君が尊すぎて直視できない!?婚約破棄の理由がそれってどうなの?

黒猫かの

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 ベルシュタイン公爵邸の厨房は、かつてないほどの熱気と粉塵(ふんじん)に包まれていた。

 小麦粉まみれになった料理人たちが、震える手で十字を切っている。
 
 その中央。巨大な石窯の前で、アルフレッドが「全裸に近い姿」に真っ白な粉を全身に浴びて立っていた。

「……マリー。わたくし、夢を見ているのかしら。あそこで発酵しているのは、わが国の次期国王陛下なの?」

 ローゼンは、あまりの光景に膝の力が抜け、入り口の柱にしがみついた。

「お嬢様。現実を受け入れてください。殿下は現在、己の肉体を『最高級のクロワッサン』に近づけるべく、全身にバターを塗りたくった後、小麦粉をまぶして石窯に突入する準備を整えておられます」

 マリーは無表情に、手元の温度計を確認した。

「ちなみに石窯の温度は既に二百度。殿下の筋肉による自家発電で、予熱は完璧でございます」

「殿下ああああ! 今すぐそこを離れなさい! 何を、何をしているんですの!!」

 ローゼンが絶叫しながら駆け寄ると、アルフレッドは小麦粉の中から、青く輝く瞳をギラつかせた。

「おお……ローゼン……! 待っていてくれ。今、私が……私が最高の『パン』となって、君の空腹を満たしてあげるからね! 普通のパンが買えないのなら、私がパンになればいい! 愛の力で外はカリッと、中は筋肉でモチッとした究極の逸品に焼き上がってみせる!」

「焼き上がりませんわ! ただの焼死体……いえ、ロースト王太子になるだけですわよ! 早くそのバターを拭いなさい!」

「いやだ! 私は……私は君の『普通のパン』という願いすら叶えられなかった無能な男だ! せめて……せめて小麦粉の一部となって、君の体内の一部になる権利を……!」

 アルフレッドは、そのまま石窯の入り口に手をかけ、バキバキの背筋をくねらせながら中へ這い入ろうとした。

「熱い! 熱いが……これが愛の温度か……! ああ、私の大胸筋が、香ばしい匂いを放ち始めたぞ!」

「当たり前でしょうが! 焼けているんですのよ! マリー、水! 今すぐ最大火力の放水魔法を!!」

「御意。……殿下、愛の消火活動を開始いたします」

 マリーが呪文を唱えた瞬間、バケツ百杯分もの水がアルフレッドを直撃した。
 
 ジュゥゥゥ……という凄まじい水蒸気と共に、小麦粉とバターがドロドロの液体となって床に広がり、その中心でアルフレッドが、力なく横たわった。

「……ああ……。失敗だ……。私は……パンにすら……なれなかった……。私はただの……ふやけた小麦粉の塊だ……。さあ、ローゼン……。こんな汚らわしい男、今すぐゴミに出してくれ……」

 アルフレッドは、水浸しの床でシクシクと泣き始めた。
 
 その姿は、かつての威風堂々とした王太子の面影など微塵もなく、ただただ「愛が重すぎて迷走した挙句に自滅したバカ」そのものだった。

 ローゼンは、ドロドロになった彼の前に膝をついた。
 
 怒り、呆れ、絶望。
 あらゆる感情が一周回って、彼女の心の中に、ある種の悟りが芽生えていた。

「……殿下。もういいですわ」

「……え? 今、……今、なんて言ったんだい? 『もう顔を見せるな』ということかな?」

「違いますわ。……もう、普通じゃなくていいですわ」

 ローゼンは、自分のドレスが汚れるのも構わず、アルフレッドの(バターでヌルヌルの)手を取った。

「わたくし、疲れましたの。あなたを『普通の男』に変えようとすることに。……あなたが何をしても、どれだけ異常になっても、わたくしはもう、驚かないことに決めましたわ」

「ローゼン……?」

「いいですか、アルフレッド。あなたはそのまま、重くて、暑苦しくて、ストーカー気質で、筋肉に執着する変態のままでいなさい。……その代わり、わたくしの視界から一秒たりとも外れないでください」

「……えっ!? それは……それはどういう意味……」

「わたくしが、あなたを監視してあげるって言っているんですのよ! 野に放つと国が滅びますもの! わたくしが責任を持って、あなたという名の『災害』の隣に居座ってあげますわ!」

 ローゼンは、自棄(やけ)気味に叫んだ。

「再婚約ですわ! もう逃がしませんわよ! 死ぬまでわたくしの隣で、存分にわたくしを崇めて、そして時々、普通に、本当に普通に……愛していなさい!」

 静まり返った厨房に、ローゼンの「逆プロポーズ」とも取れる怒号が響き渡った。

 アルフレッドは、目を見開いたまま固まった。
 
 そして、次の瞬間。
 
 彼の全身から、これまでで最大の魔力の光が溢れ出した。

「……あああああああ!! 女神が……女神が、私という汚物を『隣に置く』と言ってくれた……!! 監視!? それはつまり二十四時間の密着刑! 災害!? 私は君に認められた世界規模の愛の化身……!!」

 アルフレッドは立ち上がり、ドロドロの状態のままローゼンを(数ミリの距離を保ちつつ)抱きしめるポーズを取った。

「ローゼン!! 私は誓う! 今日から私は、君専用の、最も重く、最も美しく、最も暑苦しい『家具』として、君の人生を彩り尽くしてみせる!!」

「家具にはならないでください!!」

「おめでとうございます、お嬢様。……これにて、史上最も不条理な婚約破棄事件は、史上最も迷惑な再婚約へと収束いたしました」

 マリーが静かに拍手をする中、ベルシュタイン公爵邸の厨房は、小麦粉とバターと愛の熱気で満たされた。

 ローゼンは、自分の決断が正しかったのか、あるいは永遠の地獄を選んだのか分からなかったが、少なくとも、泣きながら笑うアルフレッドの顔を見て、「まあ、退屈はしないわね」と、ほんの少しだけ口角を上げたのであった。
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