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ローゼン侯爵家の正門。
実家の重厚な鉄扉が開くと、そこには整列した使用人たちと、その中心で腕を組む父の姿があった。
「……遅い」
父、ローゼン侯爵が懐中時計をパチンと閉じる。
「予定より三分遅刻だ。馬車の車輪の回転数が足りんのではないか?」
「申し訳ありません、お父様。途中で『見送り』の二人(元王子と元令嬢)の泣き声がうるさくて、馬が怯えたもので」
私は馬車を降り、カーテシーをした。
久しぶりの実家。
空気は澄んでいるが、それ以上に父の放つ「規律」という名のプレッシャーが重い。
「まあよい。……入れ。休んでいる暇はないぞ」
父は背を向け、屋敷の中へと歩き出した。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
執事が私の荷物を受け取る。
「ただいま。……相変わらず、空気が張り詰めているわね」
「はい。旦那様は、お嬢様の帰還に合わせて『花嫁修業カリキュラム』を徹夜で作成しておられましたから」
「……嫌な予感がするわ」
***
父の書斎。
私はソファに座らされ、目の前にドンッ!と分厚いファイルを置かれた。
「……お父様。これは?」
「お前の今後二ヶ月間のスケジュールだ」
父が眼鏡を光らせて言った。
私はファイルをめくった。
『04:00 起床・乾布摩擦』
『04:30 早朝礼拝(精神統一)』
『05:30 公爵家家系図の暗記(過去五百年分)』
『07:00 朝食(テーブルマナーの鬼特訓)』
『08:00 経済学・法学・帝王学の講義』
(中略)
『23:00 反省会』
『24:00 就寝』
「……」
私はパタンとファイルを閉じた。
「お父様。これは『花嫁修業』ではなく、『特殊部隊の選抜試験』ではありませんか?」
「甘いことを言うな!」
父が机を叩いた。
「相手はあのアースガルド公爵家だぞ! 北の絶対支配者だ! 生半可な知識やマナーで嫁げば、三日で追い返されるわ!」
「いえ、あちらは『いてくれるだけでいい』と……」
「それは男の常套句だ! 釣った魚に餌をやらないのが世の常! 『有能すぎて手放せない』と思わせなければ、お前の居場所などないと思え!」
父の言葉は厳しいが、理に適っている。
確かに、ルーク様は今は私に夢中だが、数年後はわからない。
「愛」などという不確かなものではなく、「実力」で地位を固める。
それは私の信条でもある。
「……承知いたしました。このカリキュラム、完遂してみせます」
「うむ。その意気だ」
父は満足げに頷いた。
「ちなみに、この期間中は外出禁止、面会謝絶だ。……特に、公爵との接触は一切禁ずる」
「えっ?」
「冷却期間だ。……男という生き物は、会えない時間が長ければ長いほど燃え上がるものだ。焦らして価値を高めろ」
「はあ……」
戦略的だ。さすが父。
「では、早速だが第一講義を始める。……講師を呼んである」
父がベルを鳴らすと、書斎の扉が開いた。
入ってきたのは、見知らぬ青年だった。
長身痩躯。
銀縁眼鏡をかけ、手には分厚い書物を抱えている。
整った顔立ちだが、その瞳には感情の色がない。
どこか、私と似た匂いがする男だ。
「……ご紹介にあずかりました、オスカー・ワイルドと申します」
青年は事務的に一礼した。
「本日より、ノエル様の家庭教師(座学担当)を務めさせていただきます」
「オスカー君は、隣国の大学を首席で卒業した秀才だ。……特に経済学と論理学においては、私の右に出る者はいない」
父が紹介する。
私は立ち上がり、会釈した。
「よろしく頼みます、オスカー先生。……お手柔らかに」
「ご安心を。……私は『無駄』が嫌いです。効率的に、最短距離で貴女を公爵夫人に仕立て上げます」
オスカーは眼鏡の位置を直しながら、私を上から下までジロリと観察した。
「……ふむ。素材は悪くない。ですが、目つきが減点対象ですね。あと、隙がありすぎる」
「隙?」
「ええ。……先ほどから、窓の外を気にしているようですが」
オスカーが窓を指差す。
そこには、一羽の白い鷹が止まっていた。
足に手紙を結びつけている。
「あ、ルーク様の使い魔!」
私は駆け寄ろうとした。
しかし。
バシュッ!
オスカーが投げたペーパーナイフが、窓枠に突き刺さった。鷹のすぐ横だ。
鷹は「ピギーッ!」と悲鳴を上げて飛び去ってしまった。
「な、何をするんですか!」
「講義中の私語、および外部との接触は禁止です」
オスカーは冷淡に言った。
「あの鷹は、公爵からのラブレターでしょう? 『寂しい』『会いたい』『今日の夕飯はなんだ』……そんなノイズに気を取られていては、学習効率が下がります」
「ノイズって……大切な連絡手段です!」
「不要です。……今の貴女に必要なのは、甘い言葉ではなく、冷徹な知識です」
オスカーは黒板の前に立ち、チョークを構えた。
「さあ、席に着いてください。……最初の授業は『公爵領における対インフレ政策と通貨発行権の行使について』です」
「……くっ」
私は唇を噛み、席に戻った。
この男、手強い。
ルーク様とは正反対の、「理論武装した鉄壁」だ。
***
その夜。
私はクタクタになって自室に戻った。
「……疲れた」
ベッドに倒れ込む。
初日からハードすぎる。
オスカーの講義は、息つく暇もないほどのハイスピードで、少しでも答えに詰まると「遅い」「非効率的だ」と罵倒されるのだ。
「……ルーク様、大丈夫かしら」
窓を見上げる。
手紙も送れない。受け取れない。
ルーク様は今頃、書類の山と格闘し、栄養バランスの悪い食事を摂っているのではないだろうか。
「……会いたい」
思わず、本音が漏れた。
コンコン。
ドアがノックされた。
「……誰?」
「オスカーです。……夜食をお持ちしました」
「入って」
オスカーが入ってくる。手にはトレイ。
中身は……栄養調整食品のような、味気ないブロックと、水。
「……これは?」
「脳の活動に必要なブドウ糖とビタミンを凝縮したものです。……味は二の次ですが、効率的に摂取できます」
「……味気ないわね」
「食事に快楽を求めるのは、非効率です」
オスカーは無表情で言った。
そして、私の机の上に置かれた、ルーク様との思い出の品(壊れた万年筆)を見て、フンと鼻を鳴らした。
「……あのような、感情だけで動く男のどこが良いのですか?」
「え?」
「公爵のことです。……噂では、計算もろくにできず、感情任せに国を買収したとか。……経営者としては三流ですね」
カチン。
私の頭の中で、何かが切れた。
「……取り消していただきましょうか」
私は立ち上がった。
「彼は三流ではありません。……決断力と、人を動かすカリスマ性は超一流です。計算は私が補えばいいだけの話」
「補う? ……貴女のような優秀な頭脳が、あんな男の『道具』として消費されるのが、私には理解できないと言っているのです」
オスカーが一歩近づいてくる。
その瞳の奥に、奇妙な熱が見えた。
「……ノエル様。貴女に必要なのは、あのような野獣ではなく、……貴女と同じ『言葉』を話せる、知的なパートナーではないですか?」
「……何が言いたいの?」
「私なら」
オスカーは私の手を取り、跪いた。
「私なら、貴女と対等な議論ができます。……貴女の計算式を、美しく解くことができます。……私と組みませんか?」
「は?」
これは……勧誘? それとも求婚?
「お父様は、こうも仰っていました。『もし公爵との破談があれば、オスカー君を婿に迎えてもいい』と」
「なっ……!」
父の差し金か!
「お断りします」
私は手を振り払った。
「私はルーク様の婚約者です。それに、貴方の計算式には『愛』という変数が欠落しています。……解は永遠に出ませんよ」
「……愛、ですか」
オスカーは立ち上がり、眼鏡を押し上げた。
「非論理的だ。……まあいいでしょう。この二ヶ月で証明してみせますよ。……感情がいかに脆く、論理がいかに強固であるかを」
オスカーは不敵な笑みを残し、部屋を出て行った。
残された私は、拳を握りしめた。
「……負けないわ」
花嫁修業という名の、新たな戦い。
敵は、実の父と、感情を持たない論理モンスター。
そして、会えない時間という試練。
「待っていて、ボス。……私が戻るまで、絶対に浮気しないでくださいね」
私は夜空に向かって祈った。
一方その頃、公爵邸では。
「……ノエルの手紙が来ない」
「……鷹が撃墜されただと?」
「……焼き払うか、ローゼン家を」
ルーク様が、禁断症状で「闇落ち」寸前になっていたことを、私はまだ知らなかった。
実家の重厚な鉄扉が開くと、そこには整列した使用人たちと、その中心で腕を組む父の姿があった。
「……遅い」
父、ローゼン侯爵が懐中時計をパチンと閉じる。
「予定より三分遅刻だ。馬車の車輪の回転数が足りんのではないか?」
「申し訳ありません、お父様。途中で『見送り』の二人(元王子と元令嬢)の泣き声がうるさくて、馬が怯えたもので」
私は馬車を降り、カーテシーをした。
久しぶりの実家。
空気は澄んでいるが、それ以上に父の放つ「規律」という名のプレッシャーが重い。
「まあよい。……入れ。休んでいる暇はないぞ」
父は背を向け、屋敷の中へと歩き出した。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
執事が私の荷物を受け取る。
「ただいま。……相変わらず、空気が張り詰めているわね」
「はい。旦那様は、お嬢様の帰還に合わせて『花嫁修業カリキュラム』を徹夜で作成しておられましたから」
「……嫌な予感がするわ」
***
父の書斎。
私はソファに座らされ、目の前にドンッ!と分厚いファイルを置かれた。
「……お父様。これは?」
「お前の今後二ヶ月間のスケジュールだ」
父が眼鏡を光らせて言った。
私はファイルをめくった。
『04:00 起床・乾布摩擦』
『04:30 早朝礼拝(精神統一)』
『05:30 公爵家家系図の暗記(過去五百年分)』
『07:00 朝食(テーブルマナーの鬼特訓)』
『08:00 経済学・法学・帝王学の講義』
(中略)
『23:00 反省会』
『24:00 就寝』
「……」
私はパタンとファイルを閉じた。
「お父様。これは『花嫁修業』ではなく、『特殊部隊の選抜試験』ではありませんか?」
「甘いことを言うな!」
父が机を叩いた。
「相手はあのアースガルド公爵家だぞ! 北の絶対支配者だ! 生半可な知識やマナーで嫁げば、三日で追い返されるわ!」
「いえ、あちらは『いてくれるだけでいい』と……」
「それは男の常套句だ! 釣った魚に餌をやらないのが世の常! 『有能すぎて手放せない』と思わせなければ、お前の居場所などないと思え!」
父の言葉は厳しいが、理に適っている。
確かに、ルーク様は今は私に夢中だが、数年後はわからない。
「愛」などという不確かなものではなく、「実力」で地位を固める。
それは私の信条でもある。
「……承知いたしました。このカリキュラム、完遂してみせます」
「うむ。その意気だ」
父は満足げに頷いた。
「ちなみに、この期間中は外出禁止、面会謝絶だ。……特に、公爵との接触は一切禁ずる」
「えっ?」
「冷却期間だ。……男という生き物は、会えない時間が長ければ長いほど燃え上がるものだ。焦らして価値を高めろ」
「はあ……」
戦略的だ。さすが父。
「では、早速だが第一講義を始める。……講師を呼んである」
父がベルを鳴らすと、書斎の扉が開いた。
入ってきたのは、見知らぬ青年だった。
長身痩躯。
銀縁眼鏡をかけ、手には分厚い書物を抱えている。
整った顔立ちだが、その瞳には感情の色がない。
どこか、私と似た匂いがする男だ。
「……ご紹介にあずかりました、オスカー・ワイルドと申します」
青年は事務的に一礼した。
「本日より、ノエル様の家庭教師(座学担当)を務めさせていただきます」
「オスカー君は、隣国の大学を首席で卒業した秀才だ。……特に経済学と論理学においては、私の右に出る者はいない」
父が紹介する。
私は立ち上がり、会釈した。
「よろしく頼みます、オスカー先生。……お手柔らかに」
「ご安心を。……私は『無駄』が嫌いです。効率的に、最短距離で貴女を公爵夫人に仕立て上げます」
オスカーは眼鏡の位置を直しながら、私を上から下までジロリと観察した。
「……ふむ。素材は悪くない。ですが、目つきが減点対象ですね。あと、隙がありすぎる」
「隙?」
「ええ。……先ほどから、窓の外を気にしているようですが」
オスカーが窓を指差す。
そこには、一羽の白い鷹が止まっていた。
足に手紙を結びつけている。
「あ、ルーク様の使い魔!」
私は駆け寄ろうとした。
しかし。
バシュッ!
オスカーが投げたペーパーナイフが、窓枠に突き刺さった。鷹のすぐ横だ。
鷹は「ピギーッ!」と悲鳴を上げて飛び去ってしまった。
「な、何をするんですか!」
「講義中の私語、および外部との接触は禁止です」
オスカーは冷淡に言った。
「あの鷹は、公爵からのラブレターでしょう? 『寂しい』『会いたい』『今日の夕飯はなんだ』……そんなノイズに気を取られていては、学習効率が下がります」
「ノイズって……大切な連絡手段です!」
「不要です。……今の貴女に必要なのは、甘い言葉ではなく、冷徹な知識です」
オスカーは黒板の前に立ち、チョークを構えた。
「さあ、席に着いてください。……最初の授業は『公爵領における対インフレ政策と通貨発行権の行使について』です」
「……くっ」
私は唇を噛み、席に戻った。
この男、手強い。
ルーク様とは正反対の、「理論武装した鉄壁」だ。
***
その夜。
私はクタクタになって自室に戻った。
「……疲れた」
ベッドに倒れ込む。
初日からハードすぎる。
オスカーの講義は、息つく暇もないほどのハイスピードで、少しでも答えに詰まると「遅い」「非効率的だ」と罵倒されるのだ。
「……ルーク様、大丈夫かしら」
窓を見上げる。
手紙も送れない。受け取れない。
ルーク様は今頃、書類の山と格闘し、栄養バランスの悪い食事を摂っているのではないだろうか。
「……会いたい」
思わず、本音が漏れた。
コンコン。
ドアがノックされた。
「……誰?」
「オスカーです。……夜食をお持ちしました」
「入って」
オスカーが入ってくる。手にはトレイ。
中身は……栄養調整食品のような、味気ないブロックと、水。
「……これは?」
「脳の活動に必要なブドウ糖とビタミンを凝縮したものです。……味は二の次ですが、効率的に摂取できます」
「……味気ないわね」
「食事に快楽を求めるのは、非効率です」
オスカーは無表情で言った。
そして、私の机の上に置かれた、ルーク様との思い出の品(壊れた万年筆)を見て、フンと鼻を鳴らした。
「……あのような、感情だけで動く男のどこが良いのですか?」
「え?」
「公爵のことです。……噂では、計算もろくにできず、感情任せに国を買収したとか。……経営者としては三流ですね」
カチン。
私の頭の中で、何かが切れた。
「……取り消していただきましょうか」
私は立ち上がった。
「彼は三流ではありません。……決断力と、人を動かすカリスマ性は超一流です。計算は私が補えばいいだけの話」
「補う? ……貴女のような優秀な頭脳が、あんな男の『道具』として消費されるのが、私には理解できないと言っているのです」
オスカーが一歩近づいてくる。
その瞳の奥に、奇妙な熱が見えた。
「……ノエル様。貴女に必要なのは、あのような野獣ではなく、……貴女と同じ『言葉』を話せる、知的なパートナーではないですか?」
「……何が言いたいの?」
「私なら」
オスカーは私の手を取り、跪いた。
「私なら、貴女と対等な議論ができます。……貴女の計算式を、美しく解くことができます。……私と組みませんか?」
「は?」
これは……勧誘? それとも求婚?
「お父様は、こうも仰っていました。『もし公爵との破談があれば、オスカー君を婿に迎えてもいい』と」
「なっ……!」
父の差し金か!
「お断りします」
私は手を振り払った。
「私はルーク様の婚約者です。それに、貴方の計算式には『愛』という変数が欠落しています。……解は永遠に出ませんよ」
「……愛、ですか」
オスカーは立ち上がり、眼鏡を押し上げた。
「非論理的だ。……まあいいでしょう。この二ヶ月で証明してみせますよ。……感情がいかに脆く、論理がいかに強固であるかを」
オスカーは不敵な笑みを残し、部屋を出て行った。
残された私は、拳を握りしめた。
「……負けないわ」
花嫁修業という名の、新たな戦い。
敵は、実の父と、感情を持たない論理モンスター。
そして、会えない時間という試練。
「待っていて、ボス。……私が戻るまで、絶対に浮気しないでくださいね」
私は夜空に向かって祈った。
一方その頃、公爵邸では。
「……ノエルの手紙が来ない」
「……鷹が撃墜されただと?」
「……焼き払うか、ローゼン家を」
ルーク様が、禁断症状で「闇落ち」寸前になっていたことを、私はまだ知らなかった。
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