侯爵家の婚約者

やまだごんた

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17.イレリアの想い

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 夏祭りの熱は、あれから3日経っても冷めなかった。
 イレリアは客の来ない薬屋で店番をしながら、カインと繋いだ右手をじっと眺めていた。
 重いものも持てる。鍬も振るえる。大きくなったと思っていたのに、カインの手はすっかりイレリアの手を包み込んだ。
 白い肌と思っていたけど、よく見るとうっすらと陽に焼けていたし、手は剣を持つからか硬くて少しごつごつしていた。
 男の手――そう。カインは男なのだ。
 当たり前のことなのに、その事実がイレリアの胸を心地よく締め上げる。
 いけない――
 イレリアは唇を軽く噛みしめた。

 エスクード侯爵家の噂話は貧民街でもイレリアの耳にも聞こえるほどに囁かれていた。
 だから、まさか自分が助けた人がエスクード侯爵家の嫡男その人とも思わなかったし、その人が毎日のように自分に会いに貧民街まで足を運んでいる事実が信じられなかった。
 初めてカインが来た日、イレリアは神の遣いが人の姿でやってきたのかと息を飲んだのを覚えている。
「あなたがイレリア嬢?」
 粗末な扉を開けて入ってきたのは、イレリアが見た事の無いほどに美しい男だった。
「挨拶に来るのが遅くなり申し訳なく思っています。私は、あなたに命を救われた騎士隊第5小隊隊長のカイン・エスクードと申します」
 空を映したような青い瞳がイレリアを見つめていた。
 
「エスクード隊長さま。前にもお伝えしましたが、謝礼は十分過ぎるほどいただきましたから」
 カインは来るたびに袋いっぱいのパンや、卵、燻製肉などの保存食を持ってきた。
 3回目のその日、イレリアはついに勇気を出して断ることにした。
「これは謝礼ではなく、私の気持ちだ」
 施しなのだろうと、イレリアは貧民街の住民である自分の立場を恥じたが、カインは当然のように置いて帰るので、受け取らざるを得ない。
 だが、そのおかげでみんなに分けてあげられるので、強く拒否できない自分もいた。
「君が言っていただろ。騎士隊が払った謝礼でみんなに食べ物を分け与えていたと。私のこれが施しなら、君の行為も施しじゃないのか?」
 カインの言葉にイレリアはハッとした。
「わ……私はそんなつもりじゃ」
「だろ?私もそんなつもりじゃない」
 屈託なく笑うカインに、イレリアは頑なだった心が解けていくのを感じた。
 自分はなんて思い上がっていたのだろう。確かに、彼の行為を施しと言ってしまうのなら、自分の行為も施しじゃないか。
 でも、そうじゃない。
 貧民街では助け合って生きているのだ。
 捨てられていたイレリアを育ててくれたのは、貧民街の人達だ。だからイレリアはその恩を返しているだけに過ぎない。
「なら私も同じだ。君に命を救われた。こう言っては何だが、私の命はあんな程度の謝礼で済むほど安くはない。だから、その恩を君に返してる。君は自分が受け取ったものをみんなに返してる。そうだろ?」
 言いくるめられている気がするが、これを否定してしまうと自分の行いをも否定してしまう気がして、イレリアは納得するしかなかった。
「申し訳ありませんでした。隊長さま。私……自分が卑しまれていると思って、隊長さまを誤解していました」
「カインと――隊長ではなくカインと呼んでくれないか?敬語もやめてほしい。ここでは僕は君と同じただのカインとイレリアでいたいんだ」
 イレリアの言葉を遮るように言ったカインの声は、さっきまでの冗談めかした朗らかなものとは違い、真剣な音色だった。
 驚いてカインの瞳を見つめたイレリアは、その瞳に寂しさを感じ取り、エスクード侯爵家の噂話を思い出した。

 有り余る魔力を持って生まれたせいで、社交界一不器量で愛想のない、しかし随一の魔力制御の能力を持つシトロン公女に、命の代償として望まぬ婚約を強いられている不幸な美しい公子。
 子煩悩で有名なエスクード侯爵も、息子の命には代えられず、この婚約を受けざるを得なかったと。
 
 公子は子供の頃からずっと、辛い思いをされてきたんだわ。
 貴族の世界は私たち庶民にはわからないのだもの。
 ここには立場を忘れたくて来てるのかも知れない。
 なら、この休暇の間だけでも公子をお慰めできれば――
 イレリアはそう思ってカインを見つめると弾けるような笑顔で言った。
「私が粗相をしたからと言って、不敬罪で処分するのはなしよ?」
 
 イレリアはよく働く娘だった。
 カインより1つ年下の16歳と聞いたが、親はなく赤ん坊の時に貧民街に捨てられていた。
 貧民街――といっても、元からそうだったわけではない。
 50年前の戦争で最も激しく攻撃を受けた場所であり、崩れた城壁と市街地が放置された場所だった。
 防衛上、城壁は修復されたが、破壊された市街地は戦争のせいで所有者が不明な土地が多く、崩れた建物が戦後そのままの姿で残されていた。いつしか、そこに家を持たない者達が住み着き、気が付いた時には国も手を付ける事ができない状態になっていた。
 イレリアは生まれて間もなく貧民街に捨てられていたところを、貧民街の住民達に助けられ、命を繋いできた。
 誰が育てるでもなかった。雨風をかろうじて凌げる程度の崩れた建物に放置されたまま、誰かが乳を含ませ、食べ物をくれ、誰かが暖めてくれて生きてきた。
 貧民街そのものがイレリアの家であり、家族だった。
 だからイレリアは、物心がついた頃から誰に言われるとはなく仕事を覚えた。
 ある日は民家を回り汚物を集め、ある日は首都の外で焚き木を集め、種まきを手伝い、収穫を手伝い、賃金を得ては腹を空かせている母子や、働くことができない老人に食べ物を分け与えた。
 10歳になった頃、貧民街にやってきた薬師の手伝いをきっかけに、薬師に弟子入りしたが、時間があれば薬草採取のついでに農作業を手伝ったり、焚き木を拾っては子供達に渡して収入の足しにさせていた。
 カインがイレリアに会いに貧民街に行くときは、まずイレリアの居場所を探さねばならないほど、イレリアは毎日忙しく働いていた。

「貧民街に出入りなさっているそうですが」
 3日に1度の務めの日。夜も更けた時間にジルダとカインはサロンで向かい合っていた。
 カインのまだ魔力が完全に戻っていない。だから、いつもは魔力の量だけを確認して黙って帰っていくジルダが、珍しく口を開いた。
「恩人がいるのでな。君も知っているだろ。あの薬師見習いの腕は素晴らしい。何とか支援して腕を磨いてほしいのだが」
「恩人――そうですね。あの解毒剤がなければカイン様はともかく、ラエル卿とカルマイ卿は今頃……」
 ジルダが言葉を詰まらせるのを、カインは珍しいと思って眺めていた。
 この10年、ジルダが感情を露わにする事は殆どなかった。――いや、婚約した当初はよく笑っていたような気もする。
「君もそのような表情をするんだな。人の命など気にも留めない人だと思っていた」
 言いようのない苛立ちがカインの口を滑らせた。言い過ぎたかもしれない。
 しかし、口から出た言葉を取り消すことはできなかった。
「生きるべき人が生きられず、生きる必要のない者が生きるのは私でも惜しいと思いますわ」
 ジルダは小さく息をすると、普段と同じ感情のない平坦な口調に戻っていた。
 傷つけただろうか。しかし、その表情からは感情を読むことはできなかった。
「その薬師見習いですが――」
 ジルダは感情のない口調で続けた。
「ご支援なさりたいと言うのであれば、初めから金銭の提示は相手の矜持を傷つける事になるかと。持てる者と持たざる者のお立場を弁えた方がよろしいと思いますよ」
「そんな事……言われずともわかっている」
 カインはばつが悪そうに言いよどんだ。
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