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44.靄
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その日の晩に、エスクード侯爵邸に怒鳴り込んできたのはロメオその人だった。
「君は僕の従兄弟に随分な事を言ってくれたようだね――まさか君はこの僕にも立場を弁えろと言うつもりかな」
ロメオはカインを正面に座らせると、カインを睨みつけた。
カインは、ティン=クエンに持ったような感情をロメオにはまだ感じられなかった。
なぜあそこまでティン=クエンに嫌悪感を持ったのかはわからなかった。
あの感情は今は全く感じられない。
しかし、カインを睨みつけるロメオの視線に、カインは次第に不機嫌を募らせていた。
「僕も君の従兄弟のはずだが」
「ティン=クエンへの無礼はアバルト侯爵家に対する無礼でもある。彼は僕の従兄弟であり忠実な騎士だ」
カインの反論は耳に入らないとでも言いたげに、ロメオはカインの言葉を遮った。
「それは――理解している……だが」
言いようのない不快感が、カインの胸をざらりと撫でる。
違う。彼は……彼らはいつでも僕の側にいてくれた。
苛立ちに抗うような思いが沸き上がるが、それはすぐに嫌悪感に飲み込まれた。
「彼からも傍で聞いていた騎士からも詳細は聞いている。言っては何だが――君はこのところ随分職務を疎かにしているそうじゃないか。もちろん、重要な仕事はちゃんとしているとは聞いているが、それ以外は部下に丸投げだそうじゃないか」
「それの何が悪い。ほかの隊長もやっている事だ」
事実、カインは第5騎士隊の隊長だ。報告のまとめなどはこれまでも部下に任せていた。その範囲が少し増えただけじゃないか――
「任せるのと放置は違う。君がしているのは放置だ。任せた仕事の確認すらせず、ただ右から左に仕事を流しているだけで何が隊長だ」
拳でテーブルを叩きつけながらロメオは怒鳴った。
「ティン=クエンはそんな君を諌めようとしたんじゃないか。――それをあんな心無い言葉を投げつけるなんて……君は大したお貴族様だよ」
カインはその言葉にハッとなった。
確かに怒りに任せて言ったとはいえ、自分は何という事を言ってしまったのだろう。
急に頭の中の霧が晴れた気がした。
いつも貴族然としていた母が嫌いだった。自分に貴族として弁えろと言うだけで褒めてくれた事は一度もない。
ジルダもそうだ。自分に微笑みかけることもなければ、いつも口うるさく母と同じ事を言う彼女が疎ましかった。
同じくらい貴族連中も大っ嫌いだった。
表面では笑って、カインやエスクード侯爵をおだて上げるが、裏ではカインの魔力を恐れつつも、利用しようと策を講じる貴族達が信用できなかった。
だから、貴族らしさなど欠片もない、自由で明るいイレリアに惹かれたのだ。自分もそうでありたくて。
だが、この目の前の親友であり従兄弟である男は自分の事を何と言った。
「ロメオ――君の目に僕はどう映っている」
カインは自分の指先が震えているのが分かった。
何か大事なものを失った気がする。
「何を突然――正直に言うと、今の君はただの馬鹿だ。それも色ボケしたかなりの」
「容赦ないな」
ロメオの言葉にカインは苦笑を浮かべると、茶を一口飲んだ。
冷静にこれまでの事を振り返る。所々で頭の中が霞がかったようにはっきりしないが、全て覚えている。
カインの心に羞恥と後悔が一気に押し寄せてきた。
「ロメオ――僕はなんて恥知らずな人間だったんだ……」
「カイン、どうした。何を今更」
本当に今更だ。しかし、少なくとも秋の月から春の月までの半年間の自分は恥ずべき人間だったと、カインは強く唇を噛んだ。
そして、決意したような目でロメオを見つめるとロメオに問いかけた。
「ロメオ――君は今でも僕の親友か?」
イレリアは自室でカインが来るのを待っていた。
アバルト公子が急遽カインに会いにやってきたから、部屋に来るのは遅れるとヨルジュが告げに来たのは、もう二刻も前の事だ。
すっかり夜も更け、入浴も済ませたイレリアは迫りくる眠気を堪えるのに忙しかった。
「カイン様は本日は体調がすぐれず、お越しになれないとのことです」
静かに扉をノックし、女中が応対した向こうでヨルジュの声が小さく響いた。
イレリアはあの蟄居の期間以降初めて、カインが部屋に来ないことに苛立ちを覚えた。
仕事で外泊をするとき以外は、たとえ深夜になろうと部屋を訪れては、心行くまでイレリアを堪能していた。
君がいないとだめだ、なにがあっても離さないと耳元で囁いていたのはカインなのに。
「お……お坊ちゃまは体調がすぐれないとの事ですし、決してお嬢様を蔑ろにされているわけではありませんよ」
イレリアの苛立ちを察して、女中が慌てて言った。
先に休ませたアリッサの代わりに、夜は彼女がイレリアの身の回りの事をする役目だった。
いつもなら入浴が済み、アリッサと交代した頃にカインがやってきて自分は翌朝までお役目御免だというのに、今日に限ってなんてツイてないのかと女中は内心唇を噛んだ。
女中はイレリアが自分を嫌っていると感じていた。
彼女はカインが当初イレリアにつけた女中ではなく、新たに付けられたこの女中は普通の平民出身だった。
女中頭から交代を命じられたと言って寄越されたこの女は、小さな事にもよく気付き気配りも上手で、甲斐甲斐しくよく働きはするものの、「平民以下のお前ごときには平民出身の女中で十分だ」と見下されているように思えていたのだ。
いつしか、イレリアは自分が貴族と同じ扱いをされない事に、非常に苛立つようになっていた。
「カインの部屋へ行くわ。案内して頂戴」
女中に命じると、女中はイレリアの剣幕に怯えながら頭を下げた。
「申し訳ございません。旦那様よりお嬢様がお坊ちゃまの部屋へ行くことは禁止されております」
貴族は夫婦であっても女性が男性の寝所を訪れるのははしたないとされていたからなのだが、委縮した女中はそれを細かに伝えることができなかった。
その為、イレリアは侯爵が自分を邪険に扱っているという思いが増幅するのを抑えることができなかった。
「君は僕の従兄弟に随分な事を言ってくれたようだね――まさか君はこの僕にも立場を弁えろと言うつもりかな」
ロメオはカインを正面に座らせると、カインを睨みつけた。
カインは、ティン=クエンに持ったような感情をロメオにはまだ感じられなかった。
なぜあそこまでティン=クエンに嫌悪感を持ったのかはわからなかった。
あの感情は今は全く感じられない。
しかし、カインを睨みつけるロメオの視線に、カインは次第に不機嫌を募らせていた。
「僕も君の従兄弟のはずだが」
「ティン=クエンへの無礼はアバルト侯爵家に対する無礼でもある。彼は僕の従兄弟であり忠実な騎士だ」
カインの反論は耳に入らないとでも言いたげに、ロメオはカインの言葉を遮った。
「それは――理解している……だが」
言いようのない不快感が、カインの胸をざらりと撫でる。
違う。彼は……彼らはいつでも僕の側にいてくれた。
苛立ちに抗うような思いが沸き上がるが、それはすぐに嫌悪感に飲み込まれた。
「彼からも傍で聞いていた騎士からも詳細は聞いている。言っては何だが――君はこのところ随分職務を疎かにしているそうじゃないか。もちろん、重要な仕事はちゃんとしているとは聞いているが、それ以外は部下に丸投げだそうじゃないか」
「それの何が悪い。ほかの隊長もやっている事だ」
事実、カインは第5騎士隊の隊長だ。報告のまとめなどはこれまでも部下に任せていた。その範囲が少し増えただけじゃないか――
「任せるのと放置は違う。君がしているのは放置だ。任せた仕事の確認すらせず、ただ右から左に仕事を流しているだけで何が隊長だ」
拳でテーブルを叩きつけながらロメオは怒鳴った。
「ティン=クエンはそんな君を諌めようとしたんじゃないか。――それをあんな心無い言葉を投げつけるなんて……君は大したお貴族様だよ」
カインはその言葉にハッとなった。
確かに怒りに任せて言ったとはいえ、自分は何という事を言ってしまったのだろう。
急に頭の中の霧が晴れた気がした。
いつも貴族然としていた母が嫌いだった。自分に貴族として弁えろと言うだけで褒めてくれた事は一度もない。
ジルダもそうだ。自分に微笑みかけることもなければ、いつも口うるさく母と同じ事を言う彼女が疎ましかった。
同じくらい貴族連中も大っ嫌いだった。
表面では笑って、カインやエスクード侯爵をおだて上げるが、裏ではカインの魔力を恐れつつも、利用しようと策を講じる貴族達が信用できなかった。
だから、貴族らしさなど欠片もない、自由で明るいイレリアに惹かれたのだ。自分もそうでありたくて。
だが、この目の前の親友であり従兄弟である男は自分の事を何と言った。
「ロメオ――君の目に僕はどう映っている」
カインは自分の指先が震えているのが分かった。
何か大事なものを失った気がする。
「何を突然――正直に言うと、今の君はただの馬鹿だ。それも色ボケしたかなりの」
「容赦ないな」
ロメオの言葉にカインは苦笑を浮かべると、茶を一口飲んだ。
冷静にこれまでの事を振り返る。所々で頭の中が霞がかったようにはっきりしないが、全て覚えている。
カインの心に羞恥と後悔が一気に押し寄せてきた。
「ロメオ――僕はなんて恥知らずな人間だったんだ……」
「カイン、どうした。何を今更」
本当に今更だ。しかし、少なくとも秋の月から春の月までの半年間の自分は恥ずべき人間だったと、カインは強く唇を噛んだ。
そして、決意したような目でロメオを見つめるとロメオに問いかけた。
「ロメオ――君は今でも僕の親友か?」
イレリアは自室でカインが来るのを待っていた。
アバルト公子が急遽カインに会いにやってきたから、部屋に来るのは遅れるとヨルジュが告げに来たのは、もう二刻も前の事だ。
すっかり夜も更け、入浴も済ませたイレリアは迫りくる眠気を堪えるのに忙しかった。
「カイン様は本日は体調がすぐれず、お越しになれないとのことです」
静かに扉をノックし、女中が応対した向こうでヨルジュの声が小さく響いた。
イレリアはあの蟄居の期間以降初めて、カインが部屋に来ないことに苛立ちを覚えた。
仕事で外泊をするとき以外は、たとえ深夜になろうと部屋を訪れては、心行くまでイレリアを堪能していた。
君がいないとだめだ、なにがあっても離さないと耳元で囁いていたのはカインなのに。
「お……お坊ちゃまは体調がすぐれないとの事ですし、決してお嬢様を蔑ろにされているわけではありませんよ」
イレリアの苛立ちを察して、女中が慌てて言った。
先に休ませたアリッサの代わりに、夜は彼女がイレリアの身の回りの事をする役目だった。
いつもなら入浴が済み、アリッサと交代した頃にカインがやってきて自分は翌朝までお役目御免だというのに、今日に限ってなんてツイてないのかと女中は内心唇を噛んだ。
女中はイレリアが自分を嫌っていると感じていた。
彼女はカインが当初イレリアにつけた女中ではなく、新たに付けられたこの女中は普通の平民出身だった。
女中頭から交代を命じられたと言って寄越されたこの女は、小さな事にもよく気付き気配りも上手で、甲斐甲斐しくよく働きはするものの、「平民以下のお前ごときには平民出身の女中で十分だ」と見下されているように思えていたのだ。
いつしか、イレリアは自分が貴族と同じ扱いをされない事に、非常に苛立つようになっていた。
「カインの部屋へ行くわ。案内して頂戴」
女中に命じると、女中はイレリアの剣幕に怯えながら頭を下げた。
「申し訳ございません。旦那様よりお嬢様がお坊ちゃまの部屋へ行くことは禁止されております」
貴族は夫婦であっても女性が男性の寝所を訪れるのははしたないとされていたからなのだが、委縮した女中はそれを細かに伝えることができなかった。
その為、イレリアは侯爵が自分を邪険に扱っているという思いが増幅するのを抑えることができなかった。
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