【R18】スパイス~高梨姉弟の背徳~

千咲

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85話、姉。

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 死にかけたとき、すべてがスローモーションになるというのは、本当だったんだなぁと私は感動していた。

 美郷さんの渾身の「突き」が、ニャロメのシャツの男性に襲いかかる。
 ニャロメさんの脇腹を掠めて、美郷さんとナイフが、私、つまりはジュラルミンケースに向かってくる。そんなもの吸い込んでいないのに、吸い込まれるように、向かってくる。
 あ、避けられないな、と覚悟する。
 ナイフが鈍い音を立ててジュラルミンケースに当たる。かなりずしりとした重みに、支えきれずに私は体勢を崩す。
 ニャロメさんが美郷さんの腕を自分の脇腹のあたりでしっかり捕まえ、血だらけになりながら、ナイフを振り落とす。
 体勢を崩した私は、ジュラルミンケースごと後ろに倒れ――市役所の壁に頭を強打した。

「……というところまでしか覚えていないんです」

 スーツ姿の刑事さん二人が、頷きながら「ありがとうございます」と微笑んでくれる。若くて格好いい。自然と協力したくなってくる。

「美郷フジコさんと永田コウイチさんはお知り合いですか?」
「いえ、知り合いという知り合いでは……」
「どちらの方も、夕月という居酒屋の従業員なのですが」
「夕月は私の弟のバイト先です。ただ、美郷さんもニャロメさんも、存じ上げません」
「ぷっ、ニャロ……あぁ、失礼。美郷さんから恨まれる覚えはありますか?」
「それが、よくわからなくて」

 何だか、ここ最近のことが、霞がかったような、曖昧な感じなのだ。
 なぜ市役所にいたのか、ジュラルミンケースの中身は何なのか、それすらわからない。
 私の名前や家族、勤め先なんかはわかる。
 ただ、ちょっと前までのことと、頭を強打する直前のことしかわからないのだ。

「脳震とうを起こしているので、CTやMRIには問題はありませんでしたが、記憶障害があるのかもしれませんね。たいていは今日一日分の記憶がなくなる、といった症状が多いので、何日かのことが思い出せないというのは特殊な症状ですが、よくあることです」

 事情聴取に同席してくれていた主治医の先生が助け船を出してくれるので、私はそれに乗ってゆらゆら揺れることにしよう。

「お役に立てず申し訳ありません。美郷さんとニャロメさんはどうなりましたか?」
「美郷さんはもちろん取り調べの最中です。永田さんは脇腹に軽傷を負い、先ほど縫合手術が終わったようです。高梨さんも重度な軽傷ですよね……痛ましいことです」

 ニャロメさんが無事で良かった――。
 それにしても、刑事さんが親身な感じの視線をくれるので、私は苦笑いを浮かべ、全身を確認する。
 頭は強打し、傷もできてしまった。幸い、縫うことはなかったけれど、治療に必要だということでちょっと髪の毛を切られたみたいだ。あぁ、ハゲが……できてしまった。
 さらに、気絶後に手首を捻ったせいで捻挫。肋骨はジュラルミンケースの下敷きになった重みで骨折。
 まさに、踏んだり蹴ったりだ。

「弟さんと美郷さんがトラブルを抱えていたということは?」
「あるかもしれません……でも、本当に思い出せなくて。ショウが来たら聞いてみてください」
「わかりました。弟さんにも協力していただくかもしれませんね」

 私ならいつでも!と言いそうになって、胸がちりっと熱くなる。
 何だろう、この違和感。何だか、苦しい。
 ノックの音に、先生が対応する。看護師さんかな?

「姉ちゃんっ!!」

 急に扉を開けてショウが入ってきたものだから、びっくりする。
 肩で息をして、汗だくで。どこから走ってきたのだろう。まさか大学から?

「姉ちゃん、俺だよ、わかる?」

 何だか、ふわふわする。
 ショウの表情が、今まで見たことがないくらいに真剣で、格好いい。心配してくれていたんだなと思うと申し訳ない。
 ショウにいきなり左手を握られ、困惑する。ショウの手、汗まみれだ。汚いと感じることはないけれど、皆の目の前で手を握られるなんて、恥ずかしくなる。

「えっ、記憶喪失ですか!? 俺のこと忘れちゃったんですか!?」

 ショウが主治医の先生を睨みつけている。
 とんだ勘違いだ。今、ショウが格好いいなぁと思っていただけなのに。早とちりだなぁ、ショウは。

「……んなわけないじゃん。ね、ショウ?」

 一瞬、ショウの目がつややかになる。泣き出しちゃいそうだ、この子。
 抱きしめてあげたいけれど、我慢、我慢。
 私は、お姉ちゃん、だから。

「どこ刺されたの!? 誰にやられたの!?」
「刺された? 私は刺されてないよ? 刺されたのはニャロメさんで、刺したのは美郷さん」
「ニャロ……って、永田板長!? 板長が店長に刺されたの!?」

 美郷さんも永田さんも、ショウの知り合い?
 刑事さんたちが頷いている。やっぱりショウにも話を聞きたそうだ。

「先生、姉は大丈夫なんですかっ!?」
「脳震とうを起こしているので、今は絶対安静ですが、手首の捻挫も治るでしょうし、肋骨の骨折も徐々に痛みが取れるでしょう。大丈夫ですよ」

 それを聞いて、ショウは大きな大きなため息とともに、「良かったぁぁ」と脱力して、潤んだ目を向けてくる。

「母さんが刺されたなんて言うから、心配したよ」
「母さんの早とちりだね。ごめんね?」
「ううん、ごめんね、は俺の台詞だよ。巻き込んじゃったみたいだ。せっかくホテルまで避難したのに」
「……ホテル?」
「高梨さん、警察です。そのことで少しお話を伺いたいのですが、よろしいですか?」

 ショウは刑事さん二人に病室の外へと連れ出される。残された先生と少し話をする。ちょっと小太りな、熊みたいな先生だ。

「だいたい何日分くらいの記憶がないのですか?」
「たぶん、一週間、くらいですかね……何だか、すべてが曖昧で。詳しくは弟に聞いてみないとわかりませんが」
「頭痛や吐き気を伴うことが多いので、入院中は大人しくしていてくださいね。すぐに退院できますから」
「はい……」

 刑事さんたちの興味がショウに移ったので、聴取に同席してくださいとお願いされている先生は困っている。忙しいよなぁ、病院の先生って。ここに長時間は拘束されたくはないだろう。

「先生、弟も来てくれたので、私は大丈夫ですよ。刑事さんたちもショウの話を聞きたそうでしたし、業務に戻っても差し支えないと思います」
「そう? じゃあ、親御さんが来たり、刑事さんがまだ話を聞きたいっていうなら、ナースコールしてくれる? もちろん、痛みが出てきたり、吐き気が出てきたりしたら、遠慮なく看護師を呼んでね」

 先生は病室の外で刑事さんたちに話をしてから、業務に戻っていったみたいだ。引き止められることはなかったようだ。
 しんと静まり返った病室に、刑事さんたちの声が少し聞こえてくる。内容まではわからない。窓の外の、車が通る音や、学校のチャイムの音も聞こえてくる。
 痛いなぁ。
 頭も、手首も、肋骨も。体中が痛い。
 あ、職場に連絡しなきゃ。ジュラルミンケース、証拠品として提出してあるって。
 父さんと母さんにも……連絡しなきゃ……私は無事だよって……。

「ねむ……」

 ぱりぱりのシーツの中に体を埋めて、私は目を閉じる。
 次、佐藤さんと会うの……いつ、だったかな……?

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