婚約破棄だ!と言われ実家に帰ったら、最推しに餌付けされます

黒猫かの

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アースガルド公爵邸、執務室。

そこは現在、氷河期の只中にあった。

室温はマイナス三十度。

窓は凍りつき、インク壺は破裂し、観葉植物は氷の彫刻と化している。

「……旦那様。そろそろ限界です」

防寒着を着込んだセバスが、ガタガタと震えながら進言した。

デスクの奥で、氷像のように固まっているルークに声をかける。

ルークは、ノエルが去ってから三日間、一睡もしていなかった。

食事も摂らず、ただひたすらに書類を睨み(内容は頭に入っていない)、時折「ノエル……」と亡霊のように呟くだけだ。

「……セバス」

「は、はい」

「……三日だ」

ルークが顔を上げる。

その目は血走り、頬はこけ、凄まじい形相になっていた。

「彼女がいない時間が、三日も続いた。……これは、俺の限界を七十二時間オーバーしている」

「計算がおかしいですが、お気持ちはわかります」

「……禁断症状だ」

ルークは自身の胸を鷲掴みにした。

「胸が苦しい。息ができない。……彼女の淹れたぬるい紅茶と、辛辣なツッコミと、事務的な笑顔がないと……俺の心臓が機能を停止する」

「重症ですね」

「……行くぞ」

ルークがゆらりと立ち上がった。

その瞬間、彼を中心に吹雪が巻き起こった。

「迎えに行く。……これ以上、一秒たりとも待てん」

「し、しかし! ローゼン侯爵からは『面会謝絶』と!」

「知ったことか」

ルークは窓を開け放った(ガラスごと粉砕した)。

「俺は公爵だ。……欲しいものは力尽くでも奪う。それが俺の流儀だったはずだ」

彼は獰猛に笑った。

だが、その目は必死だった。

「……ノエルがいない世界など、滅んでしまえばいい」

          ***

一方、ローゼン侯爵家。

私の部屋は、「論理の監獄」と化していた。

「……ノエル様。また手が止まっていますよ」

家庭教師のオスカーが、冷徹な声で指摘する。

「この微分積分の問題、解くのに三分以上かかっています。……公爵夫人の実務において、この程度の計算速度では致命的です」

「……こんな複雑な計算、実務で使いません」

私はペンを投げ出したくなった。

連日の睡眠不足と、オスカーのネチネチとした嫌味攻撃で、私のストレスは限界に達していた。

「使いません、ではありません。……脳のスペックを上げる訓練です」

オスカーは眼鏡を押し上げ、私に詰め寄った。

「それとも、やはり貴女には無理ですか? ……感情で動くあの公爵のように、論理を捨てて野獣に戻りますか?」

「……彼の悪口はやめて」

「事実です。……彼は貴女を幸せにはできない。貴女の知性を理解できるのは、同じ知性を持つ私だけだ」

オスカーの手が、私の頬に伸びる。

「……私と来なさい。父上も認めています。……公爵との婚約を破棄し、私と――」

その時だった。

ズドォォォォォン!!

轟音と共に、部屋の壁が爆発した。

「きゃっ!?」

「な、なんだ!?」

土煙が舞う。

瓦礫が飛ぶ。

そして、ぽっかりと空いた壁の大穴から、冷気と共に「彼」が現れた。

「……見つけた」

地獄の底から這い上がってきたような声。

銀髪を振り乱し、青い炎のような瞳をギラつかせた、ルーク・ヴァン・アースガルド公爵だ。

彼は一歩、また一歩と部屋に入ってくる。

その足元から、床が凍りついていく。

「ル、ルーク様!?」

私は目を疑った。

やつれている。ひどい顔だ。

でも、今まで見たどの彼よりも、圧倒的な迫力を放っていた。

「……誰だ、貴様は」

オスカーが震える声で問う。

「不法侵入だぞ! ここはローゼン侯爵邸の二階だ! 壁を壊して入ってくるなど、非常識にも程がある!」

「……害虫か」

ルークはオスカーを一瞥しただけで、興味なさげに視線を外した。

そして、私を真っ直ぐに見た。

「……ノエル」

「か、閣下……どうしてここに……」

「迎えに来た」

ルークは私の前に立ち、荒い息を吐いた。

「帰るぞ。……今すぐにだ」

「で、ですが、まだ修業期間が……」

「必要ない!」

ルークが叫んだ。

「お前に修業などいらん! 今のままでいい! そのままのお前がいいんだ!」

「……っ!」

「待ちなさい!」

オスカーが割り込んだ。

「野蛮な! 彼女は今、論理的思考を学んでいる最中です! 貴方のような感情論で動く人間には理解できない高尚な……」

「うるさい」

ルークが手を払うと、オスカーの足元がカチンと凍りついた。

「うわっ!? あ、足が!」

「動くな。……俺は今、人生で一番大事な話をしている」

ルークは私の方に向き直ると、私の両肩をガシッと掴んだ。

その力は強く、そして震えていた。

「……ノエル。聞いてくれ」

「は、はい」

ルークの顔が近づく。

至近距離で見つめ合う。

彼の瞳に、私の顔が映っている。

「俺は……この三日間、考えた。計算した。シミュレーションした」

ルークは早口で捲し立てた。

「お前がいないと、業務効率が四十パーセント低下する。食事が不味くなる。俺の精神安定度が著しく損なわれる。……これは、公爵家にとって莫大な損失だ」

「……はい、そうですね」

いつもの理屈だ。

私は少しだけ、冷静になろうとした。

また、「計算が合わない」と言われるのだろう。

私は便利な道具だから、迎えに来たのだと。

しかし。

ルークは首を激しく振った。

「だが! そんなことはどうでもいいんだ!」

「……え?」

「計算なんてどうでもいい! 損得なんて知ったことか! 業務効率が下がろうが、破産しようが、そんなことは些細な問題だ!」

ルークは叫んだ。

「俺はただ……お前がいないと寂しいんだ!」

ドクン。

心臓が大きく跳ねた。

「朝起きて、お前がいないのが辛い! 隣で笑ってくれないのが苦しい! お前の淹れた茶じゃないと満足できない!」

ルークは子供のように、必死な顔で訴えかけた。

「俺は……お前が好きなんだ! 事務官としてじゃなく、計算機としてでもなく、ノエル・フォン・ローゼンという一人の女として!」

「……!」

「愛しているんだ! 頼むから、俺のそばにいてくれ! もう一秒も離れたくないんだ!」

静寂。

壊れた壁から吹き込む風の音だけが聞こえる。

私は呆然としていた。

計算高い私が。

常に冷静沈着な私が。

頭の中が真っ白になっていた。

(……ああ、どうしよう)

顔が熱い。

耳まで熱い。

全身の血液が沸騰しているようだ。

こんなに直球で、なりふり構わない愛の言葉をぶつけられたのは、生まれて初めてだった。

「……ノエル?」

ルークが不安そうに私の顔を覗き込む。

「……嫌か? 俺じゃ、ダメか?」

その捨てられた子犬のような目。

最強の公爵様が、私の前でだけ見せる弱さ。

私は、ゆっくりと口を開いた。

「……バカですね、ボスは」

「えっ」

「壁を壊して、不法侵入して、家庭教師を凍らせて……。慰謝料と修理費、いくらになると思っているんですか?」

私は涙声で言った。

「……高くつくわよ?」

ルークの顔が、パァッと輝いた。

「……払う! いくらでも払う! 俺の全財産でお釣りがくる!」

「……じゃあ、契約成立です」

私が頷いた瞬間。

ルークは私を強く抱きしめた。

「ノエル……! ありがとう……! 愛してる……!」

「……苦しいです、閣下」

「離さん! もう二度と離さん!」

オスカーは凍りついたまま、呆然とその光景を見ていた。

「……非論理的だ。……なぜ、計算ができない男を選ぶのです……?」

私はルークの腕の中から、オスカーに微笑みかけた。

「先生。……恋というものは、最初から『割り切れない』ものなんですよ」

「……っ」

「さあ、帰りましょう、ルーク様。……私の居場所に」

「ああ! 帰ろう!」

ルークは私を軽々とお姫様抱っこした。

そして、壊れた壁の穴から、堂々と飛び降りた(二階です)。

「きゃあああ!」

「ハハハ! しっかり捕まっていろ!」

着地。

庭には、騒ぎを聞きつけた父と使用人たちが集まっていた。

「な、なんだ!? 公爵!? 娘をどうする気だ!」

父が叫ぶ。

ルークは私を抱いたまま、父に向かってニヤリと笑った。

「お義父さん。……娘さんは頂きました」

「なっ……!?」

「結婚式は来週だ! 招待状は後で送る! ……あばよ!」

ルークは指を鳴らすと、氷の道を作り出し、その上をスケートのように滑走して逃走した。

「ま、待てぇぇぇ! 誘拐だぁぁぁ!」

父の怒号が遠ざかる。

私はルークの首に腕を回し、風を切る感覚を楽しんでいた。

「……強引すぎます、閣下」

「文句があるならキスで塞ぐぞ」

「……どうぞ?」

私が挑発すると、ルークは顔を真っ赤にして、でも嬉しそうに、走りながら私の唇を奪った。

冷たくて、でも甘い、氷の公爵様のキス。

これが、私の選んだ「ハッピーエンド」への逃避行だった。

だが、まだ終わらない。

来週の結婚式。

そこには、これまでの全ての登場人物が集結し、最後のドタバタ劇が繰り広げられることになるのだから。
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