婚約破棄された悪役令嬢ですが、毒を盛る暇があるならお肉を焼きたい。

黒猫かの

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「……聞いたか? 北の森に現れた『白銀の乙女』の話を」


「ああ。なんでも、村を襲おうとした魔物の大群を、一瞬で『調理』してしまったらしいじゃないか」


離宮から一番近い小さな村。そこの広場では、村人たちがひそひそと、しかし興奮を隠せない様子で噂話に花を咲かせていた。


数ヶ月前まで、北の離宮に「恐ろしい悪役令嬢」が追放されてきたと怯えていた彼らの顔には、今や畏怖を超えた「信仰心」のようなものが浮かんでいる。


「信じられんよ。あの凶暴な『スノーラビット』を、首筋一太刀で仕留めたかと思えば、『この子は脂が足りないわね』と言って、森の奥へ消えていったんだ」


「俺なんて、畑を荒らしていた『大牙猪』を投げ飛ばすのを見たぜ。その後、手際よく解体して『今夜はスペアリブよ!』って笑ってたんだ……。ありゃあ、きっと戦の女神か何かの化身に違いねえ」


村人たちがそんな噂で盛り上がっていると、村の入り口から土煙……ではなく、美味しそうなパンの香りが漂ってきた。


「どいてちょうだい! そこ、道を開けて! 今、最高に発酵が進んでいるんですから!」


現れたのは、かつての可憐な面影をかなぐり捨て、逞しく荷台を引くリディアだった。


「リ、リディア様! 今日もパンを届けてくださったんですか!」


「ええ、そうですわ! アルカ様が仕留めた魔物の出汁をたっぷり練り込んだ、『強靭な生命のクロワッサン』ですわよ! これを食べて、あなたたちも冬を乗り切る筋肉をつけなさいな!」


リディアが豪快にパンを配り始めると、村人たちは我先にと群がった。


そこへ、遅れて一人の少女がゆっくりと歩いてくる。


頭には真っ白な毛皮のフードを被り、腰には数本の包丁をぶら下げた、アルカその人である。


「……リディア様、あまり急かしてはダメよ。パンの気泡が驚いてしまうわ」


「アルカ様! 申し訳ありません、ついこの生地の弾力にテンションが上がってしまって……!」


村人たちは一斉に跪いた。


「ああ、聖女様! アルカ聖女様! 今日も我々の村に恵みを!」


「……あの、おじ様。何度も言いますけれど、私は聖女ではありません。ただの『通りすがりの食いしん坊』ですわ」


アルカは困惑したように眉をひそめた。


「いいえ、我々にとっては救い主です! あの魔物が出る森に一人で入り、村を脅かす獣たちを根こそぎ……」


「根こそぎ『収穫』しただけです。あの子たち、運動量が多いから身が引き締まっていて、コンフィにすると最高なんですもの」


アルカの言葉は、村人たちの耳には「慈悲深い浄化の言葉」として変換されていた。


「アルカ様。村の長老が、ぜひお礼にと『秘密の地下室で眠らせていた古酒』を差し上げたいと言っております」


カインが横から、長老の手を引いて現れた。


「古酒……!? カイン、それを早く言いなさい! それこそが私の求めていた『最後のスパイス』よ!」


アルカの瞳が、聖女の輝き……というよりは、獲物を狙う獣の輝きを放った。


「長老様! そのお酒、ぜひ私に譲ってください! 代わりに、私が今朝仕留めた『一角トナカイ』の心臓の赤ワイン煮込みを差し上げますわ!」


「おおお、なんと勿体ない! 聖女様の手料理までいただけるとは……!」


長老は涙を流して感謝し、村全体が祝祭のようなムードに包まれた。


「……お嬢様。王都では、貴女様が絶望の淵で泣き暮らしているという噂が流れているようですが」


カインが遠く、南の空を見上げながら呟いた。


「噂なんて、料理の盛り付けと同じでいくらでも誤魔化せるものよ。私は今、この村の古酒とトナカイのコラボレーションのことで頭がいっぱいなの」


「左様でございますか。……リディア様、そろそろパンの配付を終えてください。お嬢様の『調理モード』が発動します」


「わかっておりますわ! さあ皆、聖女様……ではなく、アルカ様の晩餐の準備を手伝うのですわよ!」


王都では「悪役令嬢」として忌み嫌われていたアルカは、北の地でいつの間にか、胃袋を満たし魔物を駆逐する「食の聖女」として崇められるようになっていた。


その噂が、風に乗って再び王都のジュリアンの元へ届くのは、そう遠い日のことではない。


「聖女、か……。まあ、ある意味では奇跡を起こしているわね。食材に対してだけれど」


アルカの笑い声が、平和になった村の広場に明るく響き渡った。
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