侯爵家の婚約者

やまだごんた

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64.揚水ポンプ

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 イレリアを侯爵夫人の席まで案内すると、ロメオは「今日は女性だけの華やかな席ですから」と、爽やかに一礼して来た道を戻って行った。
 その嫌味の無い洗練された言動に、招待された夫人たちは年甲斐もなくうっとりと溜息を漏らした。
 茶会の話はロメオの恋人はまだ見つからないのか、いつ結婚するのかという話題から、いつしか昨日の事件の話へと移り変わって行った。
「イレリア様の名を騙って暴動を扇動するなんて――」
「イレリア様のお美しさに嫉妬した者の仕業ですわ」
「お可哀想なイレリア様――」
 いつの間に詳細を知ったのか、我も我もと情報を出し合った後、貴婦人達は口々にイレリアを慰めた。
「ありがとうございます。皆様にそう言っていただけて、とても慰められますわ」
 イレリアは侯爵夫人の隣に座って弱弱しく微笑んだ。
「名を騙り貶めるとは本当に卑怯な事ですわ」
 アバルト侯爵夫人が冷たい声で言うと、貴婦人達も皆一同に頷いた。
「しかし一体誰が――」
「誰であろうと、私のような卑しい身分の人間を貶めたところで、利益を得る貴族なんておりませんわ」
 誰かが不安げに声をもらしたのを聞いて、イレリアは悲しそうに口元を抑えた。
 貴族同士であれば、敵対する相手の家名に傷をつけ、名誉を失墜させる事ができても、イレリアは貴族ではない。
 エスクード侯爵家に後見を受けてはいるが、何かあれば後見を破棄すればよいだけの話で、イレリア一人が被害を被るだけだ。
 弱々しく目を臥せると、改めて自分の立場が脆く弱いものである事を痛感して悔しさがこみ上げてきた。
「まぁ、――一人だけおられるではないですか」
 フィッツバーグ子爵夫人が扇で口元を隠しながら愉快そうに言うと、その場の全員が一人の女性を思い浮かべた。
 イレリアは、フィッツバーグ子爵夫人に口付けを贈りたいほど感謝した。

 1日半の道のりを経て揚水ポンプに到着したカイン達は、休む暇もなく事前に送られている食料やスクロールなどの物資を確認していた。
「やあ、エスクード隊長どの」
 聞き慣れない、しかし聞き覚えのある声に顔を上げると、赤い髪に浅黒い肌をした男が立っていた。
「ナジーム・アシャール……」
 カインは思わず忌々しげに名を呼んだ。
「気軽にナジームと呼んでくれ。俺もカインと呼ばせてもらう」
「名呼びを許した覚えはない」
 カインが即座に拒否の意思を示すと、ナジームは軽薄そうな微笑みを浮かべた。
「ナジーム!」
 離れた場所で作業の確認をしていたラエル卿が、血相を変えて飛んできた。
「申し訳ありません隊長!……お前、隊長には近付くなってあれほど」
「ラエル卿」
 カインのひと際冷たい声がラエル卿の耳を震わせた。
「君の関係者はなぜここにいるんだ」
「あ、はい……その」
「俺が自分で説明しよう」
 ナジームはそう言って、ラエル卿を押し退けてカインの前に立った。
 ジルダにしたような説明をし終えると、カインは不機嫌な顔でナジームを見た。
「お前――いや、君は私の婚約者に求婚した際、この国に来てもいいと言っていたが、それは嘘だったのか?」
 カインの言葉に、ナジームは吹き出さずにはいられなかった。
「な――何がおかしい!」
「いや――なにも。ただ、あんたらは本当にお似合いだなって思っただけさ」
 意味が分からず茫然としているカインを横目に、ナジームは楽しそうにラエル卿の肩を抱いて元来た方に歩き出した。
「ああ――そうだ」
 何かを思い出したのか、ナジームはカインに振り返ると、ニヤリと笑ってみせた。
「今のあんた、嫌いじゃない」
 
「しかし相変わらず大きいねぇ」
 揚水ポンプを見上げてティン=クェンが暢気な声を上げた。
 轟々と音を立てて水を吸い上げるポンプは、なぜか魔物を寄せ付けるらしく、周囲には魔獣が集まっていた。
「結界がなかったらひとたまりもありませんね」
 カルマイ卿は、結界の外からポンプの様子を窺うように歩き回る魔獣を見て震えた。
「君は今年から参加だったっけ」
 ティン=クェンは年下だが、自分より少し背の高いカルマイ卿の背中に手を当て、魔獣が闊歩する森を見つめた。
「平時はハンター達が素材や魔石目当てに魔獣を狩りに来るんだけどね。今は繁殖期でね――数も増えるし凶暴さも増していて、ハンターでは追いつかないんだ」
「凶暴……」
 ティン=クェンの手にカルマイ卿の緊張が伝わるのがわかった。
 以前ゴブリンに襲撃された恐怖が尾を引いているのだろう。
「この森の周辺には人型はいないさ。奴らは知恵がある。ハンターがいる所には近づかない」
 ティン=クェンの言葉に、安堵の笑みを見せたカルマイ卿だったが、彼の中ではひとつの疑問が渦巻いていた。――自分達が襲撃を受けたあの場所も、普段ならゴブリンなど出没しない場所だったはずた。

 魔獣の討伐で遠征する時は、酷い時はテントすら貼れず野宿なんて時もあるが、この場所は幸いにも粗末ではあるが宿泊施設が用意されていた。
 管理人がいる上に、年に一度魔道技術部隊が遠征に来るおかげだった。
 騎士隊の多くは貴族の子息なのだが、粗末な寝床に誰も文句を言わないのは、遠征の際の劣悪な環境を一度でも経験しているからだろう。
 土に穴を掘ってねぐらを作ったり、木の枝に体を縛り付けて眠った経験をすると、屋根と床のある場所というのは有難いものだった。
 カインは隊長として個室を与えられているが、せいぜい狭い部屋で男同士抱き合って寝なくていいと言う程度の特権だった。
 道中の野宿で狭いテントにダーシー卿と2人で並んで寝た時に、寝ぼけたダーシー卿に抱きしめられて、身動きが取れなくなった恐怖を思い出すと、個室と言うだけで幸せを噛み締める事ができた。
 粗末な戸を叩く音がして、入ってきたのはティン=クェンだった。
「――カルマイ卿が……そうか」
 ティン=クェンからカルマイ卿の話を聞いて、カインは考え込んだ。
 結界を張り直している間は、カインは魔力を供給する為に魔道士に付き切りにならないといけない。結界が張り直されて途切れる瞬間の警戒は部下達が行わなければならないのだ。
 ゴブリンのような人型は、人間がいる場所にはほぼ姿を現さない。しかし、あの襲撃の時のように不意打ちで現れないとも限らないのだ。
 あの襲撃で一番重傷を負ったのはカルマイ卿だった。ジルダが来るのが遅れていれば、命はなかっただろう。
 カインは胸元の青い宝石に手を当てた。
 指先に温かさを感じるようだった。

「魔獣と対峙する時は防護の魔法陣の展開を忘れるな。奴らは一年で一番凶暴な時期だ。油断は死を意味すると思え」
 翌朝、カインは部下達を前に声を張り上げた。
 朝早くに近くの町に宿泊していた魔道士や治癒師達が合流した。当然だがジルダはいない。カインは分かりきっていた事だが、少し気分が落ち込むのを感じた。
 しかし、今はやらねばならない事がある。
 部下の命を守る事が最優先だ。毎年行っている事だが、油断は禁物だとカインは気持ちを引き締めた。
 それが間違えてなかったと実感したのは、結果を掛け直す為、結界が途切れたわずか数分間の事だった。
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