悪役令嬢は、婚約破棄の慰謝料計算に忙しい。

猫宮かろん

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「――では、契約内容のすり合わせを行います」

カシウス公爵の馬車に連れ込まれた私は、揺れる車内で即座に羊皮紙とペンを取り出した。
向かいの席では、カシウスが優雅に足を組み、面白そうに頬杖をついている。

「気が早いな。まずは乾杯でもどうだ? 最高級のワインがある」

「勤務時間中です。アルコールは判断力を鈍らせるため却下します」

私はピシャリと言い放ち、ペン先を走らせた。

「雇用形態は『公爵家筆頭管理官』および『婚約者(仮)』の兼務。契約期間は一年ごとの更新制。ここまではよろしいですね?」

「ああ。俺の隣に立つ女としての権限も与える。屋敷の金も人も、好きに使っていい」

「言質を取りましたよ」

私は凄まじい速度で条文を書き連ねていく。

「では、具体的な労働条件(ターム)に入ります」

「お手柔らかに頼むぜ」

「第一条、報酬について。基本給はガレリア帝国金貨で月額五十枚。これに加え、業務改善によるコスト削減額の一〇パーセントを成功報酬(インセンティブ)として支給すること」

「……ぶっ」

カシウスが吹き出した。

「おい、月五十枚は大国の騎士団長クラスだぞ。その上インセンティブだと?」

「私の試算では、貴方の屋敷の無駄を省けば、初月で金貨一千枚は浮きます。その一割をもらうだけです。公爵家にとっては九割のプラス。悪い話ではないはずですが?」

「……くくっ、なるほど。自信があるわけだ。いいだろう、承認する」

「第二条、労働時間について。一日八時間、週四十時間を原則とします。これを超える場合は、一時間につき基本時給の一・五倍の残業代を請求します」

「ホワイトだな」

「貴国の労働環境がブラックなだけです。そして第三条、ここが重要です」

私はペンを止め、カシウスの目を真っ直ぐに見据えた。

「『婚約者(仮)』としての業務範囲について」

「ほう?」

カシウスが身を乗り出す。
赤い瞳が妖しく光った。

「夜会への同伴、他貴族への牽制。ここまでは業務の範囲内とします。ですが、それ以外の接触――具体的には、手繋ぎ、抱擁、接吻、および夜の寝室への侵入は、別途『特別手当』を請求、もしくは契約解除の対象とします」

「は……?」

カシウスがポカンと口を開けた。

「なんだそれは。婚約者だぞ? スキンシップは義務みたいなものだろう」

「『仮』です。業務上の必要性が認められない接触は、セクシャル・ハラスメントに該当します」

私は鼻を鳴らした。

「ただし、対外的なパフォーマンスとして必要な場合に限り、事前の申請があれば許可します。その際の料金表はこちらです」

私は書きなぐったメモを渡した。

・手繋ぎ:一分につき金貨一枚
・抱擁:一回につき金貨五枚
・接吻(頬):金貨十枚
・接吻(唇):要相談(危険手当含む)

「……お前、俺をなんだと思ってるんだ?」

「金払いの良い雇用主(クライアント)です」

「くっ……はーっはっはっは!!」

カシウスは馬車が揺れるほど爆笑した。

「傑作だ! 俺にキスするのに金を請求する女なんざ、世界中探してもお前だけだぞ!」

「希少価値が高いでしょう? 市場原理に基づけば、価格が高騰するのは当然です」

「いいだろう! そのふざけた契約書、全部飲んでやる! 俺の財力でどこまで買えるか試してみるのも一興だ!」

カシウスは私の手からペンを奪い取ると、羊皮紙の末尾に豪快にサインをした。

『Cassius Bernstein』

力強く、覇気のある筆跡だ。

「交渉成立(ディール)だな、メリアドール」

「ええ。賢明なご判断に感謝します」

私はインクが乾いたのを確認し、契約書を大切に懐へしまった。
これで、私の「高給取り」としての地位は盤石となった。

「さて、次は実家への立ち寄りをお願いします。荷造りに三十分、父への説明に十分が必要です」

「了解した。御者! オルコット公爵邸へ急げ!」

          ◇

オルコット邸に到着するや否や、私は台風のように自室へ駆け込んだ。

「セバスチャン! 緊急ミッションよ! 私の身の回りの品を最小限(ミニマム)でまとめて! 本と計算機、あとは着替えを数着!」

「かしこまりました。トランク二つ分に収めます」

セバスチャンの動きは神速だった。
私が父の執務室へ向かう間に、廊下ではメイドたちがテキパキと荷物を運び出していく。

「お父様!」

執務室に飛び込むと、父は驚く様子もなく、すでに茶を飲んでいた。

「早かったな、メリアドール。再就職先は決まったか?」

「はい。ガレリア帝国のカシウス公爵家です。条件は破格、待遇も最高です」

「ほぅ、あの『狂犬』を手懐けたか。さすが我が娘」

父はニヤリと笑い、一枚の書類を差し出した。

「ならば、これを持っていけ」

「これは?」

「『国外就労許可証』と『身元引受書』だ。お前がそう言うと思って、昨夜のうちに王宮の役人にサインさせておいた」

「……お父様、予知能力でも?」

「リスク管理だ。あのバカ王子が『出国禁止令』などを出す前に、法的な手続きを完了させておくのが経営者の鉄則だろう?」

私は震えた。
この父にして、この娘あり。
私たちのDNAには、愛の代わりに事業計画書が刻まれているのかもしれない。

「ありがとうございます。では、行って参ります」

「うむ。向こうの市場レポート、楽しみにしているぞ」

涙の別れはない。
私たちは固い握手を交わし、私は再び旋風のように去っていった。

          ◇

再び馬車に乗り込むと、カシウスが窓の外を眺めていた。

「随分とあっさりした別れだな。もっとこう、涙ながらに抱き合うとかないのか?」

「時間の無駄です。親子の信頼関係は、湿っぽい儀式(セレモニー)を必要としませんので」

「……ドライすぎて清々しいな」

馬車が動き出す。
窓の外、見慣れた王都の街並みが流れていく。

私は振り返らなかった。
未練などない。あるのは、これから始まる新しい仕事への期待と、少しの興奮だけ。

「急ぐぞ。国境までは半日だ。追っ手が来る前に抜ける」

カシウスの言葉に、私は頷いた。

「ええ。ジェラルド殿下が事態に気づく頃には、私たちは国外ですね」

私は懐中時計を見た。
現在、午後二時。
殿下は今頃、昼寝から目覚めておやつを食べている時間だろう。

「さようなら、祖国。さようなら、非効率な日々」

私は小さく呟き、新しい雇用主(カシウス)に向き直った。

「さて、閣下。移動時間は有効活用しましょう」

「ん?」

「到着までに、貴方の領地の財務諸表と、屋敷の間取り図を見せていただけますか? 初期分析(イニシャル・アナリシス)を行います」

「……お前、馬車酔いとかしないのか?」

「三半規管は鍛えています。さあ、資料を」

カシウスは呆れたように笑い、鞄から分厚い書類の束を取り出した。

「好きにしろ。……まったく、とんでもない『猛獣』を拾っちまったかもしれん」

「光栄です」

こうして、私メリアドール・オルコットは、隣国ガレリアへと旅立った。
愛の逃避行――ではなく、キャリアアップのための出張が、今ここに幕を開けたのである。
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