侯爵家の婚約者

やまだごんた

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68.囁かれる悪意

「僕は君が貧民街に支援をしていただなんて知らなかった」
 侍女に茶を用意させ、カインとイレリアはソファに向かい合って座った。
 前まではずっと隣に座っていたのに、なぜ最近のカインはこんなに離れて座っているのかしら。
 イレリアはぼんやりとカインを眺めていたが、カインの言葉に息を詰まらせた。
「そして、ついさっき聞いた話だが、誰かが君の名を騙って暴動を扇動したと」
 カインが言葉を続けると、イレリアは涙を流した。
 自分に会えた喜びよりも、そんな事を気にするカインが腹立たしく、涙があふれてきたのだ。
 私はこんなに寂しかったのに――その時、イレリアの目にカインの胸元に光る青い宝石が目についた。
 カインは今まで装飾品の類を嫌っていて、首飾りなどは特に付けたことがなかった。なのに、なぜ?
 考えるまでもなかった。
 討伐に出る前は付けていなかった。そしてその時最後に会ったのはジルダだ。
 ジルダからの贈り物なのだ。
 そう言えばカインはジルダにフェリスの毛皮を贈っていた。
 社交界で話題になっていたのを聞いた。あれだけの品質のフェリスを集めて上掛けを作るとなると、王族しか買えない絹のドレスと同じくらいの価値になるのだと。
 何とも思っていない相手にそんなもの贈らない。
 何とも思っていない相手からのものなんて身に付けない。
 イレリアの中で、嫉妬と憎悪が溢れかえるようだった。
 だが、その対象がジルダなのかカインなのかは、イレリアにはもう分からなかった。 
「私――わからないの。でも、アバルト侯爵夫人のお茶会で言われたわ――私の名を穢して喜ぶ人物は一人だけだと……」
 
 泣きながら訴えるイレリアに、カインはどこか他人を見るような気分だった。
 愛しいという感覚は確かにある。
 しかし、彼女に触れたいとは思わなかった。
 泣いている彼女を見て、心が突き動かされる衝動も感じている。
 抱きしめて口付けをして――だが、それは他人の衝動のようにも感じられた。
 衝動が沸き上がるたび、何か温かいもので抑えられている。そんな感覚だった。
「ジルダが――?」
 カインは漸く言葉を発することができた。
 だがカインの葛藤は非常に長く感じたが、時間にすると一瞬の事だったらしい。
 イレリアは溢れ出る涙をぬぐう事もせずに、カインを見つめた。
「カイン――私はあなたに相応しい女性になりたいだけなの。それだけなの」
 イレリアは訴えた。
「あなたがシトロン公女と結婚を控えていることは理解しているわ。でも、あなたは私と結婚したいと言ってくれた――だから私、侯爵さまに認められたくて頑張っていたの――でもそれが公女の癇に障ったのだわ」
 イレリアの独白をカインは静かに聞いていた。
 不思議とジルダの名を出されても不愉快にはならない。むしろ――
「もし、ジルダだとしたら、君はどうしたいんだい」
 カインの静かな声に、イレリアは驚いた。
 いつもならジルダの名を聞くだけで不機嫌になり、それを振り払うように情熱的にイレリアを求めてくるのに、今日は違う。
 やはりジルダと何かがあったのだ。ジルダへの憎悪が更に深くなるのが分かった。
「私のような身分の者が公女に対して罰してほしいとは思えないわ」
 イレリアは声を詰まらせながら続けた。
「――でもフィッツバーグ夫人がおっしゃったの。……暴動を扇動するなど治安を乱した者はたとえ公女であっても罰せられるべきだと」
 イレリアは静かにカインを見た。
 カインは、何かを探るようにイレリアの緑色の瞳を見つめていた。
「――そうだな。もしジルダが暴動を扇動したのなら。王室に対する準反逆罪ともなりうる。最悪は身分の剥奪の上投獄、そうでなくても貴族としては生きていけないだろう」
 カインはイレリアから視線を逸らして、膝の上で組んだ指を所在なさげに弄んでいる。
「アバルト侯爵夫人もそうおっしゃっていたわ。だから、不確かな噂で公女の名誉を損なうような発言は控えるようにとも」
 イレリアは、いつもまでも涙を拭い取ってくれないカインに業を煮やすと、飾り袖で涙を拭った。
 
「でもカイン――私、本当に怖いの。公女がそんな恐ろしい事をなさっただなんて。――だって、もしそんな事になったら、あなたの魔力の制御はどうなると言うの」
 カインはイレリアの言葉をただ静かに聞いていた。
「私――私は何よりもカインが大事だわ。でも、私の名を騙ってカインまでもを貶めて危険に晒すのは許せない」
 イレリアの言葉はカインには響かなかった。
 しかし、まだ胸の奥底にはイレリアの愛が小さな炎をあげていた。
 カインはゆっくりイレリアの隣に座ると、その肩を抱いた。
「君はやっぱり素晴らしい人だ。どこまでも僕を愛してくれている。――だが、僕にはジルダの能力も必要だ。どうすればいいだろう」
 イレリアに触れても、以前のような衝動は湧いてこない。
 むしろ、より冷静になれるようだった。
 空々しいと思いながら、カインはイレリアの肩を強く抱き寄せた。
 イレリアは漸くカインが自分を抱き締めた事に喜び、カインの背中に腕を回して、その胸に顔を擦り付けた。
「茶会の後、子爵夫人がおっしゃっていたの。――もしそうなったら、公女を侯爵家の奴隷として譲り受け、役目を全うさせればいいって」
 自分の胸の中で囁くイレリアの声に、カインは鳥肌が立つのを抑える事は出来なかった。

 カインは自室で青い宝石を握りしめていた。
 イレリアの恐ろしい言葉は、全てフィッツバーグ子爵夫人から言われた事だ。
 純真なイレリアがあのような考えをするはずがない。――しかし、カインが知るフィッツバーグ子爵夫人は、野心家で噂好きだが、自分の利益にならない事はしない人間だ。
 仮にジルダが貧民街を扇動したのだとしても、ジルダの能力と役割を考えると、婚約が無くなるはずもない。
 いや、イレリアの言う通り、婚約を解消して奴隷に身を落とすことも考えられなくはない。
 そんな自分の不利にしかならないことを、あのジルダがするだろうか。
 ――婚約の解消と考えてカインは胸の奥が痛むのを感じた。
 まるで婚約の解消を嫌がっているようではないか。
 自分はジルダを疎んでいたのではなかったのか?この10年もの間、礼節こそ保ってはいたものの、ジルダに向き合う事もなく、冷たくしていたのは紛れもないこの僕だ。
 なぜ今更胸を痛める?
 カインはわかっていた。
 ジルダを疎んじていても、結婚する事は嫌がっていなかったのだ。少なくともイレリアに会うまでは。
「イレリア――」
 カインは一人呟くと、その言葉を飲み込むように息を飲み、自分を持ち直した。
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