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72.引き裂かれた自尊心
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「イレリアは、自分を陥れて得をする人間はジルダだけだと言っていた」
カインは、昨日のイレリアとの会話をロメオに話した。
「母が言っていた。ご婦人方がジルダを疑いだしたのは、イレリア嬢がそう誘導したような感じだったと。あの暴動に恣意的な意図がなかったのであれば、必要のない事のはずだが――」
「あの女性が言った通り、暴動は偶発的なものだったんだろう。だが、あんな粗末な結果に終わるほど、付け焼き刃で行ったということは、そうしないといけない何かがあったに違いない」
カインにもロメオにも、その何かが何なのかはわかっている気がした。
ジルダの言った「持てる者ともたざる者の立場の違い」が、ここにきて重くのしかかった。ジルダはこの事を言っていたのだろうか。
「焦ったんだろうな」
ロメオが呆れ気味に言った。
「名もなき篤志家の功績を奪うつもりが失敗。その後始末をジルダのせいにして逃げようって魂胆だろう。よくある事さ。身分の低い愛人が正妻に成り替わろうと罪を着せる。――だから言っただろう。とっととどこか適当な貴族の養女にでも出してしまうべきだったんだ。そうすれば彼女だって失うものは最小限に抑えられただろうに」
一度手に入れた生活を手放すのはひどく恐ろしいものだと、ロメオの言葉にカインは返す言葉もなかった。
今でこそ冷静に考えられるが、あの頃は片時たりともイレリアと離れる事なんて考えられなかった。
――もし、貴族の元に養女に出した後に、他の男がイレリアに懸想したら?彼女がそれを受け入れたら?
考えるだけでも恐ろしかった。だから、ずっと侯爵邸に留まらせた。
父だってそれを理解してくれていたじゃないか――いや、そうじゃなかったんだ。
カインはまだ混乱する頭をゆっくりと整理した。
「父上は全てわかった上で僕の好きにさせていたんだな」
カインは溜息をついた。なんて親不孝者なんだ。僕のせいで父上までもが笑い者になっていたに違いない。
「お前の命を優先したんだよ」
ロメオの言葉にカインは涙が溢れ出てくるのが分かった。
その晩、カインはエスクード侯爵の執務室で、昨日から起きた全ての事を話した。
カインの話を最後まで黙って聞いていた侯爵は、カインが話し終えると、胸の前で腕を組んだ。
「オルフィアス伯爵、イレリア嬢――」
一見、何のつながりもない者達だ。
オルフィアス伯爵は議会の一員であり、法務貴族として宮廷の中枢に関与している。
議会がない間は領地にこもり、執務に没頭している。
23歳でオルフィアス伯爵の養子となって以来、エスクード侯爵を凌ぐ優秀さで戦争で疲弊した領地を復興させた男だ。
王宮で顔を合わせる度に、妖艶だが親しみを込めた笑顔で話しかけてきた。
その笑顔には、素直な親近感は感じられなかったものの、欠片ほどの敵意も感じなかった。
それが狡猾に隠されたものだとすれば、どれだけの恨みを自分に抱いていたのだ。
それだけの恨みを抱かれるほど、接触した覚えはない。
だが、見えていることだけが真実でないことは、侯爵には痛いほどわかっていた。
自分達がそうであったように、きっと彼にも見えないところで……
「オルフィアス伯爵の件は、ティン=クェンと私で調べよう。ロメオはイレリア嬢に探りを入れてくれるんだろう?」
息子の顔を上げさせながら侯爵が言うと、カインは「はい」と頷いた。
「いずれにしろ、お前は被害者だ――何の責任もない。気にするなというのは間違えているが、今は目の前の事態を解決する事に集中するんだ」
カインは改めて父という頼もしい存在に安堵した。
翌日、イレリアはカインからの返事を待っていた。
朝早くから出かけたカインは夜まで戻らず、そのまま遅くまで侯爵と話しをしていたとヨルジュから聞かされた。
休みというのは聞いていたのに、イレリアに会いに来なかった。
だから、明日は会いたいと侍女に手紙を届けさせたのだが、カインからの返事はなかった。
「アリッサ。あなた本当にカインに届けたの」
イレリアは、苛立ちを隠すことなく侍女を怒鳴りつけた。
ここのところ、何も思い通りにいかないではないか。
侍従も侍女もなぜこうも使い物にならないのか。なぜこんなに自分は苛立ちを覚えねばならないのか。
侍女はイレリアの剣幕に動じず、「はい。イレリア様からですとカイン様に手渡し致しましたわ」と頭を下げた。
その所作は美しかった。
自分が社交の場で参考にしたのはこの女と――ジルダの所作だった。
そうだ、アリッサの所作はジルダに近く、イレリアにジルダを思い起こさせるのだ。
そう自覚すると、尚更イレリアの胸に怒りが湧きあがり、堪えきれず侍女の顔を平手打ちした。
侍女はその場に崩れ落ちると、驚いた表情で、目を見開いてイレリアを見上げた。
社交界で女神と崇拝される女性の顔は、美しかった。
しかし、その表情は怒りに歪み、神話に出てくる鬼神のような顔で自分を見下ろしていた。
「なに――その目は」
イレリアはアリッサの表情に、漸く自分に近いものを見つけて、怒りの奥に悦びを感じた。
この目は、私だ――あの時の。
貧民街で男達に囲まれ、踏みにじられながら蹂躙されそうになった日を思い出した。
あの時の自分も、このアリッサのように恐ろしくて、やめて欲しくて怯えた目をしていただろう。
男達の手は怯えるイレリアを押さえつけ、服を剥ぎ取り、美しいイレリアの容姿に大喜びしながらイレリアの中に入ろうとした。
やめてと叫んでも、押さえつけられた手はピクリとも動かせず、イレリアは抵抗することを諦めた。
終わるまでの間我慢すればいい。そしたら命は助けてくれるかも。
抵抗することを諦めたイレリアに男達は下衆な笑いを隠そうともせず、イレリアの足を広げさせた。
そこに、薬師が偶然通りかからなかったら、イレリアは立ち直れないほど凌辱されつくしていただろう。
貧民街では尊厳などない。
でも、この目の前の女は平民でありながら、母親が貴族の乳母だったと言うだけで貴族のような暮らしと教育を受け、純潔も命も危ぶまれる事無く生きてきたのだ。
イレリアは目の前の女が酷く憎かった。
カインは、昨日のイレリアとの会話をロメオに話した。
「母が言っていた。ご婦人方がジルダを疑いだしたのは、イレリア嬢がそう誘導したような感じだったと。あの暴動に恣意的な意図がなかったのであれば、必要のない事のはずだが――」
「あの女性が言った通り、暴動は偶発的なものだったんだろう。だが、あんな粗末な結果に終わるほど、付け焼き刃で行ったということは、そうしないといけない何かがあったに違いない」
カインにもロメオにも、その何かが何なのかはわかっている気がした。
ジルダの言った「持てる者ともたざる者の立場の違い」が、ここにきて重くのしかかった。ジルダはこの事を言っていたのだろうか。
「焦ったんだろうな」
ロメオが呆れ気味に言った。
「名もなき篤志家の功績を奪うつもりが失敗。その後始末をジルダのせいにして逃げようって魂胆だろう。よくある事さ。身分の低い愛人が正妻に成り替わろうと罪を着せる。――だから言っただろう。とっととどこか適当な貴族の養女にでも出してしまうべきだったんだ。そうすれば彼女だって失うものは最小限に抑えられただろうに」
一度手に入れた生活を手放すのはひどく恐ろしいものだと、ロメオの言葉にカインは返す言葉もなかった。
今でこそ冷静に考えられるが、あの頃は片時たりともイレリアと離れる事なんて考えられなかった。
――もし、貴族の元に養女に出した後に、他の男がイレリアに懸想したら?彼女がそれを受け入れたら?
考えるだけでも恐ろしかった。だから、ずっと侯爵邸に留まらせた。
父だってそれを理解してくれていたじゃないか――いや、そうじゃなかったんだ。
カインはまだ混乱する頭をゆっくりと整理した。
「父上は全てわかった上で僕の好きにさせていたんだな」
カインは溜息をついた。なんて親不孝者なんだ。僕のせいで父上までもが笑い者になっていたに違いない。
「お前の命を優先したんだよ」
ロメオの言葉にカインは涙が溢れ出てくるのが分かった。
その晩、カインはエスクード侯爵の執務室で、昨日から起きた全ての事を話した。
カインの話を最後まで黙って聞いていた侯爵は、カインが話し終えると、胸の前で腕を組んだ。
「オルフィアス伯爵、イレリア嬢――」
一見、何のつながりもない者達だ。
オルフィアス伯爵は議会の一員であり、法務貴族として宮廷の中枢に関与している。
議会がない間は領地にこもり、執務に没頭している。
23歳でオルフィアス伯爵の養子となって以来、エスクード侯爵を凌ぐ優秀さで戦争で疲弊した領地を復興させた男だ。
王宮で顔を合わせる度に、妖艶だが親しみを込めた笑顔で話しかけてきた。
その笑顔には、素直な親近感は感じられなかったものの、欠片ほどの敵意も感じなかった。
それが狡猾に隠されたものだとすれば、どれだけの恨みを自分に抱いていたのだ。
それだけの恨みを抱かれるほど、接触した覚えはない。
だが、見えていることだけが真実でないことは、侯爵には痛いほどわかっていた。
自分達がそうであったように、きっと彼にも見えないところで……
「オルフィアス伯爵の件は、ティン=クェンと私で調べよう。ロメオはイレリア嬢に探りを入れてくれるんだろう?」
息子の顔を上げさせながら侯爵が言うと、カインは「はい」と頷いた。
「いずれにしろ、お前は被害者だ――何の責任もない。気にするなというのは間違えているが、今は目の前の事態を解決する事に集中するんだ」
カインは改めて父という頼もしい存在に安堵した。
翌日、イレリアはカインからの返事を待っていた。
朝早くから出かけたカインは夜まで戻らず、そのまま遅くまで侯爵と話しをしていたとヨルジュから聞かされた。
休みというのは聞いていたのに、イレリアに会いに来なかった。
だから、明日は会いたいと侍女に手紙を届けさせたのだが、カインからの返事はなかった。
「アリッサ。あなた本当にカインに届けたの」
イレリアは、苛立ちを隠すことなく侍女を怒鳴りつけた。
ここのところ、何も思い通りにいかないではないか。
侍従も侍女もなぜこうも使い物にならないのか。なぜこんなに自分は苛立ちを覚えねばならないのか。
侍女はイレリアの剣幕に動じず、「はい。イレリア様からですとカイン様に手渡し致しましたわ」と頭を下げた。
その所作は美しかった。
自分が社交の場で参考にしたのはこの女と――ジルダの所作だった。
そうだ、アリッサの所作はジルダに近く、イレリアにジルダを思い起こさせるのだ。
そう自覚すると、尚更イレリアの胸に怒りが湧きあがり、堪えきれず侍女の顔を平手打ちした。
侍女はその場に崩れ落ちると、驚いた表情で、目を見開いてイレリアを見上げた。
社交界で女神と崇拝される女性の顔は、美しかった。
しかし、その表情は怒りに歪み、神話に出てくる鬼神のような顔で自分を見下ろしていた。
「なに――その目は」
イレリアはアリッサの表情に、漸く自分に近いものを見つけて、怒りの奥に悦びを感じた。
この目は、私だ――あの時の。
貧民街で男達に囲まれ、踏みにじられながら蹂躙されそうになった日を思い出した。
あの時の自分も、このアリッサのように恐ろしくて、やめて欲しくて怯えた目をしていただろう。
男達の手は怯えるイレリアを押さえつけ、服を剥ぎ取り、美しいイレリアの容姿に大喜びしながらイレリアの中に入ろうとした。
やめてと叫んでも、押さえつけられた手はピクリとも動かせず、イレリアは抵抗することを諦めた。
終わるまでの間我慢すればいい。そしたら命は助けてくれるかも。
抵抗することを諦めたイレリアに男達は下衆な笑いを隠そうともせず、イレリアの足を広げさせた。
そこに、薬師が偶然通りかからなかったら、イレリアは立ち直れないほど凌辱されつくしていただろう。
貧民街では尊厳などない。
でも、この目の前の女は平民でありながら、母親が貴族の乳母だったと言うだけで貴族のような暮らしと教育を受け、純潔も命も危ぶまれる事無く生きてきたのだ。
イレリアは目の前の女が酷く憎かった。
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