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先生と私
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三階にある国語準備室をノックする。
「はい」
先生の声が聞こえたから、扉を押し開けて先生の姿を見つける。今日は机の前に座っていた。パソコンで作業をしている。昨日は棚の整理をしていた。一昨日は私たち用の資料を作っていた。その前は、うたた寝をしていた。
「今日は何をしているの?」
「明後日の小テストを作っているんです」
先生は一瞬私の姿を見て「あ、しまった」と困ったような顔をする。
「……内緒ですよ。内藤さん」
「わかってるよ。皆には言わないから」
「助かります」
私はこの国語準備室が好きだ。コーヒーの匂いが染み込んだ本や資料、ラベンダーの落ち着く香り、山積みになった本、その中で作業をする大好きな人。
先生、私はあなたがいるから、ここが好きなんです。
いえ、好きでした。
「……先生」
「はい」
「おめでとうございます」
先生はキーボードを叩く手を止め、軋む椅子をくるりと回転させる。そして、私を見つめる。
今日は、私、大きめの作業用のテーブルでだるーんと伸びてはいない。テーブルに荷物を置いたまま、立ち尽くしている。
涙を浮かべて。
「内藤さん」
「職員室で他の先生が話していたのを聞いたの。別に、盗み聞きをするつもりじゃなかったのに」
「そう、ですか」
私、先生を困らせたいわけじゃないのに。困ったように笑う先生が好きだったけど、本当に困らせたいわけじゃないの。
「ご結婚、おめでとう、ございます」
涙が溢れて止まらないのに、先生、私は、生徒の中の誰よりも先に――そう、一番に、あなたに「おめでとう」って言いたかった。
私じゃあなたの一番にはなれないから、せめて。
「ありがとう、内藤さん」
古い椅子がぎしりと軋む。先生は立ち上がって、ケトルの電源を入れる。涙でぼやけて見えないけど、ずっと通いつめていたのだから、どこに何があって、先生がどう動くのかを把握している。
「コーヒー、入れますね」
「甘い、やつで」
ミルクも砂糖もたっぷりの、甘いコーヒー。まだまだ子どもの舌に、先生と同じブラックは無理。
だから、私じゃ駄目なんだというのも、わかっている。
差し出されたタオルハンカチをふんだくって、私は先生を睨む。
「恋人が、いないふり、上手、だった」
「すみません」
「そんなに、里見、先生が、好き?」
「まぁ、結婚するくらいには」
先生に怒りをぶつけたって、仕方がない。この怒りは、不甲斐ない私に向けられるべきものだ。先生を、里見先生より先に恋人にできなかった、私への、怒り。奪いたい気持ちを抑え切れない、怒り。
「結婚式は、するの?」
「ええ。四組は全員呼びますよ」
「……行きたくない」
「そんなこと、言わないでください」
甘いコーヒーが私の前に置かれる。先生の誕生日に贈ったペアのマグカップに入ったコーヒー。先生が赤、私が青。里見先生に使わせていないといいんだけど、先生にそういう機微は期待できない。きっと、里見先生もこのマグカップを使ったんだろうと思うと、腹が立つ。
ぐすぐすとしゃくりながら、私は甘くて熱いコーヒーに口をつける。
「里見先生、まだ一年目なのに、結婚早いね」
「教え子ですから」
「あ、そうなんだ。え、まさか、里見先生が高校生だった頃から?」
「いいえ、里見先生が赴任してきてからです」
先生はまた椅子に腰掛ける。私は立ったまま、行儀悪くコーヒーを飲む。
「先生、もてるでしょ?」
「ええ。だから、いつも卒業式のあとが大変なんです」
悪びれもせず、事実を淡々と喋る先生が好き。好きだった。
「卒業して生徒じゃなくなったから付き合ってくれ、って?」
「そうです。だから、『大学を卒業して無事に社会人になったら、ようやく私と対等です。あと五年後にまだ私のことを覚えていたら、また口説きにきてください』と返事をして」
「で、口説きにきたのが、里見先生?」
先生はマグカップに口をつける。頬が赤くなったのは、きっとコーヒーのせいではない。
「……先生、私」
馬鹿げている。私なんて相手にされないことくらい、わかっている。わかっているのに。
想いを伝えないままで、私は、結婚式には、出られない。
「……私ね、先生のことが好き」
先生は私の目をしっかり見つめてくれる。驚きもせず、ただ、穏やかな視線で、私を包んでくれる。
先生、好き。
好きだった。
過去にするには、辛くて悲しいくらい、好きだった。
「一年のときから、ずっと好き。作文を絶対褒めてくれたし、音読のときも声がよく通るねって言ってくれたし、授業中も寝ないでちゃんと起きてるねって私を見てくれてたし……私、ずっと、ずっと、好き、だったの、先生、のこと」
顔を上げられない。涙で前が見えない。タオルハンカチは既にびしょびしょだ。
こんなふうに泣いて先生を困らせて、私はひどい生徒だ。
でも、逃げたくないの。自分の本心から。
そして、先生にも、逃げてもらいたくないの。私の気持ちから。
私はわがままだから、先生にも向き合ってほしいの。私の恋心に。
「先生にとっては、ただの生徒の一人でしかないけど……私にとっては、先生は、大好きな人だから」
先生、大好き。
大好き、だった。
「内藤さん」
穏やかな声に、私は肩を震わせる。私はもう、先生に「五年後に」とは絶対に言われない。だって、先生は、もうすぐで結婚してしまう。五年後、がないことくらい、わかっている。
「私はね、内藤さん」
ふわりと漂うコーヒーの匂い。ラベンダーの匂いより強く、脳に染み付いている。私は、コーヒーの匂いを嗅ぐたびに、先生を思い出すんだ。きっと。
「あなたの気持ちには気づいていましたよ。嬉しくて、くすぐったくて、いつもあなたの笑顔に救われていました」
私、先生を救ってた?
「酷い人間でしょう? 受け入れられない気持ちだと言いながら、その気持ちに救われているだなんて」
先生はマグカップを両手で抱えて私を見つめている。
「教師も人間ですから、生徒にどんな形であれ、ずっと覚えていてもらいたいものなんですよ。恋をしていたという事実は、きっと、ずっと、記憶に残るでしょう?」
「私は、先生を覚えていますっ!」
先生を忘れたりなんかしない。絶対に。こんなに恋焦がれた人のことを、簡単に忘れられるわけがない。
「そう、内藤さんはきっと忘れないでしょう。私が内藤さんのことを忘れないように。でも、忘れてしまうものなんですよ、人間は」
先生は誰かに忘れられてしまったかのような、悲しげな表情で笑っていた。私は先生にそんな顔で笑ってもらいたくない。
先生には、心からの笑顔が、似合うから。
「……私があと五年早く生まれていたら、先生は私を選んでくれた?」
「そう、ですねぇ……里見先生と内藤さん、どちらを選ぶかはわかりませんが、二人が私を取り合っている姿は簡単に想像できるので、ちょっと面白いかもしれません」
「もう、酷いっ」
先生は、笑う。
私、先生の笑顔が大好き。
先生を笑顔にしてくれるなら、里見先生でも、いいよ。
「先生」
「はい、内藤さん」
「里見先生には言わないから、一度だけ、ぎゅって、して」
先生は一瞬目を見開いて、うーんと唸ったあと、マグカップを机に置いた。
「内藤さんが、結婚式に出てくれるなら」
「出ます、出ますから!」
「じゃあ」
先生は、椅子を軋ませ立ち上がったあと、両手を広げて。
「どうぞ?」
私もタオルハンカチを置いて、ゆっくり、先生の体に抱きつく。
柔らかい体。あたたかい。コーヒーの匂いがふわりと鼻をくすぐる。背中に手を回して、ぎゅうと抱きしめる。先生は背中を撫でてくれる。
私とそう身長が変わらないのに、教壇に立つと、いつも大きく見えていた先生。こんな華奢な体で、大きな声を出していたんだなぁと感心する。
「ドレスは決めたの?」
「まだですよ」
「先生のウェディングドレス、絶対に綺麗だよ」
「そうですかねぇ。そうだといいんですけど」
首筋にキスマークでもつけたら、里見先生は驚くだろうか。そんな度胸はないけれど。
「里見先生が羨ましい」
「それは、恋人だから? それとも、男だから?」
「両方ですっ!」
私が五年早く生まれていても、十年早く生まれていても、きっと里見先生には敵わない。先生が「子どもが欲しい」と思ってしまったら、私はそれを叶えてあげられないから。
「先生」
「はい」
「先生のことが好きでした。大好きでした。振ってくれてありがとうございました」
先生は耳元で「ふふっ」と軽やかに笑って。
「ありがとう、内藤さん。私を好きになってくれて」
私は、先生だから、先生を好きになったから、こんなにも幸せな気持ちで、受け入れることができたんだと思う。
私の失恋と、私の進路を。
五年後に、また、先生に会いに来ます。
生徒じゃなく、先生として。
そしたら、先生も、私のことを絶対に忘れないでしょう?
ね、小夜先生?
「はい」
先生の声が聞こえたから、扉を押し開けて先生の姿を見つける。今日は机の前に座っていた。パソコンで作業をしている。昨日は棚の整理をしていた。一昨日は私たち用の資料を作っていた。その前は、うたた寝をしていた。
「今日は何をしているの?」
「明後日の小テストを作っているんです」
先生は一瞬私の姿を見て「あ、しまった」と困ったような顔をする。
「……内緒ですよ。内藤さん」
「わかってるよ。皆には言わないから」
「助かります」
私はこの国語準備室が好きだ。コーヒーの匂いが染み込んだ本や資料、ラベンダーの落ち着く香り、山積みになった本、その中で作業をする大好きな人。
先生、私はあなたがいるから、ここが好きなんです。
いえ、好きでした。
「……先生」
「はい」
「おめでとうございます」
先生はキーボードを叩く手を止め、軋む椅子をくるりと回転させる。そして、私を見つめる。
今日は、私、大きめの作業用のテーブルでだるーんと伸びてはいない。テーブルに荷物を置いたまま、立ち尽くしている。
涙を浮かべて。
「内藤さん」
「職員室で他の先生が話していたのを聞いたの。別に、盗み聞きをするつもりじゃなかったのに」
「そう、ですか」
私、先生を困らせたいわけじゃないのに。困ったように笑う先生が好きだったけど、本当に困らせたいわけじゃないの。
「ご結婚、おめでとう、ございます」
涙が溢れて止まらないのに、先生、私は、生徒の中の誰よりも先に――そう、一番に、あなたに「おめでとう」って言いたかった。
私じゃあなたの一番にはなれないから、せめて。
「ありがとう、内藤さん」
古い椅子がぎしりと軋む。先生は立ち上がって、ケトルの電源を入れる。涙でぼやけて見えないけど、ずっと通いつめていたのだから、どこに何があって、先生がどう動くのかを把握している。
「コーヒー、入れますね」
「甘い、やつで」
ミルクも砂糖もたっぷりの、甘いコーヒー。まだまだ子どもの舌に、先生と同じブラックは無理。
だから、私じゃ駄目なんだというのも、わかっている。
差し出されたタオルハンカチをふんだくって、私は先生を睨む。
「恋人が、いないふり、上手、だった」
「すみません」
「そんなに、里見、先生が、好き?」
「まぁ、結婚するくらいには」
先生に怒りをぶつけたって、仕方がない。この怒りは、不甲斐ない私に向けられるべきものだ。先生を、里見先生より先に恋人にできなかった、私への、怒り。奪いたい気持ちを抑え切れない、怒り。
「結婚式は、するの?」
「ええ。四組は全員呼びますよ」
「……行きたくない」
「そんなこと、言わないでください」
甘いコーヒーが私の前に置かれる。先生の誕生日に贈ったペアのマグカップに入ったコーヒー。先生が赤、私が青。里見先生に使わせていないといいんだけど、先生にそういう機微は期待できない。きっと、里見先生もこのマグカップを使ったんだろうと思うと、腹が立つ。
ぐすぐすとしゃくりながら、私は甘くて熱いコーヒーに口をつける。
「里見先生、まだ一年目なのに、結婚早いね」
「教え子ですから」
「あ、そうなんだ。え、まさか、里見先生が高校生だった頃から?」
「いいえ、里見先生が赴任してきてからです」
先生はまた椅子に腰掛ける。私は立ったまま、行儀悪くコーヒーを飲む。
「先生、もてるでしょ?」
「ええ。だから、いつも卒業式のあとが大変なんです」
悪びれもせず、事実を淡々と喋る先生が好き。好きだった。
「卒業して生徒じゃなくなったから付き合ってくれ、って?」
「そうです。だから、『大学を卒業して無事に社会人になったら、ようやく私と対等です。あと五年後にまだ私のことを覚えていたら、また口説きにきてください』と返事をして」
「で、口説きにきたのが、里見先生?」
先生はマグカップに口をつける。頬が赤くなったのは、きっとコーヒーのせいではない。
「……先生、私」
馬鹿げている。私なんて相手にされないことくらい、わかっている。わかっているのに。
想いを伝えないままで、私は、結婚式には、出られない。
「……私ね、先生のことが好き」
先生は私の目をしっかり見つめてくれる。驚きもせず、ただ、穏やかな視線で、私を包んでくれる。
先生、好き。
好きだった。
過去にするには、辛くて悲しいくらい、好きだった。
「一年のときから、ずっと好き。作文を絶対褒めてくれたし、音読のときも声がよく通るねって言ってくれたし、授業中も寝ないでちゃんと起きてるねって私を見てくれてたし……私、ずっと、ずっと、好き、だったの、先生、のこと」
顔を上げられない。涙で前が見えない。タオルハンカチは既にびしょびしょだ。
こんなふうに泣いて先生を困らせて、私はひどい生徒だ。
でも、逃げたくないの。自分の本心から。
そして、先生にも、逃げてもらいたくないの。私の気持ちから。
私はわがままだから、先生にも向き合ってほしいの。私の恋心に。
「先生にとっては、ただの生徒の一人でしかないけど……私にとっては、先生は、大好きな人だから」
先生、大好き。
大好き、だった。
「内藤さん」
穏やかな声に、私は肩を震わせる。私はもう、先生に「五年後に」とは絶対に言われない。だって、先生は、もうすぐで結婚してしまう。五年後、がないことくらい、わかっている。
「私はね、内藤さん」
ふわりと漂うコーヒーの匂い。ラベンダーの匂いより強く、脳に染み付いている。私は、コーヒーの匂いを嗅ぐたびに、先生を思い出すんだ。きっと。
「あなたの気持ちには気づいていましたよ。嬉しくて、くすぐったくて、いつもあなたの笑顔に救われていました」
私、先生を救ってた?
「酷い人間でしょう? 受け入れられない気持ちだと言いながら、その気持ちに救われているだなんて」
先生はマグカップを両手で抱えて私を見つめている。
「教師も人間ですから、生徒にどんな形であれ、ずっと覚えていてもらいたいものなんですよ。恋をしていたという事実は、きっと、ずっと、記憶に残るでしょう?」
「私は、先生を覚えていますっ!」
先生を忘れたりなんかしない。絶対に。こんなに恋焦がれた人のことを、簡単に忘れられるわけがない。
「そう、内藤さんはきっと忘れないでしょう。私が内藤さんのことを忘れないように。でも、忘れてしまうものなんですよ、人間は」
先生は誰かに忘れられてしまったかのような、悲しげな表情で笑っていた。私は先生にそんな顔で笑ってもらいたくない。
先生には、心からの笑顔が、似合うから。
「……私があと五年早く生まれていたら、先生は私を選んでくれた?」
「そう、ですねぇ……里見先生と内藤さん、どちらを選ぶかはわかりませんが、二人が私を取り合っている姿は簡単に想像できるので、ちょっと面白いかもしれません」
「もう、酷いっ」
先生は、笑う。
私、先生の笑顔が大好き。
先生を笑顔にしてくれるなら、里見先生でも、いいよ。
「先生」
「はい、内藤さん」
「里見先生には言わないから、一度だけ、ぎゅって、して」
先生は一瞬目を見開いて、うーんと唸ったあと、マグカップを机に置いた。
「内藤さんが、結婚式に出てくれるなら」
「出ます、出ますから!」
「じゃあ」
先生は、椅子を軋ませ立ち上がったあと、両手を広げて。
「どうぞ?」
私もタオルハンカチを置いて、ゆっくり、先生の体に抱きつく。
柔らかい体。あたたかい。コーヒーの匂いがふわりと鼻をくすぐる。背中に手を回して、ぎゅうと抱きしめる。先生は背中を撫でてくれる。
私とそう身長が変わらないのに、教壇に立つと、いつも大きく見えていた先生。こんな華奢な体で、大きな声を出していたんだなぁと感心する。
「ドレスは決めたの?」
「まだですよ」
「先生のウェディングドレス、絶対に綺麗だよ」
「そうですかねぇ。そうだといいんですけど」
首筋にキスマークでもつけたら、里見先生は驚くだろうか。そんな度胸はないけれど。
「里見先生が羨ましい」
「それは、恋人だから? それとも、男だから?」
「両方ですっ!」
私が五年早く生まれていても、十年早く生まれていても、きっと里見先生には敵わない。先生が「子どもが欲しい」と思ってしまったら、私はそれを叶えてあげられないから。
「先生」
「はい」
「先生のことが好きでした。大好きでした。振ってくれてありがとうございました」
先生は耳元で「ふふっ」と軽やかに笑って。
「ありがとう、内藤さん。私を好きになってくれて」
私は、先生だから、先生を好きになったから、こんなにも幸せな気持ちで、受け入れることができたんだと思う。
私の失恋と、私の進路を。
五年後に、また、先生に会いに来ます。
生徒じゃなく、先生として。
そしたら、先生も、私のことを絶対に忘れないでしょう?
ね、小夜先生?
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それ抜きに、それ抜きでも、とっても切ない美しいお話でした。
リリーブルーさん、感想ありがとうございます(*´∀`)
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