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王宮の一室。かつては整然としていたライオネル王子の執務室は、いまや紙の海に飲み込まれようとしていた。
デスクの上に高く積み上げられた書類の山。それは、アマリが「婚約破棄」を言い渡されて去ってから、わずか数日で築き上げられた絶望の塔である。
「……おい、これはどういうことだ!? なぜこの予算申請書が通っていない! 私はサインをしたはずだぞ!」
ライオネルの叫びが響く。
目の前で冷や汗を流している若手の文官は、震える声で答えた。
「で、殿下……。その申請書、日付が去年のものになっておりますし、何より添付すべき『市場価格比較表』がございません。以前はアマリ様がすべて事前に揃えてくださっていたのですが……」
「あんな女の名前を出すな! あれはただの雑用係だ! 私が本気を出せば、あんな表など五分で作れる!」
「では、直ちにお願い致します。財務部が廊下で、首を長くして待っておりますので」
文官が差し出した白紙の束を、ライオネルはひったくるように受け取った。
しかし、ペンを握ったまま彼の手はピタリと止まる。
そもそも、市場価格とはどこで調べるものなのか。パン一つ、ジャガイモ一つの値段すら、彼は知らない。
「……ル、ルル! お前、聖女だろう? 奇跡の力でこの書類を完璧に完成させてくれ!」
部屋の隅で、フリルのついた豪華な椅子に座ってティータイムを楽しんでいたルルが、心外そうに顔を上げた。
彼女の周りだけは、相変わらずお花畑のような空気が漂っている。
「まあ、ライオネル様。聖女の力は、人々の傷を癒やしたり、お花を咲かせたりするためのものですわ。……あ、でも、この書類の角で指を切ってしまったら、すぐに治してあげますわね?」
「そんな微々たる傷はどうでもいい! 今すぐこの山のような数字をどうにかしてくれと言っているんだ!」
「無理ですわぁ。私、難しい漢字を見ていると、すぐにお目々が回ってしまいますもの。お姉様……アマリ様は、いつもこれを鼻歌まじりに片付けていらっしゃいましたけれど……」
ルルは、カップを置きながら遠い目をした。
彼女は知っていた。アマリが、ライオネルの無茶苦茶なスケジュールと、さらに無茶苦茶な放漫財政を、その超人的な事務処理能力で無理やり辻褄を合わせていたことを。
「アマリ、アマリと……! どいつもこいつも! あの女は悪役令嬢なのだぞ! 私を蔑み、ルルを虐めた邪悪な女なのだ!」
「でも殿下、お姉様がいなくなってから、お部屋の掃除も行き届いていませんわ。昨日の夜会でも、殿下のシャツにアイロンがかかっていなくて、大臣の皆様がクスクス笑っていらっしゃいましたし……」
「なっ……! あれはワザとだ! ラフなスタイルを演出したのだ!」
ライオネルは顔を真っ赤にして言い張ったが、その足元の絨毯には、先ほどこぼしたインクのシミが無惨に残っている。
以前なら、アマリがどこからともなく取り出した特製の洗剤(筋肉の力で汚れを粉砕するタイプ)で、瞬時に消し去っていたはずのシミだ。
そこへ、部屋の扉がノックもなしに勢いよく開いた。
入ってきたのは、アマリの父であるエヴァレット公爵ではない。
ライオネルの父、つまりこの国の国王である。
「ライオネル! 貴様、また報告書を滞らせているそうだな! 先ほど財務卿から、泣きながら抗議が来たぞ!」
「ち、父上! これは、その……アマリが去り際に嫌がらせとして、書類を隠していったせいで……」
「嘘をつけ! アマリ嬢は、お前が『婚約破棄』を叫んだその日のうちに、過去三カ月分の完璧な引き継ぎ書を置いていったと聞いているぞ! それをお前が『悪役の書いた呪いの書だ』と言って、暖炉に投げ込んだのではないか!」
「うぐっ……! そ、それは……」
ライオネルは言葉に詰まった。
確かに彼は、アマリが最後に渡してきた分厚いファイルを、中身も見ずに「これからは僕たちの愛の時代だ」と言って燃やしてしまったのである。
それが、領地の魔物除けの結界維持マニュアルや、隣国との秘密協定の更新スケジュールだったとは、夢にも思わなかった。
「……えっ、燃やしてしまったのですか? ライオネル様、あれ……中にお姉様が手作りしてくださった『疲労回復のクッキー』の引換券も入っていたのに……」
ルルがショックで膝をつく。
彼女がアマリのファンである最大の理由は、実はアマリが作る「プロテイン入り・激ウマおやつ」の虜になっていたからだった。
「やかましい! クッキーなどどうでもいい! 父上、アマリを呼び戻してください! 彼女に『僕の愛を再確認させてやるチャンス』を与えてやってもいい!」
「……馬鹿者が。アマリ嬢は今、領地でギルバートと共に、不正役人を物理的に粉砕して英雄扱いだ。お前のような無能の元へ戻る理由がどこにある」
国王は心底呆れたように吐き捨てると、衛兵たちを呼んだ。
「ライオネル。お前がこの書類をすべて片付けるまで、今夜の晩餐抜きだ。……それからルル、お前も聖女なら、少しは字を覚える努力をしろ」
「ええっ!? 晩餐抜き!? お腹が空いたら、私の筋肉……じゃなくて、体力が持ちません!」
「殿下、諦めてペンを握りましょう。……あ、ライオネル様、その数字、さっきから一桁間違っていますわよ?」
「黙れ! 分かっている! 分かっているんだ……!」
豪華な執務室に、ライオネルの虚しい絶叫が響き渡る。
彼が「悪役令嬢」と蔑んでいた少女こそが、この国の……そして何より彼自身の、最大の「守護神」であったことに、彼はようやく気づき始めていた。
もっとも、当のアマリは今頃、領地の広大な草原でギルバートと組み手をして、「背筋が! 背筋が喜んでいますわ!」と叫んでいるのだが。
デスクの上に高く積み上げられた書類の山。それは、アマリが「婚約破棄」を言い渡されて去ってから、わずか数日で築き上げられた絶望の塔である。
「……おい、これはどういうことだ!? なぜこの予算申請書が通っていない! 私はサインをしたはずだぞ!」
ライオネルの叫びが響く。
目の前で冷や汗を流している若手の文官は、震える声で答えた。
「で、殿下……。その申請書、日付が去年のものになっておりますし、何より添付すべき『市場価格比較表』がございません。以前はアマリ様がすべて事前に揃えてくださっていたのですが……」
「あんな女の名前を出すな! あれはただの雑用係だ! 私が本気を出せば、あんな表など五分で作れる!」
「では、直ちにお願い致します。財務部が廊下で、首を長くして待っておりますので」
文官が差し出した白紙の束を、ライオネルはひったくるように受け取った。
しかし、ペンを握ったまま彼の手はピタリと止まる。
そもそも、市場価格とはどこで調べるものなのか。パン一つ、ジャガイモ一つの値段すら、彼は知らない。
「……ル、ルル! お前、聖女だろう? 奇跡の力でこの書類を完璧に完成させてくれ!」
部屋の隅で、フリルのついた豪華な椅子に座ってティータイムを楽しんでいたルルが、心外そうに顔を上げた。
彼女の周りだけは、相変わらずお花畑のような空気が漂っている。
「まあ、ライオネル様。聖女の力は、人々の傷を癒やしたり、お花を咲かせたりするためのものですわ。……あ、でも、この書類の角で指を切ってしまったら、すぐに治してあげますわね?」
「そんな微々たる傷はどうでもいい! 今すぐこの山のような数字をどうにかしてくれと言っているんだ!」
「無理ですわぁ。私、難しい漢字を見ていると、すぐにお目々が回ってしまいますもの。お姉様……アマリ様は、いつもこれを鼻歌まじりに片付けていらっしゃいましたけれど……」
ルルは、カップを置きながら遠い目をした。
彼女は知っていた。アマリが、ライオネルの無茶苦茶なスケジュールと、さらに無茶苦茶な放漫財政を、その超人的な事務処理能力で無理やり辻褄を合わせていたことを。
「アマリ、アマリと……! どいつもこいつも! あの女は悪役令嬢なのだぞ! 私を蔑み、ルルを虐めた邪悪な女なのだ!」
「でも殿下、お姉様がいなくなってから、お部屋の掃除も行き届いていませんわ。昨日の夜会でも、殿下のシャツにアイロンがかかっていなくて、大臣の皆様がクスクス笑っていらっしゃいましたし……」
「なっ……! あれはワザとだ! ラフなスタイルを演出したのだ!」
ライオネルは顔を真っ赤にして言い張ったが、その足元の絨毯には、先ほどこぼしたインクのシミが無惨に残っている。
以前なら、アマリがどこからともなく取り出した特製の洗剤(筋肉の力で汚れを粉砕するタイプ)で、瞬時に消し去っていたはずのシミだ。
そこへ、部屋の扉がノックもなしに勢いよく開いた。
入ってきたのは、アマリの父であるエヴァレット公爵ではない。
ライオネルの父、つまりこの国の国王である。
「ライオネル! 貴様、また報告書を滞らせているそうだな! 先ほど財務卿から、泣きながら抗議が来たぞ!」
「ち、父上! これは、その……アマリが去り際に嫌がらせとして、書類を隠していったせいで……」
「嘘をつけ! アマリ嬢は、お前が『婚約破棄』を叫んだその日のうちに、過去三カ月分の完璧な引き継ぎ書を置いていったと聞いているぞ! それをお前が『悪役の書いた呪いの書だ』と言って、暖炉に投げ込んだのではないか!」
「うぐっ……! そ、それは……」
ライオネルは言葉に詰まった。
確かに彼は、アマリが最後に渡してきた分厚いファイルを、中身も見ずに「これからは僕たちの愛の時代だ」と言って燃やしてしまったのである。
それが、領地の魔物除けの結界維持マニュアルや、隣国との秘密協定の更新スケジュールだったとは、夢にも思わなかった。
「……えっ、燃やしてしまったのですか? ライオネル様、あれ……中にお姉様が手作りしてくださった『疲労回復のクッキー』の引換券も入っていたのに……」
ルルがショックで膝をつく。
彼女がアマリのファンである最大の理由は、実はアマリが作る「プロテイン入り・激ウマおやつ」の虜になっていたからだった。
「やかましい! クッキーなどどうでもいい! 父上、アマリを呼び戻してください! 彼女に『僕の愛を再確認させてやるチャンス』を与えてやってもいい!」
「……馬鹿者が。アマリ嬢は今、領地でギルバートと共に、不正役人を物理的に粉砕して英雄扱いだ。お前のような無能の元へ戻る理由がどこにある」
国王は心底呆れたように吐き捨てると、衛兵たちを呼んだ。
「ライオネル。お前がこの書類をすべて片付けるまで、今夜の晩餐抜きだ。……それからルル、お前も聖女なら、少しは字を覚える努力をしろ」
「ええっ!? 晩餐抜き!? お腹が空いたら、私の筋肉……じゃなくて、体力が持ちません!」
「殿下、諦めてペンを握りましょう。……あ、ライオネル様、その数字、さっきから一桁間違っていますわよ?」
「黙れ! 分かっている! 分かっているんだ……!」
豪華な執務室に、ライオネルの虚しい絶叫が響き渡る。
彼が「悪役令嬢」と蔑んでいた少女こそが、この国の……そして何より彼自身の、最大の「守護神」であったことに、彼はようやく気づき始めていた。
もっとも、当のアマリは今頃、領地の広大な草原でギルバートと組み手をして、「背筋が! 背筋が喜んでいますわ!」と叫んでいるのだが。
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