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「危ないな」
私の渾身のヒール踏みつけ攻撃は、ギルバート宰相の右手によって軽々と受け止められた。
細身に見えて、鉄のような硬さだ。
「レディが足癖の悪いことだ」
「離してくださる? これは私の足です。貴方の所有物ではありません」
「君の足が欲しいわけではない。君の『脳』と『手』が欲しいのだ」
ギルバートは私の足首を掴んだまま、表情一つ変えずに言った。
月明かりの下、その眼鏡が冷ややかに光る。
「私の下で働け、ウーロン・ペコー。君の計算能力と茶の調合技術があれば、財務省の業務効率は三百パーセント改善する。残業時間も半減できるはずだ」
「半減してもどうせ残業するんでしょう? 嫌です、絶対にお断りです」
私は必死に足を引っ込めるが、ビクともしない。
馬車の入り口という狭い空間で、私たちは膠着状態に陥っていた。
「条件は悪くないはずだ。年俸は公爵家令嬢としての小遣いの十倍。福利厚生完備。さらに、王宮内の茶葉保管庫の鍵を君に預けよう」
「……っ!」
茶葉保管庫の鍵。
その甘美な響きに、私の一瞬の迷いが生じた。
あそこには、一般には流通しない国賓用の『シルバームーン』や『ドラゴン・ウーロン』が眠っているはず。
「お嬢様、揺らいではいけません! それは罠です!」
御者台からセバスチャンが叫ぶ。
「そうですわね、危ないところでした。……鍵を渡されても、飲む時間がなければ意味がありませんもの!」
「時間は作るものだ」
「作る時間さえないから、貴方は道端で行き倒れていたのではありませんか?」
私の正論に、ギルバートが「む」と口ごもる。
図星らしい。
「とにかく、私は自由になりたいのです。数字と書類の山から解放されて、美味しいお茶を探す旅に出る。それが私の新しい人生設計(ライフプラン)なのです!」
「国家の危機よりも、個人の趣味を優先するというのか?」
「当たり前です。私はもう、国の機関(王太子)から『不要』と烙印を押された身。今さら『やっぱり必要だ』なんて虫が良すぎますわ」
私は掴まれていない方の足で、馬車の床をドンと踏み鳴らした。
「セバスチャン! この男、どうにかして!」
「どうにかと言われましても、相手は宰相閣下……下手に手を出せばペコー家取り潰し……」
「あーもう、役立たず! なら実力行使よ!」
私は懐に手を突っ込んだ。
取り出したのは、茶色い粉末が入った小袋。
最高級の紅茶葉をミクロ単位まで粉砕し、唐辛子成分を配合した護身用アイテム『レッド・ペッパー・ティー・パウダー』だ。
「これでも食らいなさい!」
バサァッ!!
私は小袋の中身を、容赦なくギルバートの顔面に向けてばら撒いた。
「なっ……!?」
さすがの宰相閣下も、粉末攻撃は予想外だったらしい。
反射的に目を閉じ、掴んでいた手を離して顔を覆う。
「ぐっ……! これは……スパイシーな……チャイの香り……!?」
「鼻で味わってる場合ですか! 今よ、出して!!」
「へ、へいっ!!」
拘束が解けた瞬間、私は馬車の中に転がり込み、扉を叩き閉めた。
御者が鞭を振るい、馬車が急発進する。
ガタガタガタッ!!
車輪が土を蹴り、猛スピードで森の奥へと駆け抜けていく。
窓から後ろを振り返ると、赤い粉にまみれながら立ち尽くすギルバートの姿が小さくなっていった。
「はぁ、はぁ……あー、怖かった……」
私は座席にへたり込み、乱れた呼吸を整える。
「まさか、あんな化け物(ワーカーホリック)に捕まるとは……。やっぱり王都周辺は危険地帯だわ」
「お嬢様、今の粉末……あんな貴重なスパイスを護身用に使うとは、なんと勿体無い」
セバスチャンが馬車の小窓から顔を出し、残念そうに呟く。
「命より安いものよ。……それに、ただ逃げたわけじゃないわ」
「は?」
「あの粉末と一緒に、これを投げておいたのよ」
私はニヤリと笑い、手元の帳簿を指差した。
そこには、『茶葉代金請求書』の項目が一行、追加されていた。
「あの方、間違いなくあのお茶(のカフェイン)の虜になったはずよ。そして私が投げたのは『新作茶葉のサンプル引換券(有料)』。裏面には、私がこれから向かう予定の街の支店住所を書いておいたわ」
「……つまり?」
「もし彼が本当に私のお茶を求めているなら、客として金を払いに来るでしょう。そうすれば、私は『店主』として彼から対価を搾り取れる。ただの部下として扱われるより、よほど対等な関係(ビジネス)が築けるというものよ」
「逃げながらも営業活動ですか。……呆れを通り越して尊敬いたします」
「転んでもタダでは起きない。それが私の流儀よ」
馬車は暗い森を抜け、街道へと出た。
東の空が白み始めている。
長い一夜が終わろうとしていた。
◇ ◇ ◇
一方その頃、置き去りにされたギルバートは。
「くしゅんッ!!」
盛大なクシャミと共に、眼鏡についた赤い粉をハンカチで拭っていた。
目は充血し、涙が止まらない。
だが、その表情は怒りではなく、奇妙な高揚感に包まれていた。
彼は足元に落ちていた一枚の紙切れを拾い上げる。
ウーロンが粉末と共に投げ捨てたものだ。
『特製覚醒茶・サンプル引換券(※ただし代金は時価とする)』
その下には、走り書きでこう記されていた。
『私の茶が飲みたくば、客として来い。部下にはならないが、取引なら応じてやる ――ウーロン・ペコー』
「……ふ」
ギルバートの口元に、笑みが浮かぶ。
それは、難解なパズルを前にした子供のような、純粋で危険な笑みだった。
「取引、か。面白い」
彼は懐から、先ほどウーロンに飲まされた茶の残りを舐めるように味わった。
脳が冴え渡る。
思考が加速する。
この茶があれば、溜まっている十年分の未決書類も一ヶ月で片付くだろう。
「いいだろう、ウーロン・ペコー。君を財務省の官僚にするのは諦めよう」
彼は眼鏡をかけ直し、去っていった馬車の轍を見据えた。
「だが、君自身を私が独占する契約(・・・・・・)ならば、文句はあるまい?」
「閣下ー! 宰相閣下ー! どこですかー!!」
森の向こうから、捜索隊の騎士たちの声が聞こえてくる。
ギルバートは拾った引換券を胸ポケットに丁寧にしまい、踵を返した。
その背中からは、先ほどまでの疲労感は消え失せ、新たな獲物を定めた狩人のオーラが立ち上っていた。
「……まずは、この茶の成分分析からだな」
独り言は、風に乗って消えた。
逃げ出した悪役令嬢と、それを追う最強の宰相。
二人の鬼ごっこは、まだ始まったばかりである。
私の渾身のヒール踏みつけ攻撃は、ギルバート宰相の右手によって軽々と受け止められた。
細身に見えて、鉄のような硬さだ。
「レディが足癖の悪いことだ」
「離してくださる? これは私の足です。貴方の所有物ではありません」
「君の足が欲しいわけではない。君の『脳』と『手』が欲しいのだ」
ギルバートは私の足首を掴んだまま、表情一つ変えずに言った。
月明かりの下、その眼鏡が冷ややかに光る。
「私の下で働け、ウーロン・ペコー。君の計算能力と茶の調合技術があれば、財務省の業務効率は三百パーセント改善する。残業時間も半減できるはずだ」
「半減してもどうせ残業するんでしょう? 嫌です、絶対にお断りです」
私は必死に足を引っ込めるが、ビクともしない。
馬車の入り口という狭い空間で、私たちは膠着状態に陥っていた。
「条件は悪くないはずだ。年俸は公爵家令嬢としての小遣いの十倍。福利厚生完備。さらに、王宮内の茶葉保管庫の鍵を君に預けよう」
「……っ!」
茶葉保管庫の鍵。
その甘美な響きに、私の一瞬の迷いが生じた。
あそこには、一般には流通しない国賓用の『シルバームーン』や『ドラゴン・ウーロン』が眠っているはず。
「お嬢様、揺らいではいけません! それは罠です!」
御者台からセバスチャンが叫ぶ。
「そうですわね、危ないところでした。……鍵を渡されても、飲む時間がなければ意味がありませんもの!」
「時間は作るものだ」
「作る時間さえないから、貴方は道端で行き倒れていたのではありませんか?」
私の正論に、ギルバートが「む」と口ごもる。
図星らしい。
「とにかく、私は自由になりたいのです。数字と書類の山から解放されて、美味しいお茶を探す旅に出る。それが私の新しい人生設計(ライフプラン)なのです!」
「国家の危機よりも、個人の趣味を優先するというのか?」
「当たり前です。私はもう、国の機関(王太子)から『不要』と烙印を押された身。今さら『やっぱり必要だ』なんて虫が良すぎますわ」
私は掴まれていない方の足で、馬車の床をドンと踏み鳴らした。
「セバスチャン! この男、どうにかして!」
「どうにかと言われましても、相手は宰相閣下……下手に手を出せばペコー家取り潰し……」
「あーもう、役立たず! なら実力行使よ!」
私は懐に手を突っ込んだ。
取り出したのは、茶色い粉末が入った小袋。
最高級の紅茶葉をミクロ単位まで粉砕し、唐辛子成分を配合した護身用アイテム『レッド・ペッパー・ティー・パウダー』だ。
「これでも食らいなさい!」
バサァッ!!
私は小袋の中身を、容赦なくギルバートの顔面に向けてばら撒いた。
「なっ……!?」
さすがの宰相閣下も、粉末攻撃は予想外だったらしい。
反射的に目を閉じ、掴んでいた手を離して顔を覆う。
「ぐっ……! これは……スパイシーな……チャイの香り……!?」
「鼻で味わってる場合ですか! 今よ、出して!!」
「へ、へいっ!!」
拘束が解けた瞬間、私は馬車の中に転がり込み、扉を叩き閉めた。
御者が鞭を振るい、馬車が急発進する。
ガタガタガタッ!!
車輪が土を蹴り、猛スピードで森の奥へと駆け抜けていく。
窓から後ろを振り返ると、赤い粉にまみれながら立ち尽くすギルバートの姿が小さくなっていった。
「はぁ、はぁ……あー、怖かった……」
私は座席にへたり込み、乱れた呼吸を整える。
「まさか、あんな化け物(ワーカーホリック)に捕まるとは……。やっぱり王都周辺は危険地帯だわ」
「お嬢様、今の粉末……あんな貴重なスパイスを護身用に使うとは、なんと勿体無い」
セバスチャンが馬車の小窓から顔を出し、残念そうに呟く。
「命より安いものよ。……それに、ただ逃げたわけじゃないわ」
「は?」
「あの粉末と一緒に、これを投げておいたのよ」
私はニヤリと笑い、手元の帳簿を指差した。
そこには、『茶葉代金請求書』の項目が一行、追加されていた。
「あの方、間違いなくあのお茶(のカフェイン)の虜になったはずよ。そして私が投げたのは『新作茶葉のサンプル引換券(有料)』。裏面には、私がこれから向かう予定の街の支店住所を書いておいたわ」
「……つまり?」
「もし彼が本当に私のお茶を求めているなら、客として金を払いに来るでしょう。そうすれば、私は『店主』として彼から対価を搾り取れる。ただの部下として扱われるより、よほど対等な関係(ビジネス)が築けるというものよ」
「逃げながらも営業活動ですか。……呆れを通り越して尊敬いたします」
「転んでもタダでは起きない。それが私の流儀よ」
馬車は暗い森を抜け、街道へと出た。
東の空が白み始めている。
長い一夜が終わろうとしていた。
◇ ◇ ◇
一方その頃、置き去りにされたギルバートは。
「くしゅんッ!!」
盛大なクシャミと共に、眼鏡についた赤い粉をハンカチで拭っていた。
目は充血し、涙が止まらない。
だが、その表情は怒りではなく、奇妙な高揚感に包まれていた。
彼は足元に落ちていた一枚の紙切れを拾い上げる。
ウーロンが粉末と共に投げ捨てたものだ。
『特製覚醒茶・サンプル引換券(※ただし代金は時価とする)』
その下には、走り書きでこう記されていた。
『私の茶が飲みたくば、客として来い。部下にはならないが、取引なら応じてやる ――ウーロン・ペコー』
「……ふ」
ギルバートの口元に、笑みが浮かぶ。
それは、難解なパズルを前にした子供のような、純粋で危険な笑みだった。
「取引、か。面白い」
彼は懐から、先ほどウーロンに飲まされた茶の残りを舐めるように味わった。
脳が冴え渡る。
思考が加速する。
この茶があれば、溜まっている十年分の未決書類も一ヶ月で片付くだろう。
「いいだろう、ウーロン・ペコー。君を財務省の官僚にするのは諦めよう」
彼は眼鏡をかけ直し、去っていった馬車の轍を見据えた。
「だが、君自身を私が独占する契約(・・・・・・)ならば、文句はあるまい?」
「閣下ー! 宰相閣下ー! どこですかー!!」
森の向こうから、捜索隊の騎士たちの声が聞こえてくる。
ギルバートは拾った引換券を胸ポケットに丁寧にしまい、踵を返した。
その背中からは、先ほどまでの疲労感は消え失せ、新たな獲物を定めた狩人のオーラが立ち上っていた。
「……まずは、この茶の成分分析からだな」
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