悪役令嬢は婚約破棄をご所望です!

黒猫かの

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王宮のバルコニー。

そこは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、冷たく澄んだ夜気が満ちていた。

頭上には満月。眼下には、宝石箱をひっくり返したような王都の夜景。

最高のロケーションだ。

しかし、私の心拍数は『リラックス』の適正値を遥かに超え、『緊急事態(レッドアラート)』の数値を叩き出していた。

「……計算外ですわ」

私は手すりに寄りかかり、夜風で熱い頬を冷まそうとした。

「何がです?」

隣に立ったルーカス様が、楽しそうに尋ねる。

「貴方のことです。……まさか、王位継承権を持つ隠し玉だったなんて。リスク管理の観点から言えば、重要事項の説明義務違反ですよ」

「おや。契約前には言えませんでしたからね。それに、サプライズがあったほうが、貴女の記憶に残るでしょう?」

「残りすぎです。……心臓に悪い」

私が胸元を押さえると、ルーカス様がそっと私の手を取り、指を絡めた。

「アインズ」

名前を呼ばれる。

ビジネスパートナーとしてではなく、一人の男としての声色。

「先ほどの御前会議での貴女の決断……嬉しかったですよ。私を選んでくれて」

「……勘違いしないでください。あれは、最も合理的な選択をしただけです。国益と、私の商売の利益を最大化するための……」

私が早口で言い訳を並べ立てようとすると、ルーカス様が私の顎に指をかけ、強引にこちらを向かせた。

「では、ここからは『非合理』な話をしましょうか」

「ひ、非合理?」

「ええ。損得勘定も、国益も、商売も関係ない。……ただ、私と貴女の感情だけの話です」

彼の顔が近づく。

眼鏡の奥の瞳が、月明かりを反射して濡れたように輝いている。

私は慌てて扇子を探した。顔を隠したい。この動揺を見られたくない。

だが、私の手は空を切った。

「扇子なら、私が預かりました」

ルーカス様が、私の扇子を背後に隠してニヤリと笑う。

「今夜は隠れるの禁止です。貴女のその美しい瞳も、赤くなった頬も、震える唇も……すべて私に見せてください」

「っ……! い、意地悪ですわ!」

「ええ。貴女限定のサディストですから」

彼は私の腰に手を回し、逃げ場を塞いだ。

「アインズ・ヴォルガ。……改めて、貴女に申し込みます」

空気が張り詰める。

「私、ルーカス・クレイグと……『人生の永久パートナーシップ契約』を結んでいただけますか?」

プロポーズ。

わかっていたけれど、言葉にされると破壊力が違う。

私は必死に、震える声で問い返した。

「……そ、その契約の……条件は?」

「期間は、死が二人を分かつまで。いえ、死んでも魂まで拘束します」

「……お、重いですわ」

「独占権は私にあります。他の男が貴女に1ミクロンでも近づいたら、私が全力で排除します。……ジェラルド殿下のようにね」

「……過激ですわ」

「その代わり」

彼は私の手を持ち上げ、甲に口づけた。

「報酬として、私の全てを貴女に捧げます。私の権力、財産、知能、そして心臓の鼓動一つに至るまで……全て貴女の自由にしていい」

「……」

「貴女が『稼ぎたい』と言えば、私は国中の金をかき集めましょう。貴女が『休みたい』と言えば、世界で一番静かな場所を用意しましょう。貴女が『泣きたい』と言えば……涙が枯れるまで、私が抱きしめます」

甘い。

砂糖を煮詰めたシロップよりも甘い。でも、殿下の言葉のような不快な甘さではない。

脳が蕩けるような、麻薬的な甘さだ。

「……不公平な契約ですわ」

私は涙目になりながら、なんとか反論を試みた。

「貴方の負担が大きすぎます。投資対効果(ROI)が合わないじゃありませんか」

「いいえ。私にとっては、貴女が隣で笑っていてくれるだけで、無限大のリターンが得られますから」

「……バカなの? 貴方、本当に天才策士なの?」

「恋に落ちた男は、皆バカになるんですよ。……貴女のせいでね」

ルーカス様が、私の額に自分の額をコツンと当てた。

「さあ、回答を。……イエスか、ハイか、喜んでか。どれにしますか?」

「……選択肢が肯定しかありませんわ」

「当然です。断られるという未来(ルート)は、私の計算にはありません」

逃げ道はない。

そして、逃げたいとも思っていない自分がいる。

私の頭の中にあるスーパーコンピューターが、激しく火花を散らして計算している。

『感情:好き』
『理性:好き』
『結論:大好き』

……ああ、もう。

私は観念して、小さくため息をついた。

「……わかりました。降参です」

私は彼を見上げた。

「その契約……締結します」

「! アインズ……」

「ただし! 特約条項をつけます!」

私は人差し指を立てて、彼の胸をツンとつついた。

「私が仕事を優先しても、文句を言わないこと。たまに計算に夢中になって貴方を放置しても、拗ねないこと。そして……」

「そして?」

「……毎日、一度は『好きだ』と言葉にすること。……私、察するのが苦手ですから」

最後の一言は、蚊の鳴くような声になってしまった。

顔から火が出そうだ。こんな恥ずかしいセリフ、私の辞書にはなかったはずなのに。

ルーカス様は、驚いたように目を見開き――そして、今までで一番優しく、愛おしそうに微笑んだ。

「承知しました。……では、最初の一回を」

彼の腕に力がこもる。

身体が引き寄せられ、密着する。

「愛しています、アインズ。……誰よりも、何よりも」

言葉が終わるか終わらないかのうちに、彼の唇が私の唇に重なった。

「んっ……」

思考が止まる。

触れ合う唇の柔らかさ。伝わってくる体温。

微かに香るコロンの香り。

それは、どんな計算式でも導き出せない、圧倒的な幸福感だった。

『計算不能(エラー)。計算不能。……でも、快適』

私の脳内アラートが、ピンク色に染まって沈黙する。

長く、甘い口づけ。

月だけが見ている、二人きりの契約調印式。

唇が離れた時、私はへなへなと崩れ落ちそうになり、彼に支えられた。

「……ずるいですわ」

「何がです?」

「こんなの……計算できるわけ、ありません……」

「ふふ。言ったでしょう? これからは、僕が君の計算外になります、と」

ルーカス様は悪戯っぽく笑い、再び私を抱き寄せた。

「さあ、もう一度。……契約の更新確認が必要ですからね」

「……回数制限は?」

「ありません。……朝が来るまで、たっぷりと」

私は諦めて、彼の首に腕を回した。

王宮のバルコニー。

そこは今、国一番の『バカップル』が誕生した場所となった。

だが、誰も文句は言わないだろう。

だって、この二人がいなければ、この国は回らないのだから。

……こうして、悪役令嬢アインズ・ヴォルガは、最強のパートナーと、最高の幸せを手に入れた。

めでたし、めでたし。

――と、締めくくりたいところだが。

物語はまだ終わらない。

恋人同士になった二人の前には、まだまだ「初々しい問題」が山積みなのだから。
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