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「セバスチャン、準備は?」
「万端でございます。お嬢様ご指定の茶葉百種類、最高級ティーセット三組、携帯用湯沸かし魔道具、および着替え少々。全て馬車に積み込みました」
「着替えが『少々』なのが素晴らしいわ。服なんて現地調達でいいものね。大事なのはお茶よ、お茶」
深夜、ペコー公爵家の裏門。
月明かりの下、闇に紛れるように塗装された漆黒の馬車が一台、ひっそりと佇んでいた。
父との感動(?)の対面からきっちり三時間後。
私は宣言通り、夜逃げ同然のスピードで旅立ちの準備を整えていた。
「しかしお嬢様、本当に今夜発つのですか? 旦那様が泣きながら枕を濡らしておられましたが」
「明日になれば、お父様は必ず心変わりするわ。『やっぱり寂しい』とか言って、国境を封鎖しかねない。逃げるなら今しかないのよ」
私はトラベルコートの襟を立て、周囲を警戒しながら馬車に乗り込んだ。
夜風が冷たいが、それすらも自由の味に感じる。
「御者、出してちょうだい。目指すは東の国境、紅茶の聖地『アッサムリア』よ!」
「へい、お嬢様!」
御者が鞭を振るい、馬車が滑るように動き出す。
石畳を駆ける蹄の音は、布を巻いて消音対策済みだ。完璧な隠密行動である。
王都の街並みが背後へと流れていく。
さようなら、私の黒歴史。
さようなら、書類の山と赤字財政。
これからは、私の、私による、私のための優雅なティーライフが始まるのだ!
「……ふふ、ふふふ」
「お嬢様、笑い声が漏れております。悪役のようなお顔になっていますよ」
「失礼ね。希望に満ち溢れた乙女の笑顔と言ってちょうだい」
馬車は順調に王都を抜け、郊外の森へと続く一本道に入った。
ここを抜ければ、隣領へと続く街道に出る。
そこまで行けば、父の追っ手(という名の過保護部隊)も簡単には手出しできまい。
そう、勝利は目前――。
ガタンッ!!
「きゃっ!?」
唐突に馬車が大きく揺れ、急停止した。
私は座席から滑り落ちそうになり、慌てて手すりにしがみつく。
「な、何事!? 敵襲!?」
「い、いえ……! お嬢様、道に……道に何かが!」
御者の焦った声が聞こえる。
私はセバスチャンと顔を見合わせた。
「まさか、お父様の刺客?」
「いえ、旦那様ならばもっと派手に、軍楽隊を引き連れて現れるはずです」
「それもそうね。……確認しましょう」
私は護身用のハリセン(鉄板入り)を懐に忍ばせ、馬車の扉を少しだけ開けた。
外は深い森の中。
馬車のランプが、前方の道を頼りなく照らしている。
そこには、巨大な「何か」が転がっていた。
「……セバスチャン、あれは何?」
「……見たところ、人、のようですな」
道の中央に、大の字になって倒れている人影。
黒いローブを纏っており、ピクリとも動かない。
「死体?」
「かもしれません。あるいは、死体になりかけの人か」
「どっちにしろ迷惑ね。轢いていくわけにはいかないし」
私はため息をつき、馬車から降りた。
靴底が土を踏む。
近づいてみると、それは背の高い男だった。
顔は地面に伏せているため見えないが、着ている服は上質な生地だ。どこかの貴族か、高位の魔法使いだろうか。
「もしもし? そこで寝ていられると通行の妨げになりますのよ。野宿なら森の中でなさって?」
私が声をかけても、反応はない。
「……死んでますか?」
セバスチャンが背後から尋ねる。
私はしゃがみ込み、男の肩をハリセンの先でツンツンと突っついた。
「反応なし。呼吸は……あ、微かにあるわ。生きてるみたい」
「ほう、それは運が良い。しかし、放置すれば朝までには冷たくなるでしょうな」
「そうね。……じゃあ、端に寄せておきましょうか」
私は立ち上がり、パンパンと手を払った。
「え?」
セバスチャンと御者が同時に声を上げる。
「え、じゃないわよ。見ず知らずの行き倒れを拾う義理はないわ。それに、関わったら絶対に面倒なことになるタイプよ、これ」
私の勘が告げている。
この男からは「トラブル」の匂いがプンプンするのだ。
深夜の森、行き倒れ、身なりの良い男。
これはいわゆる『乙女ゲーム的フラグ』というやつではないか?
冗談じゃない。
私はたった今、乙女ゲーム(的な婚約破棄イベント)から脱出したばかりなのだ。
二度と同じ轍は踏まない。
「御者、セバスチャン。手伝って。この人を道の端の草むらに移動させるわよ。ついでに保温用の毛布くらいはかけてあげましょう。それが私の精一杯の慈悲よ」
「お、お嬢様……さすがにそれは……」
セバスチャンが困惑顔で男を見下ろす。
その時だった。
「……み、ず……」
男の口から、掠れた声が漏れた。
「あら、意識がおありで?」
「……みず……ちゃ……」
「茶?」
その単語に、私の耳がピクリと反応する。
今、この男は確かに「茶」と言ったか?
私は再びしゃがみ込み、男の顔を覗き込んだ。
月明かりに照らされたその横顔。
泥で汚れてはいるが、整った顔立ちだ。鼻筋が通り、長い睫毛が影を落としている。
そして何より、目元にかかる銀色の髪と、ズレ落ちた眼鏡。
「……あれ? この顔、どこかで……」
記憶の糸を手繰り寄せる。
王都の夜会? いや、もっと別の場所で……。
書類? 肖像画?
「……くれ……頼む……茶を……カフェインを……」
男が私の足首をガシッと掴んだ。
見た目によらぬ、万力のような握力だ。
「痛っ! ちょっと、離しなさい!」
「……茶がないと……頭が……働かない……書類が……終わら……ない……」
うわごとのように呟くその内容に、私は戦慄した。
カフェイン切れで禁断症状が出ている?
しかも「書類が終わらない」という、社畜特有の強迫観念。
こいつ、ただの行き倒れじゃない。
こいつは――。
「同類(ワーカーホリック)ね」
私は確信した。
そして次の瞬間、私の商人魂と紅茶マニアとしての矜持が鎌首をもたげたのである。
「セバスチャン! 湯沸かしセットを準備して!」
「はっ? ここで、でございますか?」
「ええ! この人、今まさに『カフェイン欠乏症』で死にかけているわ! ここで見捨てたら、紅茶の伝道師としての名折れよ!」
「先ほどまで端に寄せようとしておられましたが……」
「うるさいわね! 時は金なり、命も金なりよ! 最高に濃い『目覚めの一杯(キック・アス・ブレンド)』を淹れてあげるわ!」
私は男の手を振りほどき、テキパキと指示を出した。
御者が焚き火を起こし、セバスチャンが水を汲む。
私はトランクから愛用のポットと茶葉を取り出した。
使用するのは、カフェイン含有量が通常の三倍という、私が夜なべ仕事用に開発した危険な茶葉『ミッドナイト・デビル』だ。
「さあ、お湯が沸いたわ。蒸らし時間は二分……よし!」
濃厚な黒褐色の液体が、カップに注がれる。
湯気と共に立ち上る、強烈な渋みと香気。
普通の人間なら匂いだけで胃もたれしそうな代物だ。
私は男の頭を抱え上げ、無理やり口を開かせた。
「さあ、お飲みなさい! 地獄の淵から戻ってきなさい!」
ドボドボドボ。
少し手荒に、しかし確実に、液体を流し込む。
「んぐっ……ごふっ……!?」
男の喉が鳴る。
そして数秒後。
カッ!!!!
男の両目が、これ以上ないほど見開かれた。
眼鏡の奥の瞳が、青く鋭い光を放つ。
「…………ッ!!!」
男はバネ仕掛けの人形のように上半身を起こした。
そして、周囲を見回し、最後に私を見て――。
「……素晴らしい」
「はい?」
「この苦み、脳髄を直接殴られるような衝撃……。私の求めていた『覚醒』だ」
男は私の手にある空のカップを奪い取り、名残惜しそうに底を見つめた。
そして、眼鏡の位置をクイッと直しながら立ち上がる。
その立ち振る舞いは、先ほどまでの行き倒れとは思えないほど優雅で、そして威圧感に満ちていた。
「礼を言う。貴女のおかげで、三日徹夜した後の思考回路がクリアになった」
「それはどうも。……で、どちら様?」
私は警戒心を露わに尋ねる。
男は私を見下ろし、薄い唇を吊り上げて微笑んだ。
「失礼。自己紹介が遅れた。私はギルバート・フォン・シュバルツ。この国の宰相を務めている者だ」
「……は?」
ギルバート。
シュバルツ。
宰相。
私の脳内で、その単語がパズルのように組み合わさる。
『氷の宰相』。
『国の真の支配者』。
『笑いながら増税を決める悪魔』。
「……あ」
私は思わず後ずさった。
私が王太子妃教育を受けていた頃、遠目でしか見たことはなかったが、確かにこんな顔だった気がする。
いや、待って。
なんでそんな国のトップが、こんな森で行き倒れているの?
「宰相閣下が、なぜこのような場所に?」
「逃げてきたんだ」
ギルバートは事もなげに言った。
「部下が無能でね。仕事が終わらないんだ。だから気分転換に散歩に出たら、いつの間にかここにいた。空腹と疲労で意識が飛んでいたようだ」
「散歩で王都から十キロも移動する人はいません」
「細かいことはいい。それより……」
ギルバートが一歩、私に近づく。
その目が、獲物を狙う鷹のように鋭く私を射抜いた。
「そのお茶だ。その素晴らしいお茶を淹れたのは貴女か?」
「え、ええ。私の特製ブレンドですが」
「気に入った。是非、王宮に来て私の専属茶師になってくれ。給金は弾む。今の倍……いや、三倍出そう」
出た。
私の最も苦手な展開だ。
「お断りします」
私は即答した。
「は?」
「私は今、旅に出るところなのです。王宮なんてブラックな職場、死んでも戻りません。それに、私は元・王太子の婚約者、ウーロン・ペコー。貴方の上司(仮)に婚約破棄されたばかりの身ですわ」
「ほう……貴女があのウーロン嬢か。噂に聞く『計算高い悪役令嬢』」
ギルバートの目が、面白がるように細められた。
「なるほど。経理の才能があり、かつ最高の茶を淹れる技術を持つ……。素晴らしい。ますます逃がすわけにはいかなくなった」
ガシッ。
再び、私の手首が掴まれた。
今度は懇願ではなく、拘束の強さで。
「待ちなさい! 離して! セバスチャン、加勢しなさい!」
「お嬢様、相手は宰相閣下です。手出しすれば国家反逆罪に……」
「この役立たず!」
「諦めたまえ、ウーロン嬢。君は今日から私の『カフェイン供給係』だ」
「誰が係よ! 私は人間よ! しかもこれから優雅な旅に出るのよ!」
「旅なら王宮の中でできる。書類という名の広大な海原へな」
「地獄じゃないの!」
深夜の森に、私の絶叫が響き渡る。
行き倒れを助けたら、懐かれるどころか捕獲されそうになる。
やはり、私の勘は正しかったのだ。
この男は、トラブルそのものだと。
「御者! 馬車を出して! この男を引きずってでも逃げるわよ!」
「ええっ!? 宰相閣下を引きずって!?」
「いいから出しなさい!」
私はギルバートの手を振りほどこうと暴れながら、馬車のステップに足をかけた。
しかし、ギルバートもまた、しつこく食らいついてくる。
「逃がさん……! その茶葉の配合を教えるまでは……!」
「執念深すぎるわよ!」
かくして、私の華麗なる旅立ちの朝は、国のナンバー2との泥仕合によって幕を開けたのであった。
前途多難なんてレベルではない。
これは、前途「絶望」だ。
(お父様……やっぱり私、家に引きこもっていた方がよかったかもしれません……!)
心の中で父に詫びながら、私はギルバートの足を踏んづけるべく、ヒールを振り上げた。
「万端でございます。お嬢様ご指定の茶葉百種類、最高級ティーセット三組、携帯用湯沸かし魔道具、および着替え少々。全て馬車に積み込みました」
「着替えが『少々』なのが素晴らしいわ。服なんて現地調達でいいものね。大事なのはお茶よ、お茶」
深夜、ペコー公爵家の裏門。
月明かりの下、闇に紛れるように塗装された漆黒の馬車が一台、ひっそりと佇んでいた。
父との感動(?)の対面からきっちり三時間後。
私は宣言通り、夜逃げ同然のスピードで旅立ちの準備を整えていた。
「しかしお嬢様、本当に今夜発つのですか? 旦那様が泣きながら枕を濡らしておられましたが」
「明日になれば、お父様は必ず心変わりするわ。『やっぱり寂しい』とか言って、国境を封鎖しかねない。逃げるなら今しかないのよ」
私はトラベルコートの襟を立て、周囲を警戒しながら馬車に乗り込んだ。
夜風が冷たいが、それすらも自由の味に感じる。
「御者、出してちょうだい。目指すは東の国境、紅茶の聖地『アッサムリア』よ!」
「へい、お嬢様!」
御者が鞭を振るい、馬車が滑るように動き出す。
石畳を駆ける蹄の音は、布を巻いて消音対策済みだ。完璧な隠密行動である。
王都の街並みが背後へと流れていく。
さようなら、私の黒歴史。
さようなら、書類の山と赤字財政。
これからは、私の、私による、私のための優雅なティーライフが始まるのだ!
「……ふふ、ふふふ」
「お嬢様、笑い声が漏れております。悪役のようなお顔になっていますよ」
「失礼ね。希望に満ち溢れた乙女の笑顔と言ってちょうだい」
馬車は順調に王都を抜け、郊外の森へと続く一本道に入った。
ここを抜ければ、隣領へと続く街道に出る。
そこまで行けば、父の追っ手(という名の過保護部隊)も簡単には手出しできまい。
そう、勝利は目前――。
ガタンッ!!
「きゃっ!?」
唐突に馬車が大きく揺れ、急停止した。
私は座席から滑り落ちそうになり、慌てて手すりにしがみつく。
「な、何事!? 敵襲!?」
「い、いえ……! お嬢様、道に……道に何かが!」
御者の焦った声が聞こえる。
私はセバスチャンと顔を見合わせた。
「まさか、お父様の刺客?」
「いえ、旦那様ならばもっと派手に、軍楽隊を引き連れて現れるはずです」
「それもそうね。……確認しましょう」
私は護身用のハリセン(鉄板入り)を懐に忍ばせ、馬車の扉を少しだけ開けた。
外は深い森の中。
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そこには、巨大な「何か」が転がっていた。
「……セバスチャン、あれは何?」
「……見たところ、人、のようですな」
道の中央に、大の字になって倒れている人影。
黒いローブを纏っており、ピクリとも動かない。
「死体?」
「かもしれません。あるいは、死体になりかけの人か」
「どっちにしろ迷惑ね。轢いていくわけにはいかないし」
私はため息をつき、馬車から降りた。
靴底が土を踏む。
近づいてみると、それは背の高い男だった。
顔は地面に伏せているため見えないが、着ている服は上質な生地だ。どこかの貴族か、高位の魔法使いだろうか。
「もしもし? そこで寝ていられると通行の妨げになりますのよ。野宿なら森の中でなさって?」
私が声をかけても、反応はない。
「……死んでますか?」
セバスチャンが背後から尋ねる。
私はしゃがみ込み、男の肩をハリセンの先でツンツンと突っついた。
「反応なし。呼吸は……あ、微かにあるわ。生きてるみたい」
「ほう、それは運が良い。しかし、放置すれば朝までには冷たくなるでしょうな」
「そうね。……じゃあ、端に寄せておきましょうか」
私は立ち上がり、パンパンと手を払った。
「え?」
セバスチャンと御者が同時に声を上げる。
「え、じゃないわよ。見ず知らずの行き倒れを拾う義理はないわ。それに、関わったら絶対に面倒なことになるタイプよ、これ」
私の勘が告げている。
この男からは「トラブル」の匂いがプンプンするのだ。
深夜の森、行き倒れ、身なりの良い男。
これはいわゆる『乙女ゲーム的フラグ』というやつではないか?
冗談じゃない。
私はたった今、乙女ゲーム(的な婚約破棄イベント)から脱出したばかりなのだ。
二度と同じ轍は踏まない。
「御者、セバスチャン。手伝って。この人を道の端の草むらに移動させるわよ。ついでに保温用の毛布くらいはかけてあげましょう。それが私の精一杯の慈悲よ」
「お、お嬢様……さすがにそれは……」
セバスチャンが困惑顔で男を見下ろす。
その時だった。
「……み、ず……」
男の口から、掠れた声が漏れた。
「あら、意識がおありで?」
「……みず……ちゃ……」
「茶?」
その単語に、私の耳がピクリと反応する。
今、この男は確かに「茶」と言ったか?
私は再びしゃがみ込み、男の顔を覗き込んだ。
月明かりに照らされたその横顔。
泥で汚れてはいるが、整った顔立ちだ。鼻筋が通り、長い睫毛が影を落としている。
そして何より、目元にかかる銀色の髪と、ズレ落ちた眼鏡。
「……あれ? この顔、どこかで……」
記憶の糸を手繰り寄せる。
王都の夜会? いや、もっと別の場所で……。
書類? 肖像画?
「……くれ……頼む……茶を……カフェインを……」
男が私の足首をガシッと掴んだ。
見た目によらぬ、万力のような握力だ。
「痛っ! ちょっと、離しなさい!」
「……茶がないと……頭が……働かない……書類が……終わら……ない……」
うわごとのように呟くその内容に、私は戦慄した。
カフェイン切れで禁断症状が出ている?
しかも「書類が終わらない」という、社畜特有の強迫観念。
こいつ、ただの行き倒れじゃない。
こいつは――。
「同類(ワーカーホリック)ね」
私は確信した。
そして次の瞬間、私の商人魂と紅茶マニアとしての矜持が鎌首をもたげたのである。
「セバスチャン! 湯沸かしセットを準備して!」
「はっ? ここで、でございますか?」
「ええ! この人、今まさに『カフェイン欠乏症』で死にかけているわ! ここで見捨てたら、紅茶の伝道師としての名折れよ!」
「先ほどまで端に寄せようとしておられましたが……」
「うるさいわね! 時は金なり、命も金なりよ! 最高に濃い『目覚めの一杯(キック・アス・ブレンド)』を淹れてあげるわ!」
私は男の手を振りほどき、テキパキと指示を出した。
御者が焚き火を起こし、セバスチャンが水を汲む。
私はトランクから愛用のポットと茶葉を取り出した。
使用するのは、カフェイン含有量が通常の三倍という、私が夜なべ仕事用に開発した危険な茶葉『ミッドナイト・デビル』だ。
「さあ、お湯が沸いたわ。蒸らし時間は二分……よし!」
濃厚な黒褐色の液体が、カップに注がれる。
湯気と共に立ち上る、強烈な渋みと香気。
普通の人間なら匂いだけで胃もたれしそうな代物だ。
私は男の頭を抱え上げ、無理やり口を開かせた。
「さあ、お飲みなさい! 地獄の淵から戻ってきなさい!」
ドボドボドボ。
少し手荒に、しかし確実に、液体を流し込む。
「んぐっ……ごふっ……!?」
男の喉が鳴る。
そして数秒後。
カッ!!!!
男の両目が、これ以上ないほど見開かれた。
眼鏡の奥の瞳が、青く鋭い光を放つ。
「…………ッ!!!」
男はバネ仕掛けの人形のように上半身を起こした。
そして、周囲を見回し、最後に私を見て――。
「……素晴らしい」
「はい?」
「この苦み、脳髄を直接殴られるような衝撃……。私の求めていた『覚醒』だ」
男は私の手にある空のカップを奪い取り、名残惜しそうに底を見つめた。
そして、眼鏡の位置をクイッと直しながら立ち上がる。
その立ち振る舞いは、先ほどまでの行き倒れとは思えないほど優雅で、そして威圧感に満ちていた。
「礼を言う。貴女のおかげで、三日徹夜した後の思考回路がクリアになった」
「それはどうも。……で、どちら様?」
私は警戒心を露わに尋ねる。
男は私を見下ろし、薄い唇を吊り上げて微笑んだ。
「失礼。自己紹介が遅れた。私はギルバート・フォン・シュバルツ。この国の宰相を務めている者だ」
「……は?」
ギルバート。
シュバルツ。
宰相。
私の脳内で、その単語がパズルのように組み合わさる。
『氷の宰相』。
『国の真の支配者』。
『笑いながら増税を決める悪魔』。
「……あ」
私は思わず後ずさった。
私が王太子妃教育を受けていた頃、遠目でしか見たことはなかったが、確かにこんな顔だった気がする。
いや、待って。
なんでそんな国のトップが、こんな森で行き倒れているの?
「宰相閣下が、なぜこのような場所に?」
「逃げてきたんだ」
ギルバートは事もなげに言った。
「部下が無能でね。仕事が終わらないんだ。だから気分転換に散歩に出たら、いつの間にかここにいた。空腹と疲労で意識が飛んでいたようだ」
「散歩で王都から十キロも移動する人はいません」
「細かいことはいい。それより……」
ギルバートが一歩、私に近づく。
その目が、獲物を狙う鷹のように鋭く私を射抜いた。
「そのお茶だ。その素晴らしいお茶を淹れたのは貴女か?」
「え、ええ。私の特製ブレンドですが」
「気に入った。是非、王宮に来て私の専属茶師になってくれ。給金は弾む。今の倍……いや、三倍出そう」
出た。
私の最も苦手な展開だ。
「お断りします」
私は即答した。
「は?」
「私は今、旅に出るところなのです。王宮なんてブラックな職場、死んでも戻りません。それに、私は元・王太子の婚約者、ウーロン・ペコー。貴方の上司(仮)に婚約破棄されたばかりの身ですわ」
「ほう……貴女があのウーロン嬢か。噂に聞く『計算高い悪役令嬢』」
ギルバートの目が、面白がるように細められた。
「なるほど。経理の才能があり、かつ最高の茶を淹れる技術を持つ……。素晴らしい。ますます逃がすわけにはいかなくなった」
ガシッ。
再び、私の手首が掴まれた。
今度は懇願ではなく、拘束の強さで。
「待ちなさい! 離して! セバスチャン、加勢しなさい!」
「お嬢様、相手は宰相閣下です。手出しすれば国家反逆罪に……」
「この役立たず!」
「諦めたまえ、ウーロン嬢。君は今日から私の『カフェイン供給係』だ」
「誰が係よ! 私は人間よ! しかもこれから優雅な旅に出るのよ!」
「旅なら王宮の中でできる。書類という名の広大な海原へな」
「地獄じゃないの!」
深夜の森に、私の絶叫が響き渡る。
行き倒れを助けたら、懐かれるどころか捕獲されそうになる。
やはり、私の勘は正しかったのだ。
この男は、トラブルそのものだと。
「御者! 馬車を出して! この男を引きずってでも逃げるわよ!」
「ええっ!? 宰相閣下を引きずって!?」
「いいから出しなさい!」
私はギルバートの手を振りほどこうと暴れながら、馬車のステップに足をかけた。
しかし、ギルバートもまた、しつこく食らいついてくる。
「逃がさん……! その茶葉の配合を教えるまでは……!」
「執念深すぎるわよ!」
かくして、私の華麗なる旅立ちの朝は、国のナンバー2との泥仕合によって幕を開けたのであった。
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これは、前途「絶望」だ。
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