27 / 28
27
しおりを挟む
ベルシュタイン公爵邸の厨房は、かつてないほどの熱気と粉塵(ふんじん)に包まれていた。
小麦粉まみれになった料理人たちが、震える手で十字を切っている。
その中央。巨大な石窯の前で、アルフレッドが「全裸に近い姿」に真っ白な粉を全身に浴びて立っていた。
「……マリー。わたくし、夢を見ているのかしら。あそこで発酵しているのは、わが国の次期国王陛下なの?」
ローゼンは、あまりの光景に膝の力が抜け、入り口の柱にしがみついた。
「お嬢様。現実を受け入れてください。殿下は現在、己の肉体を『最高級のクロワッサン』に近づけるべく、全身にバターを塗りたくった後、小麦粉をまぶして石窯に突入する準備を整えておられます」
マリーは無表情に、手元の温度計を確認した。
「ちなみに石窯の温度は既に二百度。殿下の筋肉による自家発電で、予熱は完璧でございます」
「殿下ああああ! 今すぐそこを離れなさい! 何を、何をしているんですの!!」
ローゼンが絶叫しながら駆け寄ると、アルフレッドは小麦粉の中から、青く輝く瞳をギラつかせた。
「おお……ローゼン……! 待っていてくれ。今、私が……私が最高の『パン』となって、君の空腹を満たしてあげるからね! 普通のパンが買えないのなら、私がパンになればいい! 愛の力で外はカリッと、中は筋肉でモチッとした究極の逸品に焼き上がってみせる!」
「焼き上がりませんわ! ただの焼死体……いえ、ロースト王太子になるだけですわよ! 早くそのバターを拭いなさい!」
「いやだ! 私は……私は君の『普通のパン』という願いすら叶えられなかった無能な男だ! せめて……せめて小麦粉の一部となって、君の体内の一部になる権利を……!」
アルフレッドは、そのまま石窯の入り口に手をかけ、バキバキの背筋をくねらせながら中へ這い入ろうとした。
「熱い! 熱いが……これが愛の温度か……! ああ、私の大胸筋が、香ばしい匂いを放ち始めたぞ!」
「当たり前でしょうが! 焼けているんですのよ! マリー、水! 今すぐ最大火力の放水魔法を!!」
「御意。……殿下、愛の消火活動を開始いたします」
マリーが呪文を唱えた瞬間、バケツ百杯分もの水がアルフレッドを直撃した。
ジュゥゥゥ……という凄まじい水蒸気と共に、小麦粉とバターがドロドロの液体となって床に広がり、その中心でアルフレッドが、力なく横たわった。
「……ああ……。失敗だ……。私は……パンにすら……なれなかった……。私はただの……ふやけた小麦粉の塊だ……。さあ、ローゼン……。こんな汚らわしい男、今すぐゴミに出してくれ……」
アルフレッドは、水浸しの床でシクシクと泣き始めた。
その姿は、かつての威風堂々とした王太子の面影など微塵もなく、ただただ「愛が重すぎて迷走した挙句に自滅したバカ」そのものだった。
ローゼンは、ドロドロになった彼の前に膝をついた。
怒り、呆れ、絶望。
あらゆる感情が一周回って、彼女の心の中に、ある種の悟りが芽生えていた。
「……殿下。もういいですわ」
「……え? 今、……今、なんて言ったんだい? 『もう顔を見せるな』ということかな?」
「違いますわ。……もう、普通じゃなくていいですわ」
ローゼンは、自分のドレスが汚れるのも構わず、アルフレッドの(バターでヌルヌルの)手を取った。
「わたくし、疲れましたの。あなたを『普通の男』に変えようとすることに。……あなたが何をしても、どれだけ異常になっても、わたくしはもう、驚かないことに決めましたわ」
「ローゼン……?」
「いいですか、アルフレッド。あなたはそのまま、重くて、暑苦しくて、ストーカー気質で、筋肉に執着する変態のままでいなさい。……その代わり、わたくしの視界から一秒たりとも外れないでください」
「……えっ!? それは……それはどういう意味……」
「わたくしが、あなたを監視してあげるって言っているんですのよ! 野に放つと国が滅びますもの! わたくしが責任を持って、あなたという名の『災害』の隣に居座ってあげますわ!」
ローゼンは、自棄(やけ)気味に叫んだ。
「再婚約ですわ! もう逃がしませんわよ! 死ぬまでわたくしの隣で、存分にわたくしを崇めて、そして時々、普通に、本当に普通に……愛していなさい!」
静まり返った厨房に、ローゼンの「逆プロポーズ」とも取れる怒号が響き渡った。
アルフレッドは、目を見開いたまま固まった。
そして、次の瞬間。
彼の全身から、これまでで最大の魔力の光が溢れ出した。
「……あああああああ!! 女神が……女神が、私という汚物を『隣に置く』と言ってくれた……!! 監視!? それはつまり二十四時間の密着刑! 災害!? 私は君に認められた世界規模の愛の化身……!!」
アルフレッドは立ち上がり、ドロドロの状態のままローゼンを(数ミリの距離を保ちつつ)抱きしめるポーズを取った。
「ローゼン!! 私は誓う! 今日から私は、君専用の、最も重く、最も美しく、最も暑苦しい『家具』として、君の人生を彩り尽くしてみせる!!」
「家具にはならないでください!!」
「おめでとうございます、お嬢様。……これにて、史上最も不条理な婚約破棄事件は、史上最も迷惑な再婚約へと収束いたしました」
マリーが静かに拍手をする中、ベルシュタイン公爵邸の厨房は、小麦粉とバターと愛の熱気で満たされた。
ローゼンは、自分の決断が正しかったのか、あるいは永遠の地獄を選んだのか分からなかったが、少なくとも、泣きながら笑うアルフレッドの顔を見て、「まあ、退屈はしないわね」と、ほんの少しだけ口角を上げたのであった。
小麦粉まみれになった料理人たちが、震える手で十字を切っている。
その中央。巨大な石窯の前で、アルフレッドが「全裸に近い姿」に真っ白な粉を全身に浴びて立っていた。
「……マリー。わたくし、夢を見ているのかしら。あそこで発酵しているのは、わが国の次期国王陛下なの?」
ローゼンは、あまりの光景に膝の力が抜け、入り口の柱にしがみついた。
「お嬢様。現実を受け入れてください。殿下は現在、己の肉体を『最高級のクロワッサン』に近づけるべく、全身にバターを塗りたくった後、小麦粉をまぶして石窯に突入する準備を整えておられます」
マリーは無表情に、手元の温度計を確認した。
「ちなみに石窯の温度は既に二百度。殿下の筋肉による自家発電で、予熱は完璧でございます」
「殿下ああああ! 今すぐそこを離れなさい! 何を、何をしているんですの!!」
ローゼンが絶叫しながら駆け寄ると、アルフレッドは小麦粉の中から、青く輝く瞳をギラつかせた。
「おお……ローゼン……! 待っていてくれ。今、私が……私が最高の『パン』となって、君の空腹を満たしてあげるからね! 普通のパンが買えないのなら、私がパンになればいい! 愛の力で外はカリッと、中は筋肉でモチッとした究極の逸品に焼き上がってみせる!」
「焼き上がりませんわ! ただの焼死体……いえ、ロースト王太子になるだけですわよ! 早くそのバターを拭いなさい!」
「いやだ! 私は……私は君の『普通のパン』という願いすら叶えられなかった無能な男だ! せめて……せめて小麦粉の一部となって、君の体内の一部になる権利を……!」
アルフレッドは、そのまま石窯の入り口に手をかけ、バキバキの背筋をくねらせながら中へ這い入ろうとした。
「熱い! 熱いが……これが愛の温度か……! ああ、私の大胸筋が、香ばしい匂いを放ち始めたぞ!」
「当たり前でしょうが! 焼けているんですのよ! マリー、水! 今すぐ最大火力の放水魔法を!!」
「御意。……殿下、愛の消火活動を開始いたします」
マリーが呪文を唱えた瞬間、バケツ百杯分もの水がアルフレッドを直撃した。
ジュゥゥゥ……という凄まじい水蒸気と共に、小麦粉とバターがドロドロの液体となって床に広がり、その中心でアルフレッドが、力なく横たわった。
「……ああ……。失敗だ……。私は……パンにすら……なれなかった……。私はただの……ふやけた小麦粉の塊だ……。さあ、ローゼン……。こんな汚らわしい男、今すぐゴミに出してくれ……」
アルフレッドは、水浸しの床でシクシクと泣き始めた。
その姿は、かつての威風堂々とした王太子の面影など微塵もなく、ただただ「愛が重すぎて迷走した挙句に自滅したバカ」そのものだった。
ローゼンは、ドロドロになった彼の前に膝をついた。
怒り、呆れ、絶望。
あらゆる感情が一周回って、彼女の心の中に、ある種の悟りが芽生えていた。
「……殿下。もういいですわ」
「……え? 今、……今、なんて言ったんだい? 『もう顔を見せるな』ということかな?」
「違いますわ。……もう、普通じゃなくていいですわ」
ローゼンは、自分のドレスが汚れるのも構わず、アルフレッドの(バターでヌルヌルの)手を取った。
「わたくし、疲れましたの。あなたを『普通の男』に変えようとすることに。……あなたが何をしても、どれだけ異常になっても、わたくしはもう、驚かないことに決めましたわ」
「ローゼン……?」
「いいですか、アルフレッド。あなたはそのまま、重くて、暑苦しくて、ストーカー気質で、筋肉に執着する変態のままでいなさい。……その代わり、わたくしの視界から一秒たりとも外れないでください」
「……えっ!? それは……それはどういう意味……」
「わたくしが、あなたを監視してあげるって言っているんですのよ! 野に放つと国が滅びますもの! わたくしが責任を持って、あなたという名の『災害』の隣に居座ってあげますわ!」
ローゼンは、自棄(やけ)気味に叫んだ。
「再婚約ですわ! もう逃がしませんわよ! 死ぬまでわたくしの隣で、存分にわたくしを崇めて、そして時々、普通に、本当に普通に……愛していなさい!」
静まり返った厨房に、ローゼンの「逆プロポーズ」とも取れる怒号が響き渡った。
アルフレッドは、目を見開いたまま固まった。
そして、次の瞬間。
彼の全身から、これまでで最大の魔力の光が溢れ出した。
「……あああああああ!! 女神が……女神が、私という汚物を『隣に置く』と言ってくれた……!! 監視!? それはつまり二十四時間の密着刑! 災害!? 私は君に認められた世界規模の愛の化身……!!」
アルフレッドは立ち上がり、ドロドロの状態のままローゼンを(数ミリの距離を保ちつつ)抱きしめるポーズを取った。
「ローゼン!! 私は誓う! 今日から私は、君専用の、最も重く、最も美しく、最も暑苦しい『家具』として、君の人生を彩り尽くしてみせる!!」
「家具にはならないでください!!」
「おめでとうございます、お嬢様。……これにて、史上最も不条理な婚約破棄事件は、史上最も迷惑な再婚約へと収束いたしました」
マリーが静かに拍手をする中、ベルシュタイン公爵邸の厨房は、小麦粉とバターと愛の熱気で満たされた。
ローゼンは、自分の決断が正しかったのか、あるいは永遠の地獄を選んだのか分からなかったが、少なくとも、泣きながら笑うアルフレッドの顔を見て、「まあ、退屈はしないわね」と、ほんの少しだけ口角を上げたのであった。
0
あなたにおすすめの小説
あなたに嘘を一つ、つきました
小蝶
恋愛
ユカリナは夫ディランと政略結婚して5年がたつ。まだまだ戦乱の世にあるこの国の騎士である夫は、今日も戦地で命をかけて戦っているはずだった。彼が戦地に赴いて3年。まだ戦争は終わっていないが、勝利と言う戦況が見えてきたと噂される頃、夫は帰って来た。隣に可愛らしい女性をつれて。そして私には何も告げぬまま、3日後には結婚式を挙げた。第2夫人となったシェリーを寵愛する夫。だから、私は愛するあなたに嘘を一つ、つきました…
最後の方にしか主人公目線がない迷作となりました。読みづらかったらご指摘ください。今さらどうにもなりませんが、努力します(`・ω・́)ゞ
セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。
【完結】美しい人。
❄️冬は つとめて
恋愛
「あなたが、ウイリアム兄様の婚約者? 」
「わたくし、カミーユと言いますの。ねえ、あなたがウイリアム兄様の婚約者で、間違いないかしら。」
「ねえ、返事は。」
「はい。私、ウイリアム様と婚約しています ナンシー。ナンシー・ヘルシンキ伯爵令嬢です。」
彼女の前に現れたのは、とても美しい人でした。
王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る
家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。
しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。
仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。
そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。
【完結】あなたを忘れたい
やまぐちこはる
恋愛
子爵令嬢ナミリアは愛し合う婚約者ディルーストと結婚する日を待ち侘びていた。
そんな時、不幸が訪れる。
■□■
【毎日更新】毎日8時と18時更新です。
【完結保証】最終話まで書き終えています。
最後までお付き合い頂けたらうれしいです(_ _)
側妃の愛
まるねこ
恋愛
ここは女神を信仰する国。極まれに女神が祝福を与え、癒しの力が使える者が現れるからだ。
王太子妃となる予定の令嬢は力が弱いが癒しの力が使えた。突然強い癒しの力を持つ女性が異世界より現れた。
力が強い女性は聖女と呼ばれ、王太子妃になり、彼女を支えるために令嬢は側妃となった。
Copyright©︎2025-まるねこ
~春の国~片足の不自由な王妃様
クラゲ散歩
恋愛
春の暖かい陽気の中。色鮮やかな花が咲き乱れ。蝶が二人を祝福してるように。
春の国の王太子ジーク=スノーフレーク=スプリング(22)と侯爵令嬢ローズマリー=ローバー(18)が、丘の上にある小さな教会で愛を誓い。女神の祝福を受け夫婦になった。
街中を馬車で移動中。二人はずっと笑顔だった。
それを見た者は、相思相愛だと思っただろう。
しかし〜ここまでくるまでに、王太子が裏で動いていたのを知っているのはごくわずか。
花嫁は〜その笑顔の下でなにを思っているのだろうか??
婚約破棄、ありがとうございます
奈井
恋愛
小さい頃に婚約して10年がたち私たちはお互い16歳。来年、結婚する為の準備が着々と進む中、婚約破棄を言い渡されました。でも、私は安堵しております。嘘を突き通すのは辛いから。傷物になってしまったので、誰も寄って来ない事をこれ幸いに一生1人で、幼い恋心と一緒に過ごしてまいります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる