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「……おい、なんだこれは」
王城の執務室。
ギルバート王子は、目の前にそびえ立つ「白い壁」を見上げていた。
よく見れば、それは壁ではない。
書類の山だ。
机の上はおろか、床、ソファ、果ては窓際に至るまで、未決裁の書類が雪崩のように積まれている。
「どうなっているんだ! 昨日はこんなになかったはずだぞ!」
ギルバートが叫ぶと、目の下に濃い隈を作った文官が、死んだ魚のような目で答えた。
「……殿下。それは『午前中』に届いた分です」
「午前中だけでこれだと!? 馬鹿な! 今までこんな量は見たことがないぞ!」
「はい。これまでは、シューク様が毎朝六時に登城し、殿下が起きる前に八割方を片付けておられましたので」
「な……」
ギルバートは絶句した。
シュークといえば、いつも自分の横で涼しい顔をして紅茶を飲んでいた印象しかない。
「あ、あの女、サボって紅茶ばかり飲んでいたわけじゃなかったのか……?」
「紅茶を飲んでいたのは、三時間ぶっ通しで決裁を終えた後の、わずか五分の休憩時間です。殿下はそのタイミングで起きてこられただけです」
文官の言葉に棘がある気がするが、ギルバートは気にしないことにした。
「ええい、知るか! たかが紙切れの処理だろう! 僕にもできる!」
ギルバートは一番上の書類を手に取った。
『東部街道整備計画における予算修正案、および地下水脈への影響に関する土木局からの提言』
「……日本語か? これ」
タイトルだけで頭が痛くなった。
中身を見ると、さらに難解な専門用語と数字の羅列が続いている。
「読めん! なんだこの暗号は!」
「殿下、それは基礎的な土木用語です。シューク様は土木局の局長とも対等に議論されていましたが」
「うるさい! 僕は王子だぞ! 土いじりのことなど知るか!」
ギルバートは書類を放り投げた。
「次だ、次!」
次に手に取ったのは、隣国からの親書だった。
「ふむ、これは挨拶状だな。返事を書けばいいんだな」
「はい。ですが、相手国の文化や宗教的タブーを考慮し、適切な敬称と時候の挨拶を選ぶ必要があります。マニュアルは三百ページありますが」
「三百ページ!? 読むかそんなもの! 『元気? こっちは元気だよ』でいいだろう!」
「戦争になります」
文官が真顔で即答した。
ギルバートは頭を抱えた。
「あーっ! もう! 面倒くさい! なぜ僕がこんな地味な作業をしなければならないんだ!」
「それが王族の義務だからです」
正論が痛い。
その時、執務室のドアが勢いよく開いた。
「ギル様ぁ~!」
入ってきたのは、ピンク色のフリル全開のドレスを着たミミ男爵令嬢だ。
彼女はお花畑のような笑顔で、書類の山をかき分けて入ってくる。
「もう、いつまでお仕事してるんですかぁ? ミミ、退屈で死んじゃいそうですぅ」
「おお、ミミ!」
ギルバートの顔がぱあっと明るくなった。
「すまないね。君との愛を育む時間を優先したいのは山々なんだが、この悪魔のような紙屑どもが邪魔をしていてね」
「えーっ、こんな紙切れ、ミミがやっつけてあげますっ!」
ミミは無邪気に笑うと、書類の山にドサッと座り込んだ。
「ミミもお手伝いします! ギル様のためなら、なんだってできますもん!」
「ああ、なんて健気なんだ……! シュークとは大違いだ!」
ギルバートは感動に打ち震えた。
しかし、その感動は十秒で悲鳴に変わることになる。
「えっとぉ、これ邪魔ですねぇ。ポイッ☆」
ミミは『最優先・極秘』と書かれた赤い封筒を、丸めてゴミ箱にダンクシュートした。
「ああっ!? それはスパイからの暗号文書……!」
文官が叫ぶ間もなく、ミミは次々と書類を手に取る。
「わあ、裏が白いですぅ! お絵描きしよーっと!」
彼女は羽ペンを取り出し、重要法案の裏に『ギル様とミミのあいのすがた』という落書きを始めた。
しかも、インク壺を肘で倒すというオマケ付きだ。
ドバッ。
黒い液体が、机上の書類を侵食していく。
「きゃっ! 真っ黒になっちゃいましたぁ! てへぺろ☆」
「ミ、ミミ……?」
「でもぉ、黒い方がカッコイイですよね? ギル様もそう思いますよね?」
上目遣いで見つめられ、ギルバートは引きつった笑みを浮かべた。
「あ、ああ……そうだね。斬新なアートだね……」
「ですよねぇ! あ、この紙、よく燃えそう!」
ミミは暖炉のそばにあった書類の束――『来年度国家予算案』――を掴み、火にくべようとした。
「やめろぉぉぉッ!!」
文官が決死のダイビングで阻止した。
「それは……それだけは……ッ!! 財務局員が三ヶ月寝ずに作った血と汗の結晶なんです……ッ!!」
「えー? おじさん、怖いですぅ。ギル様、この人がいじめるぅ」
ミミが嘘泣きを始める。
ギルバートは文官を睨みつけた。
「おい! ミミになんて口を利くんだ! 予算案なんてまた作ればいいだろう!」
その瞬間。
プツン。
文官の中で、何かが切れる音がした。
彼はゆっくりと立ち上がり、胸元のバッジをむしり取った。
「……辞めます」
「は?」
「やってられるかあァァァッ!!」
文官は絶叫した。
「シューク様がいなくなってから、残業続きで家に帰れず、妻には逃げられ、髪は抜け、胃はボロボロだ! その上、こんなバカ王子と破壊神の世話なんてできるか! 俺は田舎に帰らせてもらう!」
彼は辞表(今書いたメモ)を机に叩きつけると、嵐のように去っていった。
バタンッ!!
静まり返る執務室。
残されたのは、インクまみれの書類と、落書きされた法案と、呆然とする王子と、ニコニコしているミミだけ。
「……行っちゃいましたねぇ」
「あ、ああ……無礼な奴だ。代わりなどいくらでもいる」
ギルバートは震える声で強がった。
だが、現実は非情だ。
その日の午後、城内の文官の半数が「一身上の都合」で辞職を申し出た。
残った者たちも、死んだような目で虚空を見つめている。
「くそっ……! なぜだ! なぜ誰も働かない!」
ギルバートは頭をかきむしった。
そして、都合の良い結論に達する。
「そうだ、これはシュークの嫌がらせだ! あいつが何か呪いをかけていったに違いない!」
「そうですぅ! きっとお姉様が、悪魔と契約してギル様を困らせてるんですぅ!」
「おのれシューク……! 僕を困らせて、泣きついてくるのを待っているんだな? そうはいかないぞ!」
ギルバートは拳を握りしめた。
「意地でも呼び戻すものか! ……だ、誰か! 誰かこの書類を読んでくれ! あとトイレの場所がわからん!」
城の崩壊は、まだ始まったばかりである。
王城の執務室。
ギルバート王子は、目の前にそびえ立つ「白い壁」を見上げていた。
よく見れば、それは壁ではない。
書類の山だ。
机の上はおろか、床、ソファ、果ては窓際に至るまで、未決裁の書類が雪崩のように積まれている。
「どうなっているんだ! 昨日はこんなになかったはずだぞ!」
ギルバートが叫ぶと、目の下に濃い隈を作った文官が、死んだ魚のような目で答えた。
「……殿下。それは『午前中』に届いた分です」
「午前中だけでこれだと!? 馬鹿な! 今までこんな量は見たことがないぞ!」
「はい。これまでは、シューク様が毎朝六時に登城し、殿下が起きる前に八割方を片付けておられましたので」
「な……」
ギルバートは絶句した。
シュークといえば、いつも自分の横で涼しい顔をして紅茶を飲んでいた印象しかない。
「あ、あの女、サボって紅茶ばかり飲んでいたわけじゃなかったのか……?」
「紅茶を飲んでいたのは、三時間ぶっ通しで決裁を終えた後の、わずか五分の休憩時間です。殿下はそのタイミングで起きてこられただけです」
文官の言葉に棘がある気がするが、ギルバートは気にしないことにした。
「ええい、知るか! たかが紙切れの処理だろう! 僕にもできる!」
ギルバートは一番上の書類を手に取った。
『東部街道整備計画における予算修正案、および地下水脈への影響に関する土木局からの提言』
「……日本語か? これ」
タイトルだけで頭が痛くなった。
中身を見ると、さらに難解な専門用語と数字の羅列が続いている。
「読めん! なんだこの暗号は!」
「殿下、それは基礎的な土木用語です。シューク様は土木局の局長とも対等に議論されていましたが」
「うるさい! 僕は王子だぞ! 土いじりのことなど知るか!」
ギルバートは書類を放り投げた。
「次だ、次!」
次に手に取ったのは、隣国からの親書だった。
「ふむ、これは挨拶状だな。返事を書けばいいんだな」
「はい。ですが、相手国の文化や宗教的タブーを考慮し、適切な敬称と時候の挨拶を選ぶ必要があります。マニュアルは三百ページありますが」
「三百ページ!? 読むかそんなもの! 『元気? こっちは元気だよ』でいいだろう!」
「戦争になります」
文官が真顔で即答した。
ギルバートは頭を抱えた。
「あーっ! もう! 面倒くさい! なぜ僕がこんな地味な作業をしなければならないんだ!」
「それが王族の義務だからです」
正論が痛い。
その時、執務室のドアが勢いよく開いた。
「ギル様ぁ~!」
入ってきたのは、ピンク色のフリル全開のドレスを着たミミ男爵令嬢だ。
彼女はお花畑のような笑顔で、書類の山をかき分けて入ってくる。
「もう、いつまでお仕事してるんですかぁ? ミミ、退屈で死んじゃいそうですぅ」
「おお、ミミ!」
ギルバートの顔がぱあっと明るくなった。
「すまないね。君との愛を育む時間を優先したいのは山々なんだが、この悪魔のような紙屑どもが邪魔をしていてね」
「えーっ、こんな紙切れ、ミミがやっつけてあげますっ!」
ミミは無邪気に笑うと、書類の山にドサッと座り込んだ。
「ミミもお手伝いします! ギル様のためなら、なんだってできますもん!」
「ああ、なんて健気なんだ……! シュークとは大違いだ!」
ギルバートは感動に打ち震えた。
しかし、その感動は十秒で悲鳴に変わることになる。
「えっとぉ、これ邪魔ですねぇ。ポイッ☆」
ミミは『最優先・極秘』と書かれた赤い封筒を、丸めてゴミ箱にダンクシュートした。
「ああっ!? それはスパイからの暗号文書……!」
文官が叫ぶ間もなく、ミミは次々と書類を手に取る。
「わあ、裏が白いですぅ! お絵描きしよーっと!」
彼女は羽ペンを取り出し、重要法案の裏に『ギル様とミミのあいのすがた』という落書きを始めた。
しかも、インク壺を肘で倒すというオマケ付きだ。
ドバッ。
黒い液体が、机上の書類を侵食していく。
「きゃっ! 真っ黒になっちゃいましたぁ! てへぺろ☆」
「ミ、ミミ……?」
「でもぉ、黒い方がカッコイイですよね? ギル様もそう思いますよね?」
上目遣いで見つめられ、ギルバートは引きつった笑みを浮かべた。
「あ、ああ……そうだね。斬新なアートだね……」
「ですよねぇ! あ、この紙、よく燃えそう!」
ミミは暖炉のそばにあった書類の束――『来年度国家予算案』――を掴み、火にくべようとした。
「やめろぉぉぉッ!!」
文官が決死のダイビングで阻止した。
「それは……それだけは……ッ!! 財務局員が三ヶ月寝ずに作った血と汗の結晶なんです……ッ!!」
「えー? おじさん、怖いですぅ。ギル様、この人がいじめるぅ」
ミミが嘘泣きを始める。
ギルバートは文官を睨みつけた。
「おい! ミミになんて口を利くんだ! 予算案なんてまた作ればいいだろう!」
その瞬間。
プツン。
文官の中で、何かが切れる音がした。
彼はゆっくりと立ち上がり、胸元のバッジをむしり取った。
「……辞めます」
「は?」
「やってられるかあァァァッ!!」
文官は絶叫した。
「シューク様がいなくなってから、残業続きで家に帰れず、妻には逃げられ、髪は抜け、胃はボロボロだ! その上、こんなバカ王子と破壊神の世話なんてできるか! 俺は田舎に帰らせてもらう!」
彼は辞表(今書いたメモ)を机に叩きつけると、嵐のように去っていった。
バタンッ!!
静まり返る執務室。
残されたのは、インクまみれの書類と、落書きされた法案と、呆然とする王子と、ニコニコしているミミだけ。
「……行っちゃいましたねぇ」
「あ、ああ……無礼な奴だ。代わりなどいくらでもいる」
ギルバートは震える声で強がった。
だが、現実は非情だ。
その日の午後、城内の文官の半数が「一身上の都合」で辞職を申し出た。
残った者たちも、死んだような目で虚空を見つめている。
「くそっ……! なぜだ! なぜ誰も働かない!」
ギルバートは頭をかきむしった。
そして、都合の良い結論に達する。
「そうだ、これはシュークの嫌がらせだ! あいつが何か呪いをかけていったに違いない!」
「そうですぅ! きっとお姉様が、悪魔と契約してギル様を困らせてるんですぅ!」
「おのれシューク……! 僕を困らせて、泣きついてくるのを待っているんだな? そうはいかないぞ!」
ギルバートは拳を握りしめた。
「意地でも呼び戻すものか! ……だ、誰か! 誰かこの書類を読んでくれ! あとトイレの場所がわからん!」
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