悪役令嬢は、婚約破棄に舞い踊る!

猫宮かろん

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「……お嬢様。先ほどから、肩が小刻みに震えておいでですが」


王都の石畳を駆ける馬車の中。


向かいに座る老執事のセバスチャンが、心配そうに私に声をかけた。


彼は私が幼い頃から仕えている、ロマンスグレーの似合う優秀な執事だ。


その彼が、眉を八の字にして、ハンカチを差し出してくる。


「やはり、お辛いのですね。無理もございません。長年尽くした殿下に、あのような衆人環視の中で婚約破棄を言い渡されるなど……」


「ふ、ふふ……」


「お嬢様、どうぞ思い切りお泣きください。この防音仕様の馬車の中であれば、誰に聞かれることもございません」


セバスチャンの優しい言葉に、私は顔を上げた。


そして、こらえきれずに叫んだ。


「ふふふ……フリーダム!!」


「は?」


セバスチャンが鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。


私は差し出されたハンカチで、笑いすぎて滲んだ涙を拭った。


「ああ、おかしい! 見てセバスチャン、私の顔! シワが減っていると思わない!?」


「はあ……確かにお嬢様のトレードマークである眉間の渓谷が、現在は平地になっておられますが」


「でしょう! 解放感よ! 今の私は、鎖を解かれた猛獣……いいえ、檻から出た小鳥のように軽やかだわ!」


私は馬車のクッションに背を預け、足を組んだ。


行儀が悪い? 知ったことか。私はもう、次期王妃ではないのだ。


セバスチャンは呆気にとられつつも、すぐに冷静な執事の仮面を被り直した。


「……つまり、お嬢様は悲しんでおられないと?」


「悲しむ? 私が? あの『歩く災害』と『お花畑王子』の介護から解放されたのよ? 祝杯をあげたいくらいだわ」


「歩く災害、でございますか」


「ええ。ミミ様のことよ」


私は窓の外、遠ざかる王城を忌々しく睨みつけた。


世間では、ミミ男爵令嬢は「純真無垢な愛され少女」として認知されているらしい。


だが、被害担当の私からすれば、彼女は「無自覚な破壊神」以外の何物でもなかった。


「セバスチャン、先月、王宮の温室が半壊したボヤ騒ぎを覚えているかしら」


「はい。確か、原因不明の失火と聞いておりますが」


「あれ、ミミ様よ」


「なんと」


「彼女、『寒そうにしているお花さんが可哀想』とか言って、枯れ草を集めて温室の中で焚き火を始めたの」


「……正気でございますか?」


「ええ。私はたまたま通りかかって、慌てて消火活動を行ったわ。そして彼女に『室内で火を焚くな、常識を知れ』と説教をしたの」


そこまでは、人として当たり前の行動だったはずだ。


しかし、そこにあのギルバート王子が現れた。


私は王子の台詞を、声色を真似て再現してみせた。


「『シューク! 貴様、またミミをいじめているのか! 彼女は花の精霊と心を通わせようとしていただけだぞ! その優しさを踏みにじるなんて、なんて冷酷な女だ!』……ですって」


「……頭痛がしてまいりました」


セバスチャンがこめかみを押さえる。


「でしょう? ボヤ騒ぎの後始末と、全焼を防いだ功績は無視されて、私は『花の精霊の声が聞こえない心の貧しい女』認定よ」


「それはまた、斬新な解釈ですな」


「それだけじゃないわ。二週間前の『国宝の壺・粉砕事件』もそうよ」


「あれは、猫がぶつかったと伺っておりますが」


「いいえ、ミミ様よ。廊下で『あ、猫ちゃん待って~☆』と追いかけっこをして、自分の足でもつれて壺にダイビングヘッドしたの」


「……ご無事で?」


「ミミ様は無傷よ。壺は粉々だったけれど。私は破片で怪我をしないように彼女を引き剥がして、散らばった国宝の残骸を回収したわ」


そこに、またしても王子が現れたのだ。


「『シューク! 貴様、ミミを突き飛ばしたな! か弱い彼女になんてことをするんだ! 国宝よりも彼女の笑顔の方が大事だろう!』……ですって」


「殿下の眼球には、特殊なフィルターでも装着されているのでしょうか」


「おそらくね。高性能な『ヒロイン補正フィルター』が」


私はやれやれと肩をすくめた。


ギルバート王子が挙げた「いじめ」の数々は、すべてこういった「事故の防止」や「事後処理」を、悪意ある解釈でねじ曲げられたものだ。


私が厳しく注意すれば「怒鳴った」。


私が危険から遠ざけようと腕を引けば「突き飛ばした」。


私が予算の無駄遣いを止めれば「嫉妬した」。


「まともな神経をしていたら、胃に穴が空く生活だったわ。……いえ、実際もう空いているかもしれないけれど」


「お嬢様、胃薬をお出ししましょうか」


「いいえ、結構よ。これからはストレスフリーな生活が待っているのだから、自然治癒するわ」


馬車が屋敷の敷地内に入ったようだ。


砂利を踏む音が変わり、減速していく。


「さて、セバスチャン。帰ったら大至急、仕事に取り掛かるわよ」


「お休みなさらないので?」


「寝るわよ。泥のように寝るわ。でもその前に、一つだけやっておかなければならないことがあるの」


私は懐から、手帳を取り出した。


そこには、この数年間で私が立て替えた経費、私費で補填した賠償金、そして王子の公務を代行した時間が、分単位で記録されている。


通称『デスノート』。またの名を『未払い請求台帳』。


「殿下は『手切れ金などくれてやる』とおっしゃっていたけれど、彼に相場が分かるとは思えないわ」


ギルバート王子は、金貨一枚で何が買えるかさえ知らない温室育ちだ。


「ですので、こちらから『適切な価格』を提示して差し上げないと」


「……お嬢様。その顔、先ほどまでの『悪役令嬢』の顔に戻っておられますぞ」


「あら、失礼」


私は頬をパンパンと叩いて、営業用スマイルを作った。


「これは『正当な権利の主張』よ。労働の対価は支払われるべき。常識でしょう?」


「左様でございますな。……して、総額はおいくらほどに?」


私はざっと計算し、指を三本立てた。


「国家予算の三年分くらいかしら」


「……国が傾きますな」


「知ったことではありません。払えなければ、現物支給でも結構ですもの」


馬車が完全に停止した。


扉が開かれ、私は軽やかに地面に降り立つ。


屋敷の玄関前には、父である公爵と、母である公爵夫人が、この世の終わりのような顔で立ち尽くしていた。


おそらく、早馬で「婚約破棄」の報せが届いたのだろう。


「シュ、シューク……! なんということだ……!」


父がふらふらと歩み寄ってくる。


「殿下に疎まれ、婚約破棄されるなど……! 我が家の恥、いや、この先どうやって生きていけば……!」


嘆く両親を見て、私は満面の笑みで告げた。


「お父様、お母様! 赤飯を炊いてくださいまし!」


「は?」


「娘は本日をもって、ブラック労働から解放されました! さあ、今夜は宴ですわよ!」


呆然とする両親を置き去りにして、私は屋敷の中へと足を踏み入れる。


目指すは自室の執務机。


最高に楽しい「請求書作成」の時間が、始まろうとしていた。
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