婚約破棄だ!と言われ実家に帰ったら、最推しに餌付けされます

黒猫かの

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王都から帰還したその夜。

アースガルド公爵邸の厨房は、深夜にもかかわらず、温かな湯気に包まれていた。

コトコトコト……。

鍋の中で、出汁の優しい香りが踊っている。

「……いい匂いだ」

厨房の隅にある丸椅子に座り(※公爵様です)、じっと鍋を見つめているルーク様が呟いた。

「もう少しですよ、ボス。お腹が空きすぎて幻覚が見えているようですが」

「……母の匂いがする」

「卵とネギの匂いです」

私は味見をして、火を止めた。

王城での「修羅場」を終え、心身ともに疲弊した体に染み渡る、特製たまご雑炊の完成だ。

器によそい、ルーク様の前に置く。

「どうぞ。……約束の夜食です」

ルーク様は、まるで聖杯を受け取るかのように、慎重にスプーンを持った。

「……頂く」

一口。

ハフハフと熱そうにしながらも、彼は咀嚼し、そして深く息を吐いた。

「……美味い」

「よかったです。冷蔵庫の余り物ですが」

「……世界一だ。……どんな高級フレンチよりも、これだ」

ルーク様はしみじみと言った。

その表情が、いつもの「氷の公爵」ではなく、ただの安心しきった青年の顔になっていて、私は不覚にもドキッとしてしまった。

(……胃袋を掴む、というのはこういうことかしら)

いいえ、違う。これはあくまで、優秀な事務官としての福利厚生の一環だ。

私は自分に言い聞かせ、自分の分の雑炊を啜った。

「……ノエル」

「はい」

「……帰ってきてくれて、よかった」

ルーク様がボソリと言う。

「王城に……そのまま居残らされるかと思った」

「まさか。あんなブラック職場、二度と御免です」

「……そうか」

ルーク様は嬉しそうに目尻を下げ、二杯目をおかわりした。

その夜は、久しぶりに平和で、穏やかな時間が流れた。

……しかし。

平和というのは、得てして長くは続かないものである。

翌朝、私たちの元に「あの二人」が宅配便のように送りつけられてくるまでは。

          ***

翌朝。公爵邸の裏庭。

そこには、物々しい鉄格子付きの馬車が停まっていた。

「降りろ! さっさと歩け!」

護送兵に怒鳴られ、よろよろと降りてきたのは、ボロボロの服を着た男女。

元・第一王子クレイスと、元・男爵令嬢ミーナだ。

彼らは手首に「債務者」と書かれたタグを付けられ、この世の終わりのような顔をしていた。

「ひどい……こんなのあんまりだ……」

「私のドレスが……泥だらけ……」

執務室から出てきた私とルーク様は、その光景を見下ろした。

「……到着したか」

ルーク様が冷ややかに言う。

「閣下。これはどういう状況で?」

「昨日、王と契約を結んだ。……クレイスの身柄は、債権者である俺が管理するとな」

「なるほど。担保の回収ですね」

「ああ。……働かせて返済させる」

ルーク様はサングラスを外し、二人の前に歩み出た。

クレイスたちが、ビクッとして身を寄せ合う。

「よお、元・殿下。……寝心地はどうだった?」

「お、叔父上……! いや、公爵閣下!」

クレイスが泣きついた。

「助けてくれ! 父上が……国王陛下が、俺を勘当だと言って……! 平民に落とされた挙句、ここに送られたんだ!」

「当然だ。……五十億の借金を俺が肩代わりしたんだ。お前は俺の所有物だ」

「そ、そんな……! 俺は王子だぞ! 労働なんてしたことがない!」

「安心しろ。……これから死ぬほどできる」

ルーク様はニヤリと笑った。

そして、隣のミーナに視線を移す。

ミーナは、昨日の強気な態度はどこへやら、震えながらルーク様に上目遣いをした。

「こ、公爵様ぁ……私は関係ないですよね? クレイス様が勝手にやったことで……」

「連帯保証人になっていたぞ」

「へ?」

ルーク様は一枚の書類(借用書)を見せた。

「ギルバートが気を利かせてな。……お前のサイン入りの念書を提出した。『愛の共同体』として、借金も共有するとな」

「ギルバートォォォォォ!!」

ミーナが絶叫した。

あの男、自分の保身のためにミーナまで売ったらしい。さすがは財務大臣の息子、損切りが早い。

「さて、ノエル」

ルーク様が私を振り返った。

「こいつらの配置だが……どこにする?」

「そうですね」

私は手元の「領内労働者不足リスト」を確認した。

「クレイス殿下……いえ、クレイスさんには、体力仕事が向いているでしょう。頭脳労働は計算ミスで損害が出ますから」

「うむ」

「北の鉱山で、ツルハシを振るっていただきましょう。あそこなら涼しいですし」

「ひいいい! 鉱山!? 暗くて狭いところは嫌だぁ!」

クレイスが喚く。

「嫌なら、西の開拓地で岩運びでもいいですよ。ノルマは一日二百個です」

「どっちも地獄じゃないか!」

「次に、ミーナさん」

私は彼女を見た。

「貴女には、屋敷の厨房で皿洗いと、ジャガイモの皮剥きをお願いします」

「はぁ!? 私が!? 未来の王妃だった私が、芋の皮剥き!?」

ミーナが金切り声を上げる。

「私の手は、ドレスや宝石に触れるためにあるのよ! 泥だらけの芋なんて触れないわ!」

「ご安心ください。手袋を支給します」

私は業務用のゴム手袋を投げつけた。

「嫌なら、クレイスさんと一緒に鉱山へ行きますか? 愛の力で岩を砕くのもロマンチックですよ」

「……芋でいいわ」

ミーナは即答した。愛より生存本能が勝ったらしい。

「では、契約成立です」

私は分厚い冊子を二人に手渡した。

「これは?」

「『アースガルド公爵領・労働マニュアル(初心者編)』です。全五百ページあります」

「よ、読めるかこんなもの!」

「読んでいただかないと、安全管理上、現場に出せません。……読了するまで、食事抜きです」

「鬼! やっぱり悪魔だ!」

二人は泣きながらマニュアルを開いた。

          ***

一週間後。

公爵邸の日常は、少しだけ変化していた。

「ひいぃぃぃ……重い……岩が重い……」

庭の片隅で、元王子がヨロヨロと石を運んでいる。

「なんで……なんで私がこんな……」

厨房の裏口で、元男爵令嬢が山のようなジャガイモと格闘している。

私はその様子を、二階のテラスから優雅に観察していた。

「……進捗は?」

隣でルーク様が紅茶を飲みながら尋ねる。

「悪くありません。クレイスさんの筋肉量が三パーセント増加。ミーナさんの皮剥き速度は、初日の倍になっています」

「……適応したか」

「人間、追い込まれればなんとかなるものです」

私は電卓を叩いた。

「時給換算で計算すると、彼らが借金五十億を完済するのにかかる時間は……」

「……何年だ?」

「約、一万二千年です」

「……」

ルーク様が紅茶を吹き出しそうになった。

「……永遠じゃないか」

「はい。ですから、これは労働というより、一生をかけた『償い』ですね」

私は冷徹に言い放った。

「彼らには、ここで汗水垂らして働くことの尊さを、骨の髄まで学んでもらいます」

「……お前は、本当に容赦がないな」

ルーク様が苦笑する。

しかし、その目は優しかった。

「だが……これで静かになった」

「ええ。邪魔者はいなくなりました」

「……なら」

ルーク様が、ことりとカップを置いた。

そして、テラスの手すりに寄りかかり、私の方を向いた。

「……そろそろ、俺たちの話をしてもいいか?」

「俺たちの話?」

「ああ。……計算の話でも、仕事の話でもない」

ルーク様が、真剣な眼差しで私を見つめる。

心臓が、トクリと鳴った。

夕日が、ルーク様の銀髪を茜色に染めている。

「……ノエル。舞踏会で言ったこと、覚えているか」

『隣にいるだけで、世界が輝いて見える』

あの言葉だ。

私が顔を赤らめそうになった、その時。

「ぎゃあああああああ!」

庭から絶叫が響いた。

「む、虫! 芋虫がぁぁぁ!」

ミーナの声だ。

「うるさい! 俺なんか足に岩を落としたぞ!」

クレイスの悲鳴だ。

「……」

「……」

私とルーク様は顔を見合わせた。

ムードもへったくれもない。

ルーク様の額に、青筋が浮かぶ。

「……セバス!」

「はい、ここに」

影から執事が現れる。

「あの騒がしい二人を、地下牢へ移動させろ。……音が漏れないようにな」

「かしこまりました。……防音壁のある『集中作業室』へ」

「頼む」

ルーク様は深くため息をつき、私に向き直った。

「……邪魔が入った」

「そうですね。……続きは、また今度にしますか?」

私が尋ねると、ルーク様は首を横に振った。

「いや、今言う」

彼は一歩、私に近づいた。

その距離、あと三十センチ。

逃げ場はない。

「……ノエル。俺は、お前を事務官として雇ったが」

「はい」

「……契約内容を、変更したい」

「変更? 待遇改善でしょうか。有給休暇の増量なら歓迎しますが」

「違う」

ルーク様は私の手を取り、その指先に口づけた。

「……終身雇用契約だ」

「……!」

「役職は『公爵夫人』。……給与は、俺の全財産と、俺の人生だ」

ルーク様が顔を上げ、真っ直ぐに私を見る。

その瞳には、もう迷いも、計算もなかった。

「……受けてくれるか?」

私は、口を開きかけた。

もちろん、答えは決まっている。

だが、私の口から出た言葉は――。

「……閣下。その契約には、重大な不備があります」

「な、なんだと!?」

ルーク様が動揺する。

私はニッコリと、悪役令嬢らしく不敵に微笑んだ。

「『愛』という項目が抜けています。……それを条文に加えていただければ、サインしますよ」

ルーク様は一瞬ポカンとし、それから耳まで真っ赤にして、大きな手で顔を覆った。

「……言わせるのか。この俺に」

「はい。明確な言語化が必要です」

「……愛してる」

蚊の鳴くような声。

「聞こえません」

「愛してる! 大好きだ! お前がいないと生きていけない!」

ルーク様が叫んだ。

その声は、地下牢へ連行されていく二人の悲鳴よりも大きく、夕暮れの空に響き渡った。

私は満足げに頷いた。

「……契約、成立ですね」

私が微笑むと、ルーク様は恐る恐る手を伸ばし、私を抱きしめた。

その腕は震えていて、温かくて、そしてとても強かった。

こうして、計算高い悪役令嬢と、計算の合わない不器用な公爵の、長い長い一日が終わった。

二人の未来には、まだ山積みの書類と、借金返済奴隷の二人と、そして甘い生活が待っている。

だが、今の私には、どんな難問も解ける気がしていた。

なぜなら、私の隣には、世界最強の(そして最愛の)パートナーがいるのだから。
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