婚約破棄? 承知しました。では、こちらにサインをお願いします。

猫宮かろん

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王都からの呼び出し状を燃やしてから数日。
私は更なる戦力増強について考えていた。

店は順調だ。
売上も右肩上がり。
だが、人間とは欲深い生き物である。
一度「極上の筋肉」を知ってしまった私は、既存のラインナップ(鉱夫たち)だけでは満足できなくなっていたのだ。

(もっと……もっと上質な筋肉が必要よ)

カウンターの向こうで、今日も今日とて『スペシャル・ギガ・マッスル・ミルク』を飲んでいるクロード公爵を見つめる。

彼の筋肉は別格だ。
鉱夫たちの筋肉が「剛」ならば、彼の筋肉は「精」。
無駄な脂肪が一切なく、すべての繊維が機能的に研ぎ澄まされている。
まさに生きた芸術品。

(あの筋肉がこの店の厨房に立てば……いや、ただ入り口に立っているだけで、集客効果は倍増するはず!)

思い立ったら吉日。
私は意を決して、彼に近づいた。

「クロード様。少し、ご相談があるのですが」

「……なんだ?」

彼はグラスを置き、静かにこちらを向いた。
口元にうっすらとミルクの白髭がついているのが、相変わらずチャーミングだ。

「実は私、新しい『人材』を探しておりまして」

「人材? 店員が足りないのか?」

「ええ。数は足りているのですが、質がね……。もっとこう、お客様の視線を釘付けにするような、圧倒的なカリスマ性(筋肉)を持つ方が欲しいのです」

「……ふむ」

彼は興味なさそうに相槌を打った。
ここまでは想定内だ。
ここからが本題である。
私は身を乗り出し、彼の目を真っ直ぐに見つめた。
真剣さを伝えるために、声を潜めて囁く。

「単刀直入に申し上げますわ」

「……?」

「クロード様。あなたの体が欲しいのです」

「ぶふっ!!!」

クロード様が盛大にミルクを吹き出した。
気管に入ったのか、ゲホゲホと激しく咽せている。

「あ、あら、大丈夫ですの? 背中を叩きましょうか?」

「よ、寄るな! ……だ、大丈夫だ」

彼は真っ赤な顔で口元を拭い、信じられないものを見るような目で私を見た。

「い、今……なんと?」

「ですから、あなたの体が欲しいと申し上げたのです」

私はキョトンとして繰り返した。
何かおかしなことを言っただろうか?
最高の肉体を持つ彼をスカウトするのは、経営者として当然の判断だと思うのだが。

「その……素晴らしい肉体(ボディ)を、私に預けていただけませんか?」

「……っ!!」

彼の顔が、熟れたトマトのように赤くなっていく。
耳まで真っ赤だ。
普段の「氷の処刑人」からは想像もできない動揺ぶりである。

(さすがに公爵家の当主をスカウトするのは失礼だったかしら? でも、条件次第では……)

私は畳み掛けるように言葉を続けた。

「もちろん、タダでとは言いません! 一生、面倒を見させていただきます!」

「いっ、一生……!?」

「ええ! 衣食住は保証しますし、毎日美味しいミルクもお出しします。あなたの望むものは何でも用意しましょう。だから……私のそばに(店員として)いてほしいのです!」

私の熱烈なプレゼンに、クロード様は呆然としていた。
視線が泳ぎ、手が震えている。

彼の中では今、凄まじい葛藤が渦巻いているに違いない。
公爵としての公務と、この店での活動(バイト)。
二足のわらじを履くのは大変なことだ。

「……マーヤ。君は、本気で言っているのか?」

「本気ですわ。嘘偽りなく、あなたの筋肉(こと)を愛していますもの」

「あ、愛……」

彼は片手で顔を覆ってしまった。
指の隙間から見える肌も赤い。
そして、長い沈黙の後。
彼は震える声で言った。

「……ベルンシュタイン侯爵家とは、家格も釣り合う」

「はい?」

「年齢差も問題ない。……性格は少々難ありだが、その強引さは嫌いではない」

「あの、何をブツブツと……?」

彼はガバッと顔を上げた。
その瞳には、かつてないほどの強い光が宿っていた。
まるで、戦場へ向かう騎士のような決意の光だ。

「分かった。……前向きに検討させてくれ」

「本当ですか!?」

「ああ。だが、これは家と家との問題でもある。正式な手順を踏まねばならん。少し時間をくれるか?」

(家と家? ああ、なるほど。副業禁止規定とか、家訓とかがあるのね)

私は納得して頷いた。
公爵ともなれば、アルバイト一つするのにも親族の許可が必要なのかもしれない。
なんて窮屈な世界なのだろう。
やはり筋肉の自由こそが至高だ。

「ええ、構いませんわ! いつまででもお待ちします! シフトの調整は融通が利きますので!」

「シ、シフト……? ああ、これからの生活(結婚生活)のことか。そうだな、互いの生活リズムを合わせることは重要だ」

彼は深く頷き、そして立ち上がった。

「では、今日はこれで失礼する。……頭を冷やしてくる」

「はい! 良いお返事をお待ちしておりますわ!」

クロード様は、まるで夢遊病者のようにフラフラとした足取りで店を出て行った。
出口の柱に肩をぶつけそうになっていたが、大丈夫だろうか。

「やったわ……! 交渉成立の予感ね!」

私はガッツポーズをした。
あの反応なら、十中八九OKだろう。

「おい、お嬢……」

一部始終を見ていたガンツが、引きつった顔で近寄ってきた。
他の客たちも、なぜか顔を赤らめてヒソヒソと話している。

「今の会話、どう聞いても『プロポーズ』だったぞ」

「は? 何言ってるのガンツ。ただのヘッドハンティングよ」

「いやいやいや! 『体が欲しい』とか『一生面倒見る』とか! 完全に求愛の文句じゃねぇか!」

「あら、そう聞こえた? それは心外ね。私は純粋に、彼の筋肉をこの店に飾りたいだけなのに」

私は心底不思議そうに首を傾げた。
私の愛は、あくまで筋肉に対するリスペクトであり、恋愛感情などという不純なものではない。
だいたい、恋愛なんてものは「もやし王子」で懲り懲りだ。

「でもまあ、彼がどう勘違いしようと、結果的に店に来てくれるならそれでいいわ。契約書には小さい文字で『※業務内容は筋肉を見せること』って書いておけば問題ないし」

「……お嬢、あんた本当に悪役令嬢だったんだな」

「失礼ね。私は敏腕経営者よ」

私は鼻歌交じりにグラスを磨き始めた。

(クロード様が店員になったら、制服はどうしようかしら。やはり上半身裸にエプロン? それとも執事服の袖を引きちぎったワイルドスタイル? 夢が広がるわ……!)

私の脳内メーカーは、クロード様の着せ替え人形で埋め尽くされていた。

一方その頃。
冷たい夜風に当たりながら帰路につくクロード公爵は、胸の高鳴りを抑えるのに必死だった。

「……まさか、求婚されるとは」

彼は自身の胸に手を当てた。
心臓が早鐘を打っている。
戦場ですら感じたことのない、甘く、くすぐったい感覚。

「『愛している』と言われたのは初めてだ。……悪くない響きだ」

彼は夜空を見上げた。
そこに浮かぶ月が、なぜかマーヤの笑顔(ニヤケ顔)に見えてくる。

「彼女となら、退屈しない家庭が築けそうだ」

盛大な勘違いをしたまま、公爵は屋敷へと急ぐ。
その足取りは、いつになく軽やかだった。

だが、二人のこの幸せな(?)すれ違いを打ち砕く邪魔者が、ついに動き出そうとしていた。
王都から派遣された、王太子の手の者たちが。
そして、あの「ぶりっ子ヒロイン」の影も――。

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