婚約破棄だ!と言われ実家に帰ったら、最推しに餌付けされます

黒猫かの

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アースガルド公爵家の事務棟。

そこは、屋敷の中で最も空気が重く、澱んでいる場所だった。

数名の文官たちが、山積みの書類に埋もれながら、死んだ魚のような目をしてペンを動かしている。

彼らは「氷の公爵」の完璧主義に怯え、一つのミスも許されないというプレッシャーで胃に穴を開けている、哀れな子羊たちだ。

ガチャリ。

私が扉を開けて入室すると、室内の気温がさらに五度下がった(ような気がした)。

「ひっ……!」

文官の一人が、私の顔を見るなり悲鳴を上げて書類を落とした。

「ろ、ローゼン家の……悪役令嬢……!?」

「な、なぜここに!? ここは事務棟ですぞ! 処刑場ではありません!」

皆、ガタガタと震えながら壁際まで後退していく。

どうやら私の悪名は、この北の地にもしっかりと轟いているらしい。

私はため息をつき、努めて優雅に微笑んだ(つもりだが、口角を上げただけで『狩りの時間だ』と誤解された)。

「ごきげんよう、皆様。本日より公爵閣下の補佐官……兼、通訳兼スイーツテスターを拝命しましたノエルです」

「す、すいーつ……?」

「以後、お見知り置きを。……ところで」

私は視線を、彼らのデスクに向けた。

「その未処理の書類の山は、なんですの?」

文官長と思わしき中年の男が、脂汗を流しながら答える。

「あ、ああ……それは、領内の秋の収穫祭に関する予算申請書と、道路補修の嘆願書でして……。閣下の決裁を仰ぐ前に、我々の方で精査を……」

「いつから?」

「えっと……三日前から……」

「遅い」

私はバッサリと切り捨てた。

「三日もあれば、隣国との国境紛争すら解決できます。貸してごらんなさい」

「えっ、い、いやしかし!」

私は彼らの制止を聞かず、デスクの前に座った。

ペンを手に取る。インクをつける。

そこからは、私の独壇場だった。

(……ほう。この村の申請、予備費の計上が甘い。却下。書き直し)

カキカキカキ……ッ!

(道路補修? ここの地盤なら砕石舗装の方が安価で耐久性が高い。工法変更を提案)

サラサラサラ……ッ!

(収穫祭の警備計画、人員配置に穴がある。死角に警備兵を追加)

ズババババ……ッ!

私のペンは、残像が見えるほどの速度で走った。

赤ペンで修正を入れ、承認印を押し、却下書類には付箋で的確なアドバイスを添える。

「は、速い……!」

「なんだあの手の動きは!? 人間業じゃない!」

「目にも止まらぬ速さで、予算を削っていくぞ! 慈悲はないのか!」

背後で文官たちがざわめいているが、私はゾーンに入っていた。

楽しい。

あまりにも楽しい。

王城での仕事は、常に「殿下の無知」という最大の障害物があった。

何を提案しても「文字が多い」「わからん」と返され、一から説明する手間があった。

しかし、ここの書類は論理的だ。

問題点が明確で、解決策も導き出しやすい。

(これが……まともな仕事……!)

私は感動のあまり、恍惚の表情を浮かべていたに違いない。

十分後。

そこには、きれいに仕分けられた書類の塔が完成していた。

「……終わりました」

私はペンを置き、ふう、と息を吐いた。

文官たちは、ぽかんと口を開けて私を見ていた。

「ぜ、全部……? 三日分の仕事を、十分で……?」

「中身を確認しろ! どうせ適当に……いや、待て! 完璧だ!」

「この指摘、的確すぎる! 長年悩んでいた物流のボトルネックが解消されているぞ!」

「女神だ……いや、魔神だ……!」

彼らの目が、恐怖から崇拝へと変わっていくのを感じる。

その時だった。

「……何をしている」

入り口から、絶対零度の声が響いた。

空気が凍りつく。

ルーク様だ。

いつの間にか背後に立っていた彼は、鬼のような形相で私と書類の山を交互に見ていた。

「か、閣下! これはその、ノエル様が……」

文官長が言い訳しようとするのを、ルーク様が手で制する。

ルーク様は、大股で私に近づいてきた。

そして、私の手首をガシッと掴んだ。

「……契約違反だ」

「はい?」

「契約書を忘れたか。……業務時間は十時からだ。今はまだ九時五十五分だ」

「五分くらい誤差です」

「ダメだ。……それに、働きすぎだ」

ルーク様は眉間に深いシワを寄せ、痛ましげに私を見た。

「お前の手……インクで汚れている」

「勲章です」

「……痩せ細った体に、これ以上の負担をかけるな」

ルーク様はそう言うと、懐から何かを取り出した。

黄金色に輝く、瓶詰め。

王都の高級デリカテッセンでのみ扱っている、『天使の極上プリン』だ。

「……口を開けろ」

「えっ」

「補給が必要だ。……脳が糖分を求めている」

「いや、自分で食べますから」

「あーん」

「閣下!?」

周囲の文官たちが「あーん、だと……?」と石化する中、ルーク様はスプーンでプリンをすくい、私の口元に突き出した。

有無を言わせぬ迫力だ。

拒否すれば、国家反逆罪に問われそうな気配すらある。

私は観念して、口を開けた。

「……あーん」

パクッ。

濃厚な卵の風味と、ビターなカラメルソースが絡み合う。

とろけるような食感。

「……っ!!」

「どうだ」

「……悔しいですが、絶品です。星六つです」

「そうか。……なら、もう一口」

「いや、だから自分で……むぐっ」

次々と運ばれてくるプリン。

私は餌付けされる雛鳥のように、それをひたすら食べさせられた。

ルーク様は、私が食べるたびに、満足そうに頷いている。

文官たちは、その光景を遠巻きに見ながら、小声で囁き合っていた。

「見ろ……公爵様が、ノエル様を黙らせているぞ」

「『余計な口出しをするな』と、甘味で口を塞いでいるんだ……恐ろしい」

「いや、あれはどう見ても……ただのバカップルでは?」

「しっ! 聞かれたら消されるぞ!」

完食後。

ルーク様は空になった瓶をデスクに置き、ハンカチで私の口元を拭った。

「……よし。これで働いた分のカロリーは回収した」

「プラスマイナスで言うと、大幅にプラスですけどね」

「気にするな。……行くぞ。散歩の時間だ」

ルーク様は私の手を引き、事務棟を出て行った。

残された文官たちは、きれいに片付いた書類と、空のプリン瓶を見つめ、深く頭を下げた。

「ノエル様……一生ついていきます」

こうして私は、知らぬ間にアースガルド公爵家の事務方を掌握したのであった。

          ***

一方その頃、王都。

クレイス殿下の執務室。

「ぎゃあああああああ!!」

豚が締められるような叫び声が響き渡った。

駆けつけた側近たちが見たのは、一枚の書類を手に、泡を吹いて倒れている殿下の姿だった。

その書類には、こう記されていた。

『請求書』

『件名:未払い労働賃金、および慰謝料』

『請求額:金貨一億枚(※利息はトイチ)』

『振込先:アースガルド公爵家 代理人 ノエル・フォン・ローゼン』

「一億……一億だぞ!? 国家予算の十分の一ではないか!」

殿下は涙目で叫んだ。

「払えるわけがない! こんなもの、無効だ! 破り捨ててやる!」

殿下が請求書を引き裂こうとした、その時。

書類の裏から、一枚のメモがひらりと落ちた。

そこには、見覚えのある達筆な字で、こう書かれていた。

『追伸。 支払いが遅れた場合、叔父上(アースガルド公爵)が直接、回収に向かいます。 ――ノエルより』

「ヒィッ……!」

殿下の顔から、完全に血の気が引いた。

「お、叔父上が……来る……?」

あの氷の公爵が。

歩く災害が。

借金の取り立てに来る?

「は、払う! 払います! なんとしてでも払うから、叔父上だけは呼ばないでくれえええ!」

殿下は床に突っ伏して泣き崩れた。

その横で、ミーナ嬢が「クレイス様、お金がないなら新しいドレスが買えないじゃないですかぁ」と空気の読めない発言をして、側近たちに冷ややかな目で見られていることになど、気づく余裕もなく。

私の放った第一の矢は、見事に王城の急所を射抜いたようだった。
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