婚約破棄? 承知しました。では、こちらにサインをお願いします。

猫宮かろん

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「お待たせいたしました。当店特製、『スペシャル・ギガ・マッスル・ミルク』でございます」

私は出来上がったドリンクを、カウンターの上にコトンと置いた。

特大のジョッキに並々と注がれた白い液体。
新鮮な牛乳をベースに、卵白、蜂蜜、そして各種フルーツのエキスをブレンドした、高タンパク・高カロリー・高ビタミンな一杯だ。
隠し味に、疲労回復効果のある薬草の粉末も混ぜ込んである。

クロード公爵は、目の前に置かれた白い液体をじっと見つめた。

「……これが、ミルクか?」

「ええ。騙されたと思ってお飲みくださいな。魔獣討伐でお疲れの体には、アルコールよりもこちらの方が効きますわよ」

店内は静まり返っていた。
あの『氷の処刑人』が、ファンシーなカフェでミルクを飲む。
そのシュールな光景を、客も店員も固唾を飲んで見守っている。

クロード公爵は、黒革の手袋を外し、素手でジョッキを掴んだ。

(っ……! ああっ、素晴らしい!)

その瞬間、私の心臓が跳ね上がった。

手袋の下から現れた手は、想像以上に大きくて武骨だった。
無数の古傷。
指の関節には硬いタコができている。
そして何より、ジョッキを持ち上げた瞬間に浮き上がった前腕の血管!

(橈側手根屈筋(とうそくしゅこんくっきん)のラインが芸術的だわ……! あの血管に針を刺したら、さぞかしスムーズに採血できるでしょうね……!)

私のマニアックな興奮を知る由もなく、クロード公爵はジョッキに口をつけた。
ゴクリ、と喉仏が動く。

(胸鎖乳突筋(きょうさにゅうとつきん)の動きもセクシー……! ああ、ずっと見ていられるわ)

私は頬杖をつき、うっとりとその「嚥下運動」を観察した。
公爵は一気に半分ほど飲み干すと、ふぅ、と小さく息を吐いた。
そして。

「……甘い」

ポツリと漏らしたその声は、先ほどまでの冷徹な響きとは少し違っていた。
どことなく、トゲが取れたような、安堵したような響き。

「お口に合いませんでした?」

私が尋ねると、彼はゆっくりと首を横に振った。

「いや……美味い。驚くほどに」

彼はジョッキの中身を見つめ、微かに目を細めた。
その表情は、まるで迷子が家に帰り着いた時のような、無防備なものに見えた。
殺気立っていた空気が、ふわりと緩む。

(あら? この人、もしかして……)

私はピンときた。
筋肉の緊張具合から分析するに、彼は相当な「甘党」だ。
糖分が脳に行き渡った瞬間、全身の筋肉がリラックスしたのが見て取れる。

「それは良かったですわ。蜂蜜を多めにして正解でしたね」

「……蜂蜜か。悪くない」

クロード公爵は、残りのミルクも愛おしそうに飲み干した。
空になったジョッキを置く手つきも、どこか丁寧だ。

「もう一杯、飲むか?」

「いえ、栄養価が高いので一度に飲みすぎるとお腹を壊しますわ。また明日にでもいらしてください」

「明日……」

彼は少し考え込むように視線を落とし、それから私を真っ直ぐに見た。
アイスブルーの瞳が、至近距離で私を捉える。

「あんな騒ぎがあった直後だというのに、随分と余裕があるのだな」

「騒ぎ?」

「王城でのことだ。ジュリアン殿下との婚約破棄。……君がこの店の主だったとは」

どうやら、私が誰なのか気づいていたらしい。
まあ、あれだけ派手な断罪劇だったのだから当然か。

「あら、ご存知でしたの? 恥ずかしいところをお見せしましたわ」

私は扇を取り出し(接客中は腰に差している)、優雅に口元を隠した。

「ですが、見ての通り私は元気ですわ。あのまま王妃になっていたら、こんな美味しいミルクを作る才能も埋もれていたでしょうし」

「……違いない」

クロード公爵は、口元のミルクの泡(!)を指で拭いながら頷いた。

(ギャップ萌え……! 処刑人がミルク髭をつけていたなんて、誰も信じないわよ!)

私は必死に笑いを噛み殺した。
この人、見た目は怖いけれど、中身は案外天然なのかもしれない。
そして何より、この至近距離で見れば見るほど、彼の筋肉は「極上」だった。

鎧の隙間から覗く首筋の僧帽筋。
分厚い胸板が呼吸に合わせて上下する様。
観察すればするほど、私の「筋肉データベース」に新たな情報が書き込まれていく。

(ああ、触りたい。あの胸板の硬さを指先で確認したい。どれほどの弾力があるのか、反発係数を測定したい……!)

私の欲望が暴走しかけた時、クロード公爵が席を立った。

「代金だ」

カウンターに置かれたのは、銀貨ではなく金貨だった。

「お釣りはいりませんわ。そんなに頂けません」

「取っておけ。味への対価と……騒がせた詫びだ」

彼は短くそう言い捨てると、預けていた大剣を背負い直した。
再び冷徹な「処刑人」の顔に戻り、出口へと向かう。

「ありがとうございました! またのお越しをマッスルゥ!!」

私の合図で、店員たちが一斉にポーズを取る。
「「「ありがとうございましたマッスルゥ!!」」」

クロード公爵は一瞬だけ足を止め、肩越しに振り返った。

「……変わった店だ。だが、嫌いではない」

それだけ言い残し、彼は風のように去っていった。
店内に残されたのは、金貨一枚と、甘いミルクの香り。

「はぁぁぁ……死ぬかと思ったぁ……」

公爵が去った瞬間、ガンツがその場にへたり込んだ。
他の客たちも一斉に息を吐き出す。

「お、お嬢、すげぇな。あの処刑人と普通に喋れるなんて」

「普通じゃねぇよ。説教してたぞ」

店員たちが尊敬(と恐怖)の眼差しで私を見てくる。
私は扇を閉じ、ニヤリと笑った。

「何言ってるの。あんな上客、他にいないわよ」

私はカウンターに残された空のジョッキを手に取った。
まだほんのりと温かい。

「お金払いが良くて、静かに飲んでくれて、しかも……あの『国宝級』の筋肉をタダで見せてくれるのよ? むしろこちらが拝観料を払いたいくらいだわ」

「お嬢のその発想が一番怖ぇよ……」

ガンツのツッコミは無視して、私は金貨をレジに放り込んだ。
チャリーン♪
いい音だ。

(ふふふ、手応えありね。間違いなく、彼はまた来るわ)

私の直感は告げていた。
彼が求めているのは、癒やしと糖分。
そして私が求めているのは、資金と筋肉。

利害は完全に一致している。

「さあ、みんな! 休憩終わりよ! 夜の部の仕込みをするわよ! スクワットしながら皿洗い再開!」

「「「イエスマッスル!!」」」

こうして、開店初日は大盛況のうちに幕を閉じた。
だが、これはまだ序章に過ぎない。
私の「筋肉カフェ」に、これからさらなる珍客(主に王都からの追手)が押し寄せてくることを、私はまだ知らなかった。

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