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第一章
15.オルガと少年の脱走結果
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聖教会の建っている丘のふもとは、星降祭り六日目で大賑わいだ。屋台が立ち並び、楽隊が陽気な音楽を奏でる。酔った人々は樽ジョッキを片手に踊り、子どもたちは屋台で売っている食べ物を頬張る。
そんな人混みの中を、少しヨロヨロしながら、素早く歩いていく。
世話係の服は路地で脱ぎ、ほくろも拭って消した。下に普通の服を着ていたため、周りから変に浮くことなく溶け込んでいる、と思う。誰も見ていない路地で少しだけキスをして、リュカと手を繋いだまま足早に歩く。
魚介類が、肉が、焼ける匂い。果実の甘い匂い、酒の匂い。可愛い髪留め、綺麗な刺繍の服、使い勝手が良さそうな食器。
欲しいものなんて、何一つ売っていない。私が今一番欲しいものは、屋台にはない。
リュカはあれからほとんど喋っていない。何を思っているのか、背中からだと伺い知れない。湿った手だけが、彼の緊張を伝えてくる。雑踏の中、ゆっくり隣を歩いてみたいのだけど、そんなことを提案したらきっとリュカは困るだろう。彼はきっと、私を無事に逃がすことしか考えていないだろうから。私を、逃がすことだけ。
「リュカ」
あぁ、嫌だなぁ。リュカよりは人生経験が長い分、彼の考えていることが何となくわかってしまう。それが多分、当たらずも遠からずだということも。
「疲れましたか? あと少しで駅馬車の停留所なので」
近くで楽隊が何かを演奏し始める。陽気な音楽に、人々は手拍子をしたり踊ったり、楽しそうだ。
「あと少しでお別れなの?」
痛いほどに強く握られた手。立ち止まり、リュカはようやく私を見る。今にも泣き出しそうな表情で。
だから、私は、彼の覚悟を理解するのだ。
「一緒には逃げられないのね?」
「何、で」
「何で、だろう。何でだろうね。リュカ」
強く手を引かれ、薄暗く狭い路地へと二人で入り込み、抱き合う。この、人一人通るのがやっとの路地が、世界中の誰にも見つからないように、私たちを隠してくれるといいのに。
リュカは乱暴にキスをして、私の舌を求める。彼の不安を受け止めながら、私は穏やかに求めに応じる。
「オルガ様、僕は、本当は」
「私を殺すつもりだった?」
リュカは否定しない。熱い舌を捩じ込んできて、言葉を奪う。とろけてしまいそう。いっそ、このまま一つに溶けてしまいたい。そして、世界から消えてしまいたい。
そうしたら、誰にも捕まらない。セドリックさえも、諦めてくれるだろう。それが二人にとっての幸せなのだ。
「……あなたを、父への復讐の道具にしようと思っていました。父から奪ってやればいい、と、それだけ考えてきました」
セドリックから私を奪う。心を奪うか、体を奪うか、どんなふうな計画だったのか、何となく、わかる。やっぱり、彼の言葉や行動の中には「嘘」があったのだ。別に今さら驚くことではない。
「でも、いつの間にかあなたのことを好きになっていました。奪うはずの心を、僕のほうが奪われていました。あなたを好きになればなるほど、父のことが憎くてたまらなくなり、そんな自分のことを汚らしく思うようになりました。だって、オルガ様は、いつだって綺麗だったから……」
「そんなこと、ないよ。綺麗なんかじゃない。男に抱かれた痕しかないのよ、私の体には」
「それでも!」
リュカの森の色の瞳から、涙が零れ落ちる。
「それでも、愛してしまったんです、あなたを」
愛してしまった。愛してはいけない女を。
リュカの苦悩がいかほどのものだったのか、私にはわからない。けれど、彼はその気持ちから逃げなかった。逃げられたはずなのに、逃げなかった。私には、それだけで十分だ。それだけで、この先、生きていける。
「私もよ、リュカ。あなたが愛しくて仕方がない」
抱き合い、お互いの熱を求め合う。今だけ。今だけだから、あと少し。
壁に背中をつけ、服の裾をたくし上げる。ちょっとしんどいけれど、片足を壁につくと位置は安定する。リュカもさっさとズボンの前を寛げ、反り立つ杭を私のぬかるんだ蜜口へと宛てがう。
今回は一気に貫かれて、思わずリュカにしがみついてしまう。思った以上に、熱くて太くて、痛いくらいに硬い。
「っあ、あ……リュカ」
「すみません、ベッドのほうがいいですよね」
「ううん、いいの。リュカが抱いてくれるなら、どこでも」
追っ手がかかる前に逃げ出さないといけない。そんなことはわかっている。誰かに気づかれるかもしれない。それもわかっている。
それでも、抱き合いたい。もっと交わりたい。リュカの熱を受け止めたい。
だって、これが最後かもしれないのだから。
「オルガ様、そんなに締めると、出て、しまいます」
「いいよ。中にぜんぶちょうだい」
「駄目です。もっと繋がって、いたい」
リュカは私の太腿を持ち上げ、腰を打ち付けてくる。淫らな水音も押し殺した声も楽隊の賑やかな音楽が消してくれる。
「リュカ、好き」
「僕もです、オルガ様。好き、です」
「っあ、もう少し、で……んんっ」
「ええ、一緒に」
体が揺れる、揺すられる。押し付けられた背中や足が痛くても、埃がついても、気にはならない。頭が真っ白になるくらい、彼のことしか考えられない。リュカのことしか、見えない。
リュカが欲しい。
だから、あなたも、私を欲しがって。
リュカの舌を吸い、唾液を飲む。もう一度彼の名前を呼ぼうとしたとき、それは突然訪れた。
「あぁ……出る」
世界が揺れる。激しく揺すられ、奥を何度も何度も穿たれる。立っていられない。
リュカが最奥で弾けさせるのと、私が彼のものを強く締め付けるのは、同時だった。同時にお互いを求め、お互いを欲した。
リュカは小刻みに何度も震え、最後まで私の中に滾りを注ぎ込む。「もっとオルガ様を感じていたいのに」と汗を浮かべながら、切なく笑う。そんなリュカが、可愛くて、愛しくて仕方ない。
「私だって、このまま時が止まればいいと思うわよ」
「勇者の姉君の力でも、止められませんか?」
「勇者の姉でも、きっと無理よ」
リュカが私の中から出ていくと、切ないような、寂しいような、喪失感がある。物理的にも、心理的にも、私はこれからリュカを失うのだ。
ただ、太腿を伝い落ちてくる熱が、彼の存在を主張している。今まで確かにそこにあったのだと。
リュカは手早く衣服を整え、私を見下ろす。つらそうに、顔を歪めて。
だから、思わず、それを口にしてしまう。
「……あの男を、殺しては駄目よ」
リュカは返事をしない。目も合わせない。
リュカは素直だ。彼の嘘なんてすぐにわかってしまう。まだ未成人。子どもなのだ。私みたいに、ずるくて汚れていない。だから、一抹の不安が残る。
「あの男を許せとは言わない。私も一生許さないもの。でも、殺してはいけない。あなたが危険な目に遭うのだけは、駄目」
リュカは笑う。「善処します」と、目を細めて。
「オルガ様は逃げてください」
「ねぇ、やっぱり一緒には逃げられないの?」
「僕にはまだやることが残っているので、聖教会に戻ります」
リュカは、「父を殺して自分も死ぬ」とは言わなかった。「善処します」という言葉が嘘ではないと思いたい。リュカはただ、私を逃したいだけだと思いたい。
信じて、いいのよね? 本当にリュカを信じてもいいのよね?
「戻ったら折檻されるんじゃない? 心配だわ」
「大丈夫ですよ。いないとされている人を逃したところで、証明する手立てはないのですから。それに、いざとなれば、王子の子であることを暴露すればいいだけのこと。こんな醜聞、大変なことになりますからね、父も僕を咎めることはないでしょう。まぁ、殴られるくらいは覚悟していますが」
「やること、って何?」
「総主教様の下で働き、出世への道を切り開きます。総主教様に気に入られることが一番の近道ですから」
「……本当にそれだけ?」
「もちろん。未成人の僕には何の力もありません。オルガ様を養うことは、今の僕にはできないものですから」
確かに、私とリュカが逃げたところで、未成人の彼に仕事はない。年齢を偽ることができたとしても、多くの賃金は望めない。それに引き換え、女一人なら、住み込みの仕事がたくさんある。聖教会に見つかるため「勇者の姉」という肩書きは使えないけれど、私一人なら何とでもなる。
おそらく、リュカは、そう考えているはずだ。私一人のほうが生活はしやすいだろうと。
けれど、貧乏でも、私はリュカと一緒にいたい。そばにいたい。いてほしい。
……その願いは、きっと彼には届かない。彼は、決めたらもう動かない。本当に、頑固な子。不器用なリュカ。
「成人後、僕は聖騎士の道へ進みます。そして、必ずあなたを迎えに行きます。何年かかっても、必ず」
「うん、待ってる」
「待っていてください、オルガ」
もっと、名前を呼んで。もっと、キスして、抱きしめて。
もっと、もっと……あぁ、愛し合いたかった。全然、足りない。まだ足りない。けれど、私たちにはもう時間がない。
大通りでは、楽隊がゆっくりとした音楽を奏で始める。それに合わせ、狭い路地で、二人踊る。間に格子がない、初めてのダンス。キスをして、額を寄せ合って、踊る。
幸せだった。それは確かに、幸せな時間だった。
音楽が終わったあとも、しばらく抱き合って揺れていた。けれど、時間は刻一刻と過ぎていく。成人の儀が終わったのか、新成人たちを出迎える声が聞こえ始める。
幸せな時間は、終わりだ。
私たちは路地から出て、駅馬車の停留所へ向かう。王族専用の騎士も、聖職者たちもいない。私がいなくなったことは、まだ知られていないようだ。
「これはどこに行く馬車ですか?」
「アルシェ経由、モラン地方行きだよ。あと少しで出発だよ。乗るなら前金ね」
四頭立ての馬車を選び、御者に声をかけるリュカ。その一つの答えを聞き「ラプラード様の領地です」と頷く。リュカが元々世話係をしていた聖職者だ。私の故郷も、リュカの故郷も追っ手が来るかもしれない。だとすると、縁もゆかりもないモラン地方なら安全だろう。リュカも同じように考えたようだ。
「乗ります」と伝え、近くにいた運行業者の男に料金を支払う。そして、幌を張り、長椅子が固定してあるだけの客車に乗る。
リュカは、停留所に立ったままだ。
「必ず迎えに行きます」
「うん、ずっと待ってる」
「もし子どもができていたら……」
リュカは私を見上げ、微笑む。
「生んでくれると、嬉しいです」
客車からリュカを抱きしめる。出発を待つ老夫婦が「お熱いねぇ」なんて茶化してくるけれど、気にせず軽くキスをする。
「リュカ、ありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございます。お元気で」
リュカの涙を拭ってあげる。彼は意外と泣き虫だ。頑固で、優しくて、強い人。大好きな人。
「愛しています、オルガ」
「リュカ、愛してる」
車輪留めを外した御者が出発を告げ、ガタンと車体が揺れる。老夫婦が「危ないよ」「座りなさい」と促してくれたので、慌てて彼らの隣へ座る。
リュカがずっと手を振っている。その姿が、どんどん、人混みに紛れ、どんどん、小さくなっていく。
お互いの名前を叫ぶことはない。追っ手が来ているかもしれないから、そんな愚かなことは、しない。
「リュカ……っ」
涙が溢れ、リュカの姿が見られなくなる。
今生の別れではない。いつか会えると信じている。けれど、けれど、それがいつになるのか、本当に会えるのか、わからない。わからない。
「リュカ……」
老婦人が私の肩を抱き、背中をさすってくれる。それに甘え、私は涙を流す。子どものように、わあわあと。
一緒に逃げたかった。
一緒に、生きて行きたかった。
もっともっと、愛し合いたかった。
それが叶わないなら、格子の部屋で過ごすべきだった。私の体がどうなったって、心はリュカにあるのだと、強く生きられたら良かった。
リュカは大丈夫だと笑っていたけれど、本当に大丈夫だという保証はない。私を逃した罪だとして、殺される可能性だってある。セドリックが許すはずがないことくらい、殴られるだけではすまないことくらい、知っている。
けれど、リュカはそれを選んだ。
殺されるかもしれない道を進むことを選んだ。
そうすれば、私に追っ手がかからないのではないかと、彼なりに考えた上で、そう判断した。
わかっている。わかっている。
リュカは私を愛してくれた。愛してくれている。
嘘偽りなく、私を愛してくれたのだ。
そして、私も彼を愛した。
だから、苦しくて、寂しくて、つらくて、仕方がない。愛した人との別れがこんなに、こんなにも悲しいだなんて、知らなかったのだ。
そんな人混みの中を、少しヨロヨロしながら、素早く歩いていく。
世話係の服は路地で脱ぎ、ほくろも拭って消した。下に普通の服を着ていたため、周りから変に浮くことなく溶け込んでいる、と思う。誰も見ていない路地で少しだけキスをして、リュカと手を繋いだまま足早に歩く。
魚介類が、肉が、焼ける匂い。果実の甘い匂い、酒の匂い。可愛い髪留め、綺麗な刺繍の服、使い勝手が良さそうな食器。
欲しいものなんて、何一つ売っていない。私が今一番欲しいものは、屋台にはない。
リュカはあれからほとんど喋っていない。何を思っているのか、背中からだと伺い知れない。湿った手だけが、彼の緊張を伝えてくる。雑踏の中、ゆっくり隣を歩いてみたいのだけど、そんなことを提案したらきっとリュカは困るだろう。彼はきっと、私を無事に逃がすことしか考えていないだろうから。私を、逃がすことだけ。
「リュカ」
あぁ、嫌だなぁ。リュカよりは人生経験が長い分、彼の考えていることが何となくわかってしまう。それが多分、当たらずも遠からずだということも。
「疲れましたか? あと少しで駅馬車の停留所なので」
近くで楽隊が何かを演奏し始める。陽気な音楽に、人々は手拍子をしたり踊ったり、楽しそうだ。
「あと少しでお別れなの?」
痛いほどに強く握られた手。立ち止まり、リュカはようやく私を見る。今にも泣き出しそうな表情で。
だから、私は、彼の覚悟を理解するのだ。
「一緒には逃げられないのね?」
「何、で」
「何で、だろう。何でだろうね。リュカ」
強く手を引かれ、薄暗く狭い路地へと二人で入り込み、抱き合う。この、人一人通るのがやっとの路地が、世界中の誰にも見つからないように、私たちを隠してくれるといいのに。
リュカは乱暴にキスをして、私の舌を求める。彼の不安を受け止めながら、私は穏やかに求めに応じる。
「オルガ様、僕は、本当は」
「私を殺すつもりだった?」
リュカは否定しない。熱い舌を捩じ込んできて、言葉を奪う。とろけてしまいそう。いっそ、このまま一つに溶けてしまいたい。そして、世界から消えてしまいたい。
そうしたら、誰にも捕まらない。セドリックさえも、諦めてくれるだろう。それが二人にとっての幸せなのだ。
「……あなたを、父への復讐の道具にしようと思っていました。父から奪ってやればいい、と、それだけ考えてきました」
セドリックから私を奪う。心を奪うか、体を奪うか、どんなふうな計画だったのか、何となく、わかる。やっぱり、彼の言葉や行動の中には「嘘」があったのだ。別に今さら驚くことではない。
「でも、いつの間にかあなたのことを好きになっていました。奪うはずの心を、僕のほうが奪われていました。あなたを好きになればなるほど、父のことが憎くてたまらなくなり、そんな自分のことを汚らしく思うようになりました。だって、オルガ様は、いつだって綺麗だったから……」
「そんなこと、ないよ。綺麗なんかじゃない。男に抱かれた痕しかないのよ、私の体には」
「それでも!」
リュカの森の色の瞳から、涙が零れ落ちる。
「それでも、愛してしまったんです、あなたを」
愛してしまった。愛してはいけない女を。
リュカの苦悩がいかほどのものだったのか、私にはわからない。けれど、彼はその気持ちから逃げなかった。逃げられたはずなのに、逃げなかった。私には、それだけで十分だ。それだけで、この先、生きていける。
「私もよ、リュカ。あなたが愛しくて仕方がない」
抱き合い、お互いの熱を求め合う。今だけ。今だけだから、あと少し。
壁に背中をつけ、服の裾をたくし上げる。ちょっとしんどいけれど、片足を壁につくと位置は安定する。リュカもさっさとズボンの前を寛げ、反り立つ杭を私のぬかるんだ蜜口へと宛てがう。
今回は一気に貫かれて、思わずリュカにしがみついてしまう。思った以上に、熱くて太くて、痛いくらいに硬い。
「っあ、あ……リュカ」
「すみません、ベッドのほうがいいですよね」
「ううん、いいの。リュカが抱いてくれるなら、どこでも」
追っ手がかかる前に逃げ出さないといけない。そんなことはわかっている。誰かに気づかれるかもしれない。それもわかっている。
それでも、抱き合いたい。もっと交わりたい。リュカの熱を受け止めたい。
だって、これが最後かもしれないのだから。
「オルガ様、そんなに締めると、出て、しまいます」
「いいよ。中にぜんぶちょうだい」
「駄目です。もっと繋がって、いたい」
リュカは私の太腿を持ち上げ、腰を打ち付けてくる。淫らな水音も押し殺した声も楽隊の賑やかな音楽が消してくれる。
「リュカ、好き」
「僕もです、オルガ様。好き、です」
「っあ、もう少し、で……んんっ」
「ええ、一緒に」
体が揺れる、揺すられる。押し付けられた背中や足が痛くても、埃がついても、気にはならない。頭が真っ白になるくらい、彼のことしか考えられない。リュカのことしか、見えない。
リュカが欲しい。
だから、あなたも、私を欲しがって。
リュカの舌を吸い、唾液を飲む。もう一度彼の名前を呼ぼうとしたとき、それは突然訪れた。
「あぁ……出る」
世界が揺れる。激しく揺すられ、奥を何度も何度も穿たれる。立っていられない。
リュカが最奥で弾けさせるのと、私が彼のものを強く締め付けるのは、同時だった。同時にお互いを求め、お互いを欲した。
リュカは小刻みに何度も震え、最後まで私の中に滾りを注ぎ込む。「もっとオルガ様を感じていたいのに」と汗を浮かべながら、切なく笑う。そんなリュカが、可愛くて、愛しくて仕方ない。
「私だって、このまま時が止まればいいと思うわよ」
「勇者の姉君の力でも、止められませんか?」
「勇者の姉でも、きっと無理よ」
リュカが私の中から出ていくと、切ないような、寂しいような、喪失感がある。物理的にも、心理的にも、私はこれからリュカを失うのだ。
ただ、太腿を伝い落ちてくる熱が、彼の存在を主張している。今まで確かにそこにあったのだと。
リュカは手早く衣服を整え、私を見下ろす。つらそうに、顔を歪めて。
だから、思わず、それを口にしてしまう。
「……あの男を、殺しては駄目よ」
リュカは返事をしない。目も合わせない。
リュカは素直だ。彼の嘘なんてすぐにわかってしまう。まだ未成人。子どもなのだ。私みたいに、ずるくて汚れていない。だから、一抹の不安が残る。
「あの男を許せとは言わない。私も一生許さないもの。でも、殺してはいけない。あなたが危険な目に遭うのだけは、駄目」
リュカは笑う。「善処します」と、目を細めて。
「オルガ様は逃げてください」
「ねぇ、やっぱり一緒には逃げられないの?」
「僕にはまだやることが残っているので、聖教会に戻ります」
リュカは、「父を殺して自分も死ぬ」とは言わなかった。「善処します」という言葉が嘘ではないと思いたい。リュカはただ、私を逃したいだけだと思いたい。
信じて、いいのよね? 本当にリュカを信じてもいいのよね?
「戻ったら折檻されるんじゃない? 心配だわ」
「大丈夫ですよ。いないとされている人を逃したところで、証明する手立てはないのですから。それに、いざとなれば、王子の子であることを暴露すればいいだけのこと。こんな醜聞、大変なことになりますからね、父も僕を咎めることはないでしょう。まぁ、殴られるくらいは覚悟していますが」
「やること、って何?」
「総主教様の下で働き、出世への道を切り開きます。総主教様に気に入られることが一番の近道ですから」
「……本当にそれだけ?」
「もちろん。未成人の僕には何の力もありません。オルガ様を養うことは、今の僕にはできないものですから」
確かに、私とリュカが逃げたところで、未成人の彼に仕事はない。年齢を偽ることができたとしても、多くの賃金は望めない。それに引き換え、女一人なら、住み込みの仕事がたくさんある。聖教会に見つかるため「勇者の姉」という肩書きは使えないけれど、私一人なら何とでもなる。
おそらく、リュカは、そう考えているはずだ。私一人のほうが生活はしやすいだろうと。
けれど、貧乏でも、私はリュカと一緒にいたい。そばにいたい。いてほしい。
……その願いは、きっと彼には届かない。彼は、決めたらもう動かない。本当に、頑固な子。不器用なリュカ。
「成人後、僕は聖騎士の道へ進みます。そして、必ずあなたを迎えに行きます。何年かかっても、必ず」
「うん、待ってる」
「待っていてください、オルガ」
もっと、名前を呼んで。もっと、キスして、抱きしめて。
もっと、もっと……あぁ、愛し合いたかった。全然、足りない。まだ足りない。けれど、私たちにはもう時間がない。
大通りでは、楽隊がゆっくりとした音楽を奏で始める。それに合わせ、狭い路地で、二人踊る。間に格子がない、初めてのダンス。キスをして、額を寄せ合って、踊る。
幸せだった。それは確かに、幸せな時間だった。
音楽が終わったあとも、しばらく抱き合って揺れていた。けれど、時間は刻一刻と過ぎていく。成人の儀が終わったのか、新成人たちを出迎える声が聞こえ始める。
幸せな時間は、終わりだ。
私たちは路地から出て、駅馬車の停留所へ向かう。王族専用の騎士も、聖職者たちもいない。私がいなくなったことは、まだ知られていないようだ。
「これはどこに行く馬車ですか?」
「アルシェ経由、モラン地方行きだよ。あと少しで出発だよ。乗るなら前金ね」
四頭立ての馬車を選び、御者に声をかけるリュカ。その一つの答えを聞き「ラプラード様の領地です」と頷く。リュカが元々世話係をしていた聖職者だ。私の故郷も、リュカの故郷も追っ手が来るかもしれない。だとすると、縁もゆかりもないモラン地方なら安全だろう。リュカも同じように考えたようだ。
「乗ります」と伝え、近くにいた運行業者の男に料金を支払う。そして、幌を張り、長椅子が固定してあるだけの客車に乗る。
リュカは、停留所に立ったままだ。
「必ず迎えに行きます」
「うん、ずっと待ってる」
「もし子どもができていたら……」
リュカは私を見上げ、微笑む。
「生んでくれると、嬉しいです」
客車からリュカを抱きしめる。出発を待つ老夫婦が「お熱いねぇ」なんて茶化してくるけれど、気にせず軽くキスをする。
「リュカ、ありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございます。お元気で」
リュカの涙を拭ってあげる。彼は意外と泣き虫だ。頑固で、優しくて、強い人。大好きな人。
「愛しています、オルガ」
「リュカ、愛してる」
車輪留めを外した御者が出発を告げ、ガタンと車体が揺れる。老夫婦が「危ないよ」「座りなさい」と促してくれたので、慌てて彼らの隣へ座る。
リュカがずっと手を振っている。その姿が、どんどん、人混みに紛れ、どんどん、小さくなっていく。
お互いの名前を叫ぶことはない。追っ手が来ているかもしれないから、そんな愚かなことは、しない。
「リュカ……っ」
涙が溢れ、リュカの姿が見られなくなる。
今生の別れではない。いつか会えると信じている。けれど、けれど、それがいつになるのか、本当に会えるのか、わからない。わからない。
「リュカ……」
老婦人が私の肩を抱き、背中をさすってくれる。それに甘え、私は涙を流す。子どものように、わあわあと。
一緒に逃げたかった。
一緒に、生きて行きたかった。
もっともっと、愛し合いたかった。
それが叶わないなら、格子の部屋で過ごすべきだった。私の体がどうなったって、心はリュカにあるのだと、強く生きられたら良かった。
リュカは大丈夫だと笑っていたけれど、本当に大丈夫だという保証はない。私を逃した罪だとして、殺される可能性だってある。セドリックが許すはずがないことくらい、殴られるだけではすまないことくらい、知っている。
けれど、リュカはそれを選んだ。
殺されるかもしれない道を進むことを選んだ。
そうすれば、私に追っ手がかからないのではないかと、彼なりに考えた上で、そう判断した。
わかっている。わかっている。
リュカは私を愛してくれた。愛してくれている。
嘘偽りなく、私を愛してくれたのだ。
そして、私も彼を愛した。
だから、苦しくて、寂しくて、つらくて、仕方がない。愛した人との別れがこんなに、こんなにも悲しいだなんて、知らなかったのだ。
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