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80話、弟。

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 夕飯は姉ちゃんオススメのレストランで食べた。リストランテ・マミヤでは、いつもランチしか食べたことがなかったから、とディナーメニューを見ながら姉ちゃんは嬉しそうだった。
 運ばれてきたビーフシチューは、確かにめちゃくちゃ美味しかったけど、俺は姉ちゃんが作るシチューも好きだ。
 それから、二人で少しだけワインを飲んだ。銘柄も味も、よくわからなかったけど。

 夕飯を食べたあと、姉ちゃんをホテルまで送って、ロビーで別れることにした。部屋に寄ったら、酔いに任せて姉ちゃんを抱いてしまいそうだった。
 抱きたいよ、すごく。いつでも。回数も関係なく。
 でも、今姉ちゃんを抱いたら、優しくできる自信も、起きられる自信もない。乱暴にしてしまいそうだったし、そのまま寝てしまいそうだった。
 姉ちゃんは「寝ちゃったらタクシーで帰ればいいじゃん」と尚も食い下がったけど、姉ちゃんは、ハタチの性欲とセックスの疲労度を舐めてる。
 それに、好きな人を抱いたあとに幸せな気分で眠って、そのあと一人家に帰ります、なんて、寂しすぎて俺には無理だ。

 マンションの最寄り駅に着く。美郷店長に似た人影はない。見つけられないだけかもしれないけど。
 一応防犯のために、マンションに着くまで電話をしよう。話をしなければならない人がいる。

「もしもし」

 通話口の向こうで、懐かしい声がする。何だかとてもテンションが高い。連絡したの、久々だったからかな。

「あ、母さん? あのさ……姉ちゃんに、あのことを言おうと思うんだけど」

 俺が姉ちゃんに隠していること。いつか話さなければならないこと。

「うん、そう。ようやく、ね。いや、結婚を考える人ができたわけじゃないから。いや、来なくていいから。家族全員で話さなくても、大丈夫だよ。うん」

 焦った。家族会議ね、なんてウキウキで言われても困る。姉ちゃんだけと話したいのに、両親がいたら気まずいだけだ。来なくてもいい。

「で、何か書類とか用意したほうがいい? そのほうがわかりやすいかな? え? 戸籍、謄本?」

 こせきとうほん、と反芻する。あまり使わない単語だから、忘れてしまいそうだ。

「戸籍抄本っていうのもあるの? 謄本のほうがいい? 謄本じゃなきゃダメなんだね? わかった。いや、そっちにあるやつを送らなくてもいいから」

 実家にあるものはたぶん古いから、新しいもののほうがいいだろう。手数料がかかるみたいだけど、構わない。

「あ、うん、姉ちゃんも元気。相変わらずだよ。仲良く、やってる」

 思わず頭の中で「仲良くヤッてる」と変換してしまって苦笑する。どれだけ性欲を持て余してるのやら。

「うん。大丈夫だよ。何かあったら連絡する。夏休みは姉ちゃんと一緒に帰るから、それまで余計なことしないで。うん、よろしくね。おやすみ」

 テンションの高いときの母さんは厄介だ。今まで散々邪魔されてきたから、今回は邪魔されたくない。
 特に、今は。
 マンションの周りにも怪しい人影はない。郵便受けを確認すると、大きめの封筒が入っている。差出人も宛先も記載がないが、封筒には市役所の印字がされている。
 部屋に戻り、封筒の中身をあらためると、薄い紙と便箋が出てきた。薄い紙の文字はほとんどが茶色で書かれている。

「……婚姻届って、茶色なんだな」

 婚姻届は未記入だった。俺のところだけ空白かと思ったら、真っ白だった。
 便箋には、簡潔に『記入して一緒に持っていきましょう』とだけ書かれていた。誰が郵便受けに入れていったのか、なんてすぐわかる。
 怖い、というよりも、笑いがこみ上げてくる。予想の斜め上をひた走っている美郷店長が哀れに思えてくる。

「斬新なプロポーズだなぁ」

 俺なら絶対に真似しないけど。
 スマートフォンにメッセージの着信。姉ちゃんかと思ったら、違った。

『美郷店長、家にいないそうだ。どこに行きそうか、とか心当たりはあるか?』

 永田板長も、もの珍しい人だ。俺に執着している美郷店長も、もの珍しい人になるのだろうけれど。あぁ、俺は姉を好きなのだから、もっともの珍しいか。

『もしかしたら、市役所にいるかもしれません』
『市役所か、わかった。お前は無事か?』
『俺に直接の危害はないです。彼女はちょっと脅されましたが』
『それは気の毒だな。ケアしてやれよ。こっちは昨日のランチ代くらいは仕事してやるよ』

 あ、立て替えていたの、忘れてた。しっかり覚えいるあたり、板長らしいと思う。

『ありがとうございます』

 あまり期待はできないけど、板長が美郷店長の心を奪ってくれれば一番いい結末なのに。
 と、次にもう一件、メッセージ。

『どうしよう、高梨。私、板長のことが好きになっちゃったかも。昨日から、板長がカッコよすぎてまともに顔が見られないよ!』

 金子……お前、絶対に脈ナシだから、胸隠しとけよ、と送るにはさすがに気が引ける。
 まぁ、実際、板長はいい人だけれども。そして、金子の胸にクラクラすることもないだろうけれども。

「そういえば、戸籍謄本って市役所に行かないともらえないんだっけ」

 今さらながら、行くべきか行かざるべきか、悩むのであった。


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