【R18】勇者の姉君は塔の上

千咲

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第二章

22.リュカと父

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 クラリッサ様から解放されたときには、心身ともに疲れてしまっていた。
 何だろう、クラリッサ様と話をすると、ものすごく疲れる。父も同じだったんだろうか。だとすると、それには多少同情できる。毎日あの狂気と向かい合っていると、正気を保てるか自信がない。使いの男はそうはならないのだろうか。いや、彼ももう狂っているのかもしれない。
 疲れた。もう部屋で眠ってしまいたい。
 けれど、今夜は塔へ行かなければならない。
 クラリッサ様の企みに気づいた父は、癒やしを求めるはずだ。オルガ様を抱きたいはずだ。オルガ様の不在が判明するのは間違いない。
 オルガ様がいなくなっていることを知った父がどんな顔をするのか、見てみたい。何しろ、披露宴で父の姿は見られなかったのだから。
 絶望する顔を見て、笑ってやろうじゃないか。そうして、逆上してくるようなことがあれば、階段から突き飛ばして――そんなことを考える。僕は意外と非情な人間らしい。

 父は王城から塔に通じる地下通路を使ってやって来る。いつも供の者は連れていない。今夜もそうだろう。
 塔にはまだ来ていないことを確認したあと、物陰に隠れて父が地下通路の鍵を開けるのを待つ。
 星降祭りの最終日、酔った人々は歌い踊る。今日までの宴を誰もが楽しんでいるのだ。その声や音は未だによく聞こえる。
 しかし、宴は終わる。楽隊の音楽が途絶え、人々の声が少し抑えられた真夜中、カンテラを持った父がやって来た。
 父の表情は見えない。憔悴しているのか、笑っているのか、窺い知ることはできない。
 父が塔の上を目指す。僕は足音を立てないようにしてそれを追いかける。

「オルガ」

 最上階、父はカンテラを壁にかけたまま、部屋に入ることなく僕が使っていた椅子に腰掛けている。なぜ入室しないのか、わからない。僕はその様子を何段か下からこっそり窺う。
 オルガ様のベッドには、膨らみがある。あれは食事の際に床に敷いていた毛布だ。オルガ様は今頃、どこかの宿場町で休んでいるか、馬車に揺られているだろう。
 無事であってほしい。聖教会やこの男に捕らえられることなく、生き延びてほしい。

「寝ているのか、オルガ」

 静かな声だ。オルガ様のベッドに向かい、父が話しかけている。オルガ様はそこにはいないというのに。

「……私は、何を間違えた? どこで間違った?」

 最初からだ。
 クラリッサ様と愛のない結婚をしたとき。母を抱いたとき。オルガ様をここに閉じ込めたとき。すべて、間違いだ。まだ、それがわからないのか?

「……私はいつかお前の故郷へ行ってみたいと思っていた。しかし、もう、それも叶わない。いずれ国王の親となる以上、私はここから出られそうにない」

 それはクラリッサ様の企ての一部だ。父に自由を与えないための復讐。そして、落胤たる僕を見張るための計画。

「私はどうすれば良かったのだ? 王城という鳥籠の中で愛を知らぬまま朽ち果てるのを待てば良かったのか? ……いや、それが王族の務めであった……そうであった。私は、鳥籠の中で生きねばならぬ。私は愛を欲してはならなかったのだ」

 そうだ。それが、間違いだ。
 哀れな男だ。家族を――クラリッサ様やドミニク様を愛することができれば良かったのに。なぜ、そうしなかったのか。不思議で仕方ない。

「私は自由なお前が羨ましかったのかもしれん。だから、閉じ込めて、愛を乞いたかったのかもしれん。なぁ、オルガ。私を愛してはくれまいか」

 惨めな男だ。愛してはくれない女に愛を乞う。なんて滑稽な姿だろう。
 しかし、笑うことができない。同情なんてできないはずなのに。嘲ってやりたいはずなのに。

「いや、愛してくれるはずもないか……私はお前の自由を奪い、純潔を散らし、体に消えることのない傷をつけた。こんな男を、愛してくれ、なんて」

 そうだ、都合が良すぎる。オルガ様の体も心も傷つけたくせに、愛してほしいだなんて、都合が良すぎる。馬鹿じゃないのか。いや、馬鹿なんだろうな。だから、クラリッサ様の狂気に気づかなかったんだろう。
 どこまでも愚かな男。これが僕の父親か。

「オルガ、愛している」

 父はうなだれたまま、そう零す。届くことのない愛を呟く。

「私を許してくれ」

 涙を流しながら、誰もいない空間に向かって許しを乞う。
 これが僕の父親なのか。情けなくて見ていられない。僕の中でどす黒く渦巻いていた感情が、一気に凪いでいく。そう、一気に――。

「オルガ様はもうそこにはいません」

 思わず、立ち上がっていた。父の視線がさまよい、僕を見つける。涙に濡れる頬が光る。「なぜ」と唇が動く。

「オルガ様は、もう王都にはいません。僕が逃しました」

 父は無言で、しかし慌てた様子で、扉を解錠する。そして、フラフラとした足取りでベッドに近づき、「嘘だ」とその場に崩れた。彼の目には、誰もいないベッドが映っているはずだ。

「……そうか、逃げたのか。それが、幸せなのか……」

 力なくそう零し、肩を震わせる。泣いているのだろう。

「私が憎いか? だから、オルガを奪ったのか? オルガは、オルガはどこにいる? 私の愛しいオルガはどこへ行った? あぁ、オルガ……どこへ……!」

 あぁ、憎いとも。恨んでいるとも。オルガ様と同じように左足を不自由にしてやりたいくらいに。殺してやりたいと思ったくらいに。
 でも、父のことが憎いからオルガ様を奪ったわけじゃない。オルガ様を愛しているからこそ、逃したんだ。自由を取り戻させたんだ。

「私のオルガ……どこへ……」
「オルガ様はあなたのものではありません。もちろん、僕のものでもない。まだわかりませんか? オルガ様は、自分の意志で自由を取り戻したんです」
「オルガ……オルガは……どこだ……」

 父はベッドの上に乗り、毛布を抱きしめる。毛布に頬ずりをし、オルガ様の名を力なく呼ぶ。何度も、何度も、何度も。
 ……狂ったか。
 愛を知らず、愛を欲した男は、それが手に入れられなかった。
 おそらく、クラリッサ様はこれさえも想定済みなのだろう。でなければ、オルガ様を逃している最中に僕の邪魔をしたはずだ。しかし、オルガ様は無事に王都から逃げることができた。所在は明らかになっているようだけど、僕が裏切らない限りは、オルガ様は無事のはずだ。

「オルガ……愛している……オルガ」

 うわ言のようにオルガ様の名前を呼ぶ父を一瞥し、僕は階段を降りる。
 見ていられなかった。
 母を失ったときも、父はこんなふうだったのだろうか。母の名を呼び、ベッドで泣き続けたのだろうか。……わからない。知りたくもない。

 僕は、父をどうしたかったのだろう。
 確かに、憎い気持ちや恨む気持ちはあった。母やオルガ様のことを考えると、殺したくて殺したくて仕方なかった。父のやったことはそれくらいの罪になるものだ、と息巻いていた。
 しかし、僕は結局、武器を持たずに塔へ来た。階段の最上段から父を突き落とすこともしなかった。
 馬鹿らしい。あれほど憎んだのに、あれほど殺したいと願ったのに、結局、あのクラリッサ様と話したことにより、父への殺意が萎えてしまったのだ。
 萎えるどころか、さっきの父に対しては、哀れだと同情する気持ちさえ浮かんできた。なんて愚かで、惨めな男。父には、ただ、それだけの感情しか持ち合わせていない。
 そう、それだけになってしまった。そんな父を憎み、殺したところで……何になると言うんだ。哀れな男が死ぬ様を見たところで……嬉しいと思えるわけがない。
 何より、オルガ様がそんなことを望むわけ、ないじゃないか。それだけはわかる。あの人は、優しすぎるから。強いから。
 オルガ様ならきっと、あんな父のことさえも許すはずだ。きっと、そうだ。

「……終わりましたか」

 塔を降りると、男が立っていた。いつからそこにいたのか。クラリッサ様の使いの者、だ。

「セドリック王子は、最上階にいます」
「わかりました。こちらで引き取りましょう」

 引き取る……モノのような言われ方だな。仮にも王子であるというのに。
 クラリッサ様が父のことをどう思っていたのか、よくわかる。もちろん、父の自業自得だ。

「父は、どうなりますか?」
「クラリッサ様は寛大なお方ですから、王子はより良い環境で暮らしていくようになるかと」

 寛大なお方、ね。僕を殺さなかったのも、オルガ様の脱走を見逃したのも、寛大な措置だったわけか。
 僕には、そうは思えないけど。

「オルガ様は?」
「今のところ凶報は届いておりません」
「僕はどうなりますか?」
「クラリッサ様の仰る通りになされば、悪いようにはなりません。追って沙汰があるでしょう」

 わかりました、と呟いて僕は塔を後にする。
 もう、ここに来ることはないだろう。暗闇の中、不気味に浮かび上がる、強固な檻を見上げる。

 捕らわれていたオルガ様はもういない。
 愛に囚われた父がどうなるのか、わからない。
 僕はいつ、ここから抜け出せるのだろう。抜け出すことができるのか、どうか。それさえもわからない。

 ただ、いつか、僕はオルガ様のもとへ戻るのだ。何年かかっても、必ず。愛しい彼女のもとへ。
 生きる目的がある。目標がある。だからこそ、何があっても耐えられる。
 それだけは、確かなのだ。



 後日、総主教の交代が発表された。世話係の子どもたちを自らの慰み物にしていたことが明るみになったためだ。僕が仕込んだ媚薬を、誰かがうまく処理した結果らしい。……誰か、が。詳しくは知らないほうが身のためだ。
 そして、僕は、クラリッサ様の後ろ盾を得て、騎士養成学校への入学を許可された。卒業試験後には、王立騎士団へ入団できる可能性が非常に高い。いや、クラリッサ様の後ろ盾がある限り、入団は容易なことだろう。

 オルガ様に、会いたい。けれど、会うことはできない。
 クラリッサ様の機嫌を伺い続ける窮屈な人生になるが、それでもいい。
 僕が彼女を裏切らない限り、オルガ様の生が確保されるのだから。愛しい人が自由に生きられるのだから、簡単なことだ。

 いつか。
 その日を、僕はずっと、夢見ている。
 ずっと。ずっと。


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