83 / 101
83話、姉。
しおりを挟む
「私の婚姻届が受理できないって、どういうことなのか説明してください!」
女性がカウンター越しの職員に食ってかかっているのが見えた。職員は立ち上がって怒鳴りつけてくる女性を、一生懸命なだめているように見える。
職員以外のお客さんは、彼女を遠巻きに見つめる。近寄りがたいというよりは、面倒に巻き込まれたくない、という気持ちなのだろう。
私も同じだ。
けれど、彼女が職員に食ってかかっている頭上には、戸籍課の文字。どうやら、避けては通れないみたいだ。
とりあえず、嵐が去るまで近づかないでおこうと、近くにあった椅子に座る。ジュラルミンケースもだいぶ重いし、立ったまま待ちたくはない。
同じように隣の椅子に座っている男性も、ちらちらと彼女のほうを気にしている。
女性は怒鳴りながら興奮してきたのか、語気を強めながら、カウンターをバンバンと叩き出した。
「だから、私は彼と結婚したいんです! 委任状もあるじゃないですか! なんでダメなんですか!」
「ご主人になる方の戸籍謄本も必要ですし、婚姻届の署名はご本人様に行っていただく必要があります。こちらは、奥様の字ですよね?」
「彼は今骨折していて字がうまく書けないから私が代わりに書いたの! ダメなの!?」
書類に不備があるのなら、大変だ。婚姻届が受理してもらえないなら、結婚記念日や入籍記念日がズレてしまう。
かわいそうだなぁとは思うけれど、仕方がない。
隣の男性は肩を揺らしながらちらちらとやり取りを見て、携帯電話をポチポチいじっている。ちょっと感じ悪いなぁ、と思うけれど、別に悪いことではないからいいか。
その男性のシャツが、よくわからない派手な色の柄もので、何の柄なのか、すごく気になる。じっと見つめるのも失礼なので、盗み見をするけれど、判断できない。ライオンでも、虎でもない。
それにしても。
激高している声に、何となく聞き覚えがあって、隣の男性と同じように、こそこそと彼女の姿を盗み見る。あの横顔にも、見覚えがあるような、ないような。
「わかりました! じゃあ、書類を全部揃えて持ってきます!」
納得したのか諦めたのか、女性はくるりとこちらを向いた。その、正面からの顔には、バッチリ見覚えがあった。
「……美郷店長?」
いやいやいや、ここで、このタイミングで会いたくはない。
私は思わず顔を伏せて、鞄の中身を探すフリをして彼女に背を向ける。カツカツという怒りのヒールの音が遠ざかっていき……私はほっと胸を撫で下ろした。
隣の男性も顔を上げて、立ち上がる。そして、美郷店長が向かったほうへとゆっくり歩き出す。
……たぶん、彼女には私だとはバレていないと思うけれど。
いや、それより、戸籍謄本!
慌てて戸籍課へ行き、手続きを進めようとして、私は我が耳を疑った。
「ここでは戸籍謄本は受け取れませんね。高梨様の本籍地はここではありませんので」
「あらー……そうなんですか。ダメ、ですか?」
「申し訳ありませんが」
戸籍謄本が本籍地の役所でしか受け取れないなんて、初耳だ。市役所に来る前に、調べておけば良かった。
私の免許証を返す際、窓口の職員が少し声を潜めて、私に尋ねてきた。
「あの、失礼ですが、高梨ショウ様はご家族かご親戚ですか?」
「……弟ですが、さっきの方のことですよね?」
職員はどうやら、美郷店長の婚姻届を見た人のようだ。婚姻届に書かれた住所と、私の免許証の住所が同じことに気づいたらしい。
やっぱり、美郷店長、ショウと結婚しようとしていたということか。
「はい。お姉様は弟様の入籍をご存知でした?」
「いえ。弟はまだハタチなので、結婚は考えていないと思います」
「それなら、弟様に状況を説明したあと、本籍地に婚姻届の不受理申出書というものを提出なさったほうがよいかもしれません。ストーカーや元恋人が勝手に婚姻届を出してしまうことがありますので……あの方がそうだとは言い切れませんが、念のため」
何とも心強い援護射撃!
婚姻届の不受理申出書……手帳を出してメモを取る。ついでに、郵送での戸籍謄本の発行のやり方も教えてもらう。
課長に無理を言って外出させてもらったのだから、手ブラで帰るのももったいない。ジュラルミンケースの中身は別にして、収穫がないと無駄足だと思えてしまうので、気の持ちよう、かな。
帰るときにはもうすっかり美郷店長のことなど忘れて、昼食は何にしようかなとか、ジュラルミンケースを持って歩きたくないからタクシー使っちゃおうかなとか、そういう浮かれたことを考えていた。
もう、帰っていたと、思っていたのだ。
冷房の効いた市役所から外に出ると、相変わらずのむわっとした空気が襲ってくる。デジタル温度計を見ると、三十二度。三十二度!? 気温も湿度も高すぎる。
ハンカチタオルをジュラルミンケースの持ち手に巻きつけているので、今、汗は拭えない。なのに、少し歩いただけで、一気に汗が噴き出してくる。
さて、会社に徒歩で向かうか、タクシー乗り場に行くか。どうしようかなと思ったときだ。
「おねえさーん!!」
前方から、美郷店長が笑顔で走ってきているのが見えた。
ぞわり、と、これだけの炎天下で背筋が凍るような寒気が駆け抜けてくる。強いシグナル。危険信号、だ。
「え、あ……えっ?」
美郷店長は笑顔だ。
走っているのに、あの、カツカツというヒールの音は聞こえない。
彼女は私目がけて、裸足で、陽気に、駆けてきている。が、断じて、サザエさんほどほのぼのできる場面ではない。
彼女は、右手に、何か持っている。
それは、日に照らされて、キラキラ、ギラギラ、輝いている。
「死んでくださーい!!」
死んでくれと言われて素直に死ねるわけがない。彼女の要望には応えられない。
しかし、勃起していない暴漢ならまだしも、ナイフのような刃物を持ち、物騒な言葉を叫びながら、全速力で駆けてくる女を説得する言葉も、時間も、私は持ち合わせていなかった。
いなかったので。
「お断りしますーっ!!」
ジュラルミンケースを、大慌てで抱え、衝撃に耐えられるよう、足を踏ん張った。私のヒールで耐えられるかはわからない。
私と美郷店長の間に、立ち塞がるように体を割り込ませてきた人の背中を見つめながら、私は、あぁ、と思う。
サザエさん、どら猫、ここにいたよ――。
女性がカウンター越しの職員に食ってかかっているのが見えた。職員は立ち上がって怒鳴りつけてくる女性を、一生懸命なだめているように見える。
職員以外のお客さんは、彼女を遠巻きに見つめる。近寄りがたいというよりは、面倒に巻き込まれたくない、という気持ちなのだろう。
私も同じだ。
けれど、彼女が職員に食ってかかっている頭上には、戸籍課の文字。どうやら、避けては通れないみたいだ。
とりあえず、嵐が去るまで近づかないでおこうと、近くにあった椅子に座る。ジュラルミンケースもだいぶ重いし、立ったまま待ちたくはない。
同じように隣の椅子に座っている男性も、ちらちらと彼女のほうを気にしている。
女性は怒鳴りながら興奮してきたのか、語気を強めながら、カウンターをバンバンと叩き出した。
「だから、私は彼と結婚したいんです! 委任状もあるじゃないですか! なんでダメなんですか!」
「ご主人になる方の戸籍謄本も必要ですし、婚姻届の署名はご本人様に行っていただく必要があります。こちらは、奥様の字ですよね?」
「彼は今骨折していて字がうまく書けないから私が代わりに書いたの! ダメなの!?」
書類に不備があるのなら、大変だ。婚姻届が受理してもらえないなら、結婚記念日や入籍記念日がズレてしまう。
かわいそうだなぁとは思うけれど、仕方がない。
隣の男性は肩を揺らしながらちらちらとやり取りを見て、携帯電話をポチポチいじっている。ちょっと感じ悪いなぁ、と思うけれど、別に悪いことではないからいいか。
その男性のシャツが、よくわからない派手な色の柄もので、何の柄なのか、すごく気になる。じっと見つめるのも失礼なので、盗み見をするけれど、判断できない。ライオンでも、虎でもない。
それにしても。
激高している声に、何となく聞き覚えがあって、隣の男性と同じように、こそこそと彼女の姿を盗み見る。あの横顔にも、見覚えがあるような、ないような。
「わかりました! じゃあ、書類を全部揃えて持ってきます!」
納得したのか諦めたのか、女性はくるりとこちらを向いた。その、正面からの顔には、バッチリ見覚えがあった。
「……美郷店長?」
いやいやいや、ここで、このタイミングで会いたくはない。
私は思わず顔を伏せて、鞄の中身を探すフリをして彼女に背を向ける。カツカツという怒りのヒールの音が遠ざかっていき……私はほっと胸を撫で下ろした。
隣の男性も顔を上げて、立ち上がる。そして、美郷店長が向かったほうへとゆっくり歩き出す。
……たぶん、彼女には私だとはバレていないと思うけれど。
いや、それより、戸籍謄本!
慌てて戸籍課へ行き、手続きを進めようとして、私は我が耳を疑った。
「ここでは戸籍謄本は受け取れませんね。高梨様の本籍地はここではありませんので」
「あらー……そうなんですか。ダメ、ですか?」
「申し訳ありませんが」
戸籍謄本が本籍地の役所でしか受け取れないなんて、初耳だ。市役所に来る前に、調べておけば良かった。
私の免許証を返す際、窓口の職員が少し声を潜めて、私に尋ねてきた。
「あの、失礼ですが、高梨ショウ様はご家族かご親戚ですか?」
「……弟ですが、さっきの方のことですよね?」
職員はどうやら、美郷店長の婚姻届を見た人のようだ。婚姻届に書かれた住所と、私の免許証の住所が同じことに気づいたらしい。
やっぱり、美郷店長、ショウと結婚しようとしていたということか。
「はい。お姉様は弟様の入籍をご存知でした?」
「いえ。弟はまだハタチなので、結婚は考えていないと思います」
「それなら、弟様に状況を説明したあと、本籍地に婚姻届の不受理申出書というものを提出なさったほうがよいかもしれません。ストーカーや元恋人が勝手に婚姻届を出してしまうことがありますので……あの方がそうだとは言い切れませんが、念のため」
何とも心強い援護射撃!
婚姻届の不受理申出書……手帳を出してメモを取る。ついでに、郵送での戸籍謄本の発行のやり方も教えてもらう。
課長に無理を言って外出させてもらったのだから、手ブラで帰るのももったいない。ジュラルミンケースの中身は別にして、収穫がないと無駄足だと思えてしまうので、気の持ちよう、かな。
帰るときにはもうすっかり美郷店長のことなど忘れて、昼食は何にしようかなとか、ジュラルミンケースを持って歩きたくないからタクシー使っちゃおうかなとか、そういう浮かれたことを考えていた。
もう、帰っていたと、思っていたのだ。
冷房の効いた市役所から外に出ると、相変わらずのむわっとした空気が襲ってくる。デジタル温度計を見ると、三十二度。三十二度!? 気温も湿度も高すぎる。
ハンカチタオルをジュラルミンケースの持ち手に巻きつけているので、今、汗は拭えない。なのに、少し歩いただけで、一気に汗が噴き出してくる。
さて、会社に徒歩で向かうか、タクシー乗り場に行くか。どうしようかなと思ったときだ。
「おねえさーん!!」
前方から、美郷店長が笑顔で走ってきているのが見えた。
ぞわり、と、これだけの炎天下で背筋が凍るような寒気が駆け抜けてくる。強いシグナル。危険信号、だ。
「え、あ……えっ?」
美郷店長は笑顔だ。
走っているのに、あの、カツカツというヒールの音は聞こえない。
彼女は私目がけて、裸足で、陽気に、駆けてきている。が、断じて、サザエさんほどほのぼのできる場面ではない。
彼女は、右手に、何か持っている。
それは、日に照らされて、キラキラ、ギラギラ、輝いている。
「死んでくださーい!!」
死んでくれと言われて素直に死ねるわけがない。彼女の要望には応えられない。
しかし、勃起していない暴漢ならまだしも、ナイフのような刃物を持ち、物騒な言葉を叫びながら、全速力で駆けてくる女を説得する言葉も、時間も、私は持ち合わせていなかった。
いなかったので。
「お断りしますーっ!!」
ジュラルミンケースを、大慌てで抱え、衝撃に耐えられるよう、足を踏ん張った。私のヒールで耐えられるかはわからない。
私と美郷店長の間に、立ち塞がるように体を割り込ませてきた人の背中を見つめながら、私は、あぁ、と思う。
サザエさん、どら猫、ここにいたよ――。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる