侯爵家の婚約者

やまだごんた

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37.春の月

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 春の月はカインが生まれた月であり、首都での社交シーズンの幕開けでもあった。
 エスクード侯爵家ではカインの成人の祝いの準備で慌ただしかった。
 この成人の儀によってカインはエスクード侯爵家の正式な後継者と名乗りをあげ、貴族社会の一員となる。
 首都の貴族達はカインの成人の祝いで、彼がだれをエスコートするのか噂していた。
 当然、婚約者のジルダだろう――いや、侯爵家が後見をしている娘の披露目にはこの日こそふさわしいのではないか――口さがない貴族たちの噂はとどまることを知らなかった。

「結局、領地には戻っていないんだって?」
 わざわざ駐屯所にやってきたロメオは、カインの顔を見るなり言った。
 相変わらず暇な男だと、カインは溜息をついたが、久しぶりに見る親友の顔に顔が綻ぶのを隠せなかった。
「蟄居の間にたまっていた仕事が多くてな。父上もご理解くださった」
 実際、エスクード侯爵はカインがあれやこれやと理由を付けて領地に戻らないことについて、何も言わなかった。
 そりゃそうだ。ご自身だって毎年冬の月は領地に引きこもってるんだ。
「けど、そろそろジルダとの結婚について決めないといけないことも多いだろ」
 ロメオの言葉はカインを素直に苛立たせた。
「ジルダと父上が進めるだろ。あの二人は時々実の息子の僕よりも親子のようだからな」
「なるほどねぇ――」
 ロメオが意味ありげに、にやりとしたがカインは無視した。
「屋敷での舞踏会の準備もある。今年は僕の成人の披露目もあるから忙しかったんだよ。――本当だ」
「確かにね。我が家でも母上が未だにドレスをどうするか悩んでらっしゃるよ。主役は僕だってのにね」
「叔母さまはお美しいんだから何を着てもお似合いだとお伝えしてやれ」
「僕と父上が何千回もお伝えしているさ」
 ロメオが肩をすくめると、二人は顔を見合わせて笑い合った。

「で――どっちをエスコートするんだ?」
 一息つくと、ロメオが尋ねた。
「君までそれか」
 執務机に戻って仕事を続けようとしたカインは、うんざりした口調でロメオをにらんだ。
「実際、貴族の間ではこの話題で持ちきりさ。うちの母上もカインがイレリア嬢を選ぶんじゃないかとほぼ確信しているくらいだ」
 ロメオの言葉にカインはわざとらしく大きな溜息をついた。
「叔母さままで――」
 カインは溜息をつきながら天を仰いだ。
 ジルダは婚約者だ。優先しなければならない。それは理解している。
 いつだって社交界へ参加する時にはジルダをエスコートしてきた。
 だが、周りの評価はどうだ。
 社交界一麗しい公子と、社交界一不器量な公女。なんと滑稽な組み合わせか――公子の弱みを握り婚約者の座にのさばる悪辣な公女――
 事実を知らない者達は好き勝手に噂をする。捨て置けばいい。
 「あながち、間違いとも言えませんし」
 ある日ジルダが呟いた事があった。
 一度だけカインが貴族たちの口さがない様子に苛立ちを見せた時だった。
 いつも通り、表情を変えることなく静かに、ただ正面を向いてカインにだけ聞こえる大きさで呟いたのを、カインは今の今まで忘れていた。
 なぜ忘れていたのだろう――いや、それよりなぜ自分はあの時貴族達に苛立ちを覚えたのだろう。
「ところで、今日僕を呼んだのは何か理由があるんだろ?――エスクード公子」
 ロメオの言葉でカインは我に返った。
 最近はよく昔の事を思い出す。なぜだろう――
 カインは軽く頭を振ると、ロメオを真剣な目で見つめた。
「君にしか頼めない事なんだが――」

 カインの成人の祝いまで10日余りしかなかった。
 ジルダの手元にはカインの瞳の色の青に染め上げられ、カインの髪を思わせる金糸で刺繡が施されたドレスが所在なさげに飾られていた。
 10日ほど前にエスクード侯爵家から送られてきたものだ。
 ジルダがいつも好む、華麗であるが質素でジルダが目立たないものとは違い、華やかで可愛らしいドレスだった。
 自分にはこのようなドレスは不釣り合いだと言うのに――贈る相手を間違えたのではないか。
 そう思い、3日に1度の魔力吸収の日に尋ねてみた。
「君は、好意を素直に受け取るという事ができないのか」
 呆れたようにカインは、大きな溜息と同時にジルダに言った。
「この先がどうなるにしろ、僕の現在の婚約者は君だ。君をエスコートする以外ないだろう」
 吐き捨てるように言ったカインの言葉に、ジルダは傷つくでもなく相変わらずの無表情で「そうですか」とだけ返した。
 その日の会話はそれだけだった。
 ジルダは思案したが、ことイレリアの話題になるとカインは激昂し、会話にならない。
 だからイレリアの名を出さないよう注意深く伝えたのだが。
 とは言え、カインの「好意」も信用することもできない。
 おそらく適当に選んだのだろう。元々ドレスには殊更興味のない人だ。
 余計な詮索はしないほうが得策だと判断した。
 次の務めの日も、ジルダはカインと会話をすることはなかった。
 ただ、ジルダの見えないところで務めが終わるのをじっと待っている、イレリアの気配だけを感じるだけだった。

 カインが体裁のために自分をエスコートすると言うのは当然のことと思われた。
 では、イレリアの披露目はどうするのだろう。
 貴族でもない女性がデビュタントを行なう事はない。
 これまでも、下級貴族が豪商の娘を嫁に迎えた事はいくつかあったが、いずれもひっそりと披露目を済ませ、いつの間にか社交界にいるといった様子だった。
 だが、侯爵家ほどの家格が後見を公言した娘となると、披露目をしないなど許されない。
 春の初めに行われる侯爵家の舞踏会こそ、イレリアの披露目を行うのには最適なのに。
 しかし、アレッツォからの報告にも、参加者のリストにもそれらしい名前は見当たらない。
 それよりも、ジルダの気がかりになっていたのは別のことだった。
 いつの頃からだろうか――ジルダの前に姿は見せないものの、どこからか送られてくる視線に変化が生じてきた。
 それはとてもゆっくりで、魔力に敏感で勘の鋭いジルダでなければ気が付かないほど小さな変化だった。
 軽蔑、侮蔑、嘲り――そう言った視線を子供の頃からいくつも送られてきたジルダでも初めて感じる感情――それが憎しみだった。
 カイン様は気付いておられるのかしら――いいえ。きっと無理ね。
 おそらくイレリア本人も自覚していないのだろう。それほどまでにささやかで、しかし明確な憎悪。
 ジルダはドレスを見つめて小さく溜息をついた。
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