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風紀委員や修道院長による「地獄の再教育キャンプ」から一週間。
ベルシュタイン公爵邸には、かつてないほどの静寂が訪れていた。
地下の披露宴会場はマリーの手によって木っ端微塵に粉砕され、庭のラベンダーもすっかり刈り取られた。
ローゼンは、日当たりの良いテラスで、心から安らいだ表情で読書に耽っていた。
「……マリー。信じられないわ。あの方がこの一週間、一度も壁を乗り越えてこないなんて。……教育というものは、時に奇跡を起こすのね」
ローゼンが紅茶を啜りながら呟くと、マリーは無言で空の一点を見つめた。
その視線の先には、雲一つない青空が広がっている。……が、よく見ると、空の高い位置にキラリと光る「何か」が浮遊していた。
「お嬢様。奇跡が起きたのではなく、単に『変態の形態』が変化しただけでございます」
「……形態が変化? どういうことですの?」
「現在、殿下は屋敷の半径五キロ以内に立ち入ることを自ら禁じておられます。……が、代わりに王立魔導騎士団の威信をかけて、超高性能の『遠隔観測用・魔導レンズ』を成層圏付近に展開されたようです」
マリーが手渡してきた特注の遮光ゴーグルを覗き込んだローゼンは、絶句した。
空に浮かぶ無数の巨大なレンズが、太陽光を巧みに反射させながら、すべてローゼンの座っているテラスに焦点を合わせていたのである。
「……何ですの、あの巨大な虫眼鏡の群れは! わたくしを焼き殺すつもりですの!?」
「いいえ。あれは殿下曰く『聖なる観測儀』だそうです。……あ、殿下から通信が入っております」
テラスのテーブルの上に置かれた、小さな拡声器のような魔道具から、アルフレッドの「透き通るように爽やかな声」が響いてきた。
『……聞こえるかい、私の愛しきローゼン。今の私は、以前の野蛮な私ではない。再教育を経て、私は悟ったのだ。真の紳士とは、愛する者の『聖域』を物理的に侵さない存在であることを。……今の私は、五キロ先にある監視塔の頂上で、君という奇跡をレンズ越しに拝んでいるよ』
「殿下!! 五キロ離れていても、やっていることはストーカーですわ! そのレンズを今すぐ片付けてください! 眩しくて本が読めませんわよ!」
『ふふふ、照れなくてもいい。そのレンズには、君の肌に有害な紫外線をカットし、かつ君の周囲の気温を常に二十三・五度に保つための空調魔法が組み込まれている。……私は今、君の睫毛が揺れる回数をカウントしながら、この喜びを論文にまとめている最中なんだ』
「気持ち悪いですわ!! 睫毛を数えるのをやめてください!!」
ローゼンが拡声器に向かって叫ぶと、アルフレッドの声はさらに陶酔を深めていった。
『ああ、怒鳴る君もまた、大気圏を突き抜けるほどの美しさだ。……見てごらん、ローゼン。空にある三番目のレンズを。そこに私が、君への愛を込めて刻んだ『君の瞳の模様を再現した特殊フィルター』を通して、世界を紫色に染めてあげたよ。今の君の視界は、私の愛の色に包まれているはずだ……!』
「……マリー。空が、空が不気味な紫色に変わったわ。これでは黄昏時が一生続くような絶望感ですわよ」
「お嬢様、落ち着いてください。……殿下。一つ確認ですが、そのレンズの維持費、一日あたり公爵家の年間予算三回分ほどかかっておりますよね?」
マリーが冷徹に問いかけると、拡声器から「ハッハッハ!」という豪快な笑い声が返ってきた。
『国家の予算など使っていない! 私の筋肉を王立研究所の発電機として提供し、その対価として魔力を供給してもらっているのだ! 今の私は、君を眺めるためだけの永久機関となっている! 誰にも、私の『観測』を止めることはできないぞ!』
「肉体労働で監視システムを維持しないでください!!」
ローゼンは頭を抱えた。
以前の「物理的に襲いかかってくる筋肉」よりも、この「遠くから完璧な解像度で監視してくる光学兵器」の方が、精神的な削られ方が激しい。
どこへ行っても、空からレンズが見守っている。
着替えをしようとすれば、レンズが「配慮」して一時的に曇り、終わった瞬間に「ピカッ!」と音を立てて再起動する。
「マリー、もうだめだわ……。あの方、近づかないことを『紳士の嗜み』だと勘違いして、さらにタチの悪い神の視点(自称)を手に入れてしまったわ」
「お嬢様、諦めてはいけません。……さて、殿下。お嬢様から伝言です。『空からの視線を感じると、あまりの恐怖に食欲が失せ、肌が荒れて、あなたの嫌いな醜い姿になってしまう』とのことですが」
マリーが咄嗟についた嘘に、拡声器の向こうで「な、なんだってえええ!?」という、空が割れるような絶叫が響いた。
『ローゼンが……醜く!? いや、君は何をしても美しいが、私のせいで君がストレスを感じるなど、万死に値する! ……わかった! レンズは今すぐ撤去する! ……だが、代わりと言っては何だが、君の屋敷の地下に、君の心拍数を音色に変換する『愛の共鳴パイプオルガン』を……』
「設置させませんわよ!!」
ローゼンの怒鳴り声と共に、空のレンズが次々と魔法の霧となって消えていった。
ようやく戻ってきた青い空を見上げ、ローゼンは膝から崩れ落ちた。
「……マリー。もう、わたくしが何を言っても、あの人の脳内では『新しい追跡方法へのリクエスト』に変換されるのね……」
「お嬢様。これこそが、殿下の提唱する『全肯定・全自動愛護システム』の本質でございます」
ローゼンの「普通の生活」への道は、光学的な包囲網を脱した瞬間に、今度は「音」や「振動」といった、さらに微細な愛の侵食にさらされようとしていた。
ベルシュタイン公爵邸には、かつてないほどの静寂が訪れていた。
地下の披露宴会場はマリーの手によって木っ端微塵に粉砕され、庭のラベンダーもすっかり刈り取られた。
ローゼンは、日当たりの良いテラスで、心から安らいだ表情で読書に耽っていた。
「……マリー。信じられないわ。あの方がこの一週間、一度も壁を乗り越えてこないなんて。……教育というものは、時に奇跡を起こすのね」
ローゼンが紅茶を啜りながら呟くと、マリーは無言で空の一点を見つめた。
その視線の先には、雲一つない青空が広がっている。……が、よく見ると、空の高い位置にキラリと光る「何か」が浮遊していた。
「お嬢様。奇跡が起きたのではなく、単に『変態の形態』が変化しただけでございます」
「……形態が変化? どういうことですの?」
「現在、殿下は屋敷の半径五キロ以内に立ち入ることを自ら禁じておられます。……が、代わりに王立魔導騎士団の威信をかけて、超高性能の『遠隔観測用・魔導レンズ』を成層圏付近に展開されたようです」
マリーが手渡してきた特注の遮光ゴーグルを覗き込んだローゼンは、絶句した。
空に浮かぶ無数の巨大なレンズが、太陽光を巧みに反射させながら、すべてローゼンの座っているテラスに焦点を合わせていたのである。
「……何ですの、あの巨大な虫眼鏡の群れは! わたくしを焼き殺すつもりですの!?」
「いいえ。あれは殿下曰く『聖なる観測儀』だそうです。……あ、殿下から通信が入っております」
テラスのテーブルの上に置かれた、小さな拡声器のような魔道具から、アルフレッドの「透き通るように爽やかな声」が響いてきた。
『……聞こえるかい、私の愛しきローゼン。今の私は、以前の野蛮な私ではない。再教育を経て、私は悟ったのだ。真の紳士とは、愛する者の『聖域』を物理的に侵さない存在であることを。……今の私は、五キロ先にある監視塔の頂上で、君という奇跡をレンズ越しに拝んでいるよ』
「殿下!! 五キロ離れていても、やっていることはストーカーですわ! そのレンズを今すぐ片付けてください! 眩しくて本が読めませんわよ!」
『ふふふ、照れなくてもいい。そのレンズには、君の肌に有害な紫外線をカットし、かつ君の周囲の気温を常に二十三・五度に保つための空調魔法が組み込まれている。……私は今、君の睫毛が揺れる回数をカウントしながら、この喜びを論文にまとめている最中なんだ』
「気持ち悪いですわ!! 睫毛を数えるのをやめてください!!」
ローゼンが拡声器に向かって叫ぶと、アルフレッドの声はさらに陶酔を深めていった。
『ああ、怒鳴る君もまた、大気圏を突き抜けるほどの美しさだ。……見てごらん、ローゼン。空にある三番目のレンズを。そこに私が、君への愛を込めて刻んだ『君の瞳の模様を再現した特殊フィルター』を通して、世界を紫色に染めてあげたよ。今の君の視界は、私の愛の色に包まれているはずだ……!』
「……マリー。空が、空が不気味な紫色に変わったわ。これでは黄昏時が一生続くような絶望感ですわよ」
「お嬢様、落ち着いてください。……殿下。一つ確認ですが、そのレンズの維持費、一日あたり公爵家の年間予算三回分ほどかかっておりますよね?」
マリーが冷徹に問いかけると、拡声器から「ハッハッハ!」という豪快な笑い声が返ってきた。
『国家の予算など使っていない! 私の筋肉を王立研究所の発電機として提供し、その対価として魔力を供給してもらっているのだ! 今の私は、君を眺めるためだけの永久機関となっている! 誰にも、私の『観測』を止めることはできないぞ!』
「肉体労働で監視システムを維持しないでください!!」
ローゼンは頭を抱えた。
以前の「物理的に襲いかかってくる筋肉」よりも、この「遠くから完璧な解像度で監視してくる光学兵器」の方が、精神的な削られ方が激しい。
どこへ行っても、空からレンズが見守っている。
着替えをしようとすれば、レンズが「配慮」して一時的に曇り、終わった瞬間に「ピカッ!」と音を立てて再起動する。
「マリー、もうだめだわ……。あの方、近づかないことを『紳士の嗜み』だと勘違いして、さらにタチの悪い神の視点(自称)を手に入れてしまったわ」
「お嬢様、諦めてはいけません。……さて、殿下。お嬢様から伝言です。『空からの視線を感じると、あまりの恐怖に食欲が失せ、肌が荒れて、あなたの嫌いな醜い姿になってしまう』とのことですが」
マリーが咄嗟についた嘘に、拡声器の向こうで「な、なんだってえええ!?」という、空が割れるような絶叫が響いた。
『ローゼンが……醜く!? いや、君は何をしても美しいが、私のせいで君がストレスを感じるなど、万死に値する! ……わかった! レンズは今すぐ撤去する! ……だが、代わりと言っては何だが、君の屋敷の地下に、君の心拍数を音色に変換する『愛の共鳴パイプオルガン』を……』
「設置させませんわよ!!」
ローゼンの怒鳴り声と共に、空のレンズが次々と魔法の霧となって消えていった。
ようやく戻ってきた青い空を見上げ、ローゼンは膝から崩れ落ちた。
「……マリー。もう、わたくしが何を言っても、あの人の脳内では『新しい追跡方法へのリクエスト』に変換されるのね……」
「お嬢様。これこそが、殿下の提唱する『全肯定・全自動愛護システム』の本質でございます」
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