に歪んだ。あまりの苦さとニンニクの刺激に、喉が悲鳴を上げているはずだ。
「……ぐ、ふぅ……ッ!! な、なんという……刺激的な愛なんだ……! 舌が痺れる……! 食道が焼けるようだ……! だが、この苦みこそが、私の愚かさを叱責する君の厳格な愛の形……! ああ、美味しい……。美味しすぎて、内臓が喜びで痙攣しているぞ!」
「全部食べてくださいね。残したら、二度とこの屋敷の敷居は跨がせませんわ」
「完食だ! 君が望むなら、この皿まで食いちぎって見せよう!」
アルフレッドは涙を流しながら、猛烈な勢いで「処刑用お粥」を胃袋に流し込んでいった。
その様子を冷めた目で見守っていたローゼンだったが、ふと、彼が食べ終えた後に再びぐったりと横たわったのを見て、少しだけ不安になった。
(……流石に、少しやりすぎたかしら? 本当に体調が悪いのに、あんな刺激物を……)
少しだけ良心が痛んだ彼女は、マリーが新しいタオルを替えに行った隙に、彼の傍らに腰を下ろした。
「……殿下? 大丈夫ですの?」
「……ああ……。ローゼン……。幸せだ……。君が……君が隣にいる。……これなら、死んでもいい……。いや、死んだら君を崇められないから、やっぱり死なない……」
アルフレッドは夢うつつのように呟きながら、そのまま深い眠り(あるいは気絶)に落ちた。
静かになった地下室で、ローゼンはふと、彼の整った顔立ちを見つめた。
黙っていれば、本当に国一番の美男子なのだ。その高い鼻、長い睫毛、そして凛々しい眉。……脳内さえ正常であれば、理想の婚約者だったはずなのに。
その時だった。
「……むにゃ……。ああ……ローゼン……。もっと……もっとだ……」
アルフレッドが、寝言を漏らし始めた。
「……君の……膝……。膝枕を……所望する……。女神の太もも……。プライスレス……。ああ……私の頸椎が……君の温もりで……純白の光になって溶けていく……」
ローゼンのこめかみに、太い青筋が浮かび上がった。
「……むにゃ……。今の……お粥は……前菜だ……。メインディッシュは……君の……足蹴り……。ああ、踏まれたい……。ローゼン……膝枕を……膝枕をさせてくれ……。私の魂の、定位置なんだ……」
アルフレッドの顔には、この世のものとは思えないほどだらしない、幸福そうな笑みが浮かんでいる。
「……マリー」
「はい、お嬢様。……お呼びでしょうか」
タオルを持って戻ってきたマリーに、ローゼンは静かに、しかし決然とした声で言った。
「一番分厚くて、一番埃っぽい枕を持ってきて頂戴」
「承知いたしました。……用途を伺っても?」
「決まっているでしょう」
ローゼンは、マリーからひったくるように枕を受け取ると、それを両手で高く掲げた。
「この男の寝言を、永遠に封印しますわ!!」
「お嬢様、それは看病ではなく窒息死の刑でございます」
「構いません! 膝枕ですって!? 私の足を何だと思っているのですか! 定位置!? 勝手に住み着かないでちょうだい!」
ローゼンは、アルフレッドの幸せそうな顔面に向けて、全力で枕を押し当てた。
「死になさい! この煩悩の塊!!」
「……んぐっ!? む、むがーっ!? ……ハッ、ここは!? 私は今、ローゼンが柔らかい羽毛になって私を包み込んでくれる夢を……!」
枕の下からアルフレッドが暴れ出し、物置の中は羽毛と埃が舞い散る大惨事となった。
「夢じゃありませんわ! 現実の殺意です! マリー、今すぐこの男を荷車に乗せて、王宮の正門前に不法投棄してきなさい!」
「かしこまりました。……殿下、残念でしたね。夢の続きは、王宮の冷たいベッドでお楽しみください」
「待ってくれ、ローゼン! 今の枕越しのアプローチ、最高だったぞ! 君の重圧を顔面全体で受け止めたあの瞬間、私は宇宙の真理を見た……っ!」
ローゼンは、もはや叫ぶ気力もなく、舞い散る羽毛の中で力なく座り込んだ。
看病しても、殺そうとしても、すべてが「ご褒美」に変換されてしまう。
彼女は、この底なしの愛という名の沼から、一生抜け出せないのではないかという、これまでにない深い恐怖に震えるのであった。
0
あなたにおすすめの小説
あなたに嘘を一つ、つきました
小蝶
恋愛
ユカリナは夫ディランと政略結婚して5年がたつ。まだまだ戦乱の世にあるこの国の騎士である夫は、今日も戦地で命をかけて戦っているはずだった。彼が戦地に赴いて3年。まだ戦争は終わっていないが、勝利と言う戦況が見えてきたと噂される頃、夫は帰って来た。隣に可愛らしい女性をつれて。そして私には何も告げぬまま、3日後には結婚式を挙げた。第2夫人となったシェリーを寵愛する夫。だから、私は愛するあなたに嘘を一つ、つきました…
最後の方にしか主人公目線がない迷作となりました。読みづらかったらご指摘ください。今さらどうにもなりませんが、努力します(`・ω・́)ゞ
セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。
【完結】美しい人。
❄️冬は つとめて
恋愛
「あなたが、ウイリアム兄様の婚約者? 」
「わたくし、カミーユと言いますの。ねえ、あなたがウイリアム兄様の婚約者で、間違いないかしら。」
「ねえ、返事は。」
「はい。私、ウイリアム様と婚約しています ナンシー。ナンシー・ヘルシンキ伯爵令嬢です。」
彼女の前に現れたのは、とても美しい人でした。
王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る
家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。
しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。
仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。
そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。
【完結】あなたを忘れたい
やまぐちこはる
恋愛
子爵令嬢ナミリアは愛し合う婚約者ディルーストと結婚する日を待ち侘びていた。
そんな時、不幸が訪れる。
■□■
【毎日更新】毎日8時と18時更新です。
【完結保証】最終話まで書き終えています。
最後までお付き合い頂けたらうれしいです(_ _)
側妃の愛
まるねこ
恋愛
ここは女神を信仰する国。極まれに女神が祝福を与え、癒しの力が使える者が現れるからだ。
王太子妃となる予定の令嬢は力が弱いが癒しの力が使えた。突然強い癒しの力を持つ女性が異世界より現れた。
力が強い女性は聖女と呼ばれ、王太子妃になり、彼女を支えるために令嬢は側妃となった。
Copyright©︎2025-まるねこ
~春の国~片足の不自由な王妃様
クラゲ散歩
恋愛
春の暖かい陽気の中。色鮮やかな花が咲き乱れ。蝶が二人を祝福してるように。
春の国の王太子ジーク=スノーフレーク=スプリング(22)と侯爵令嬢ローズマリー=ローバー(18)が、丘の上にある小さな教会で愛を誓い。女神の祝福を受け夫婦になった。
街中を馬車で移動中。二人はずっと笑顔だった。
それを見た者は、相思相愛だと思っただろう。
しかし〜ここまでくるまでに、王太子が裏で動いていたのを知っているのはごくわずか。
花嫁は〜その笑顔の下でなにを思っているのだろうか??
婚約破棄、ありがとうございます
奈井
恋愛
小さい頃に婚約して10年がたち私たちはお互い16歳。来年、結婚する為の準備が着々と進む中、婚約破棄を言い渡されました。でも、私は安堵しております。嘘を突き通すのは辛いから。傷物になってしまったので、誰も寄って来ない事をこれ幸いに一生1人で、幼い恋心と一緒に過ごしてまいります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる