22 / 26
第二章
22.リュカと父
しおりを挟む
クラリッサ様から解放されたときには、心身ともに疲れてしまっていた。
何だろう、クラリッサ様と話をすると、ものすごく疲れる。父も同じだったんだろうか。だとすると、それには多少同情できる。毎日あの狂気と向かい合っていると、正気を保てるか自信がない。使いの男はそうはならないのだろうか。いや、彼ももう狂っているのかもしれない。
疲れた。もう部屋で眠ってしまいたい。
けれど、今夜は塔へ行かなければならない。
クラリッサ様の企みに気づいた父は、癒やしを求めるはずだ。オルガ様を抱きたいはずだ。オルガ様の不在が判明するのは間違いない。
オルガ様がいなくなっていることを知った父がどんな顔をするのか、見てみたい。何しろ、披露宴で父の姿は見られなかったのだから。
絶望する顔を見て、笑ってやろうじゃないか。そうして、逆上してくるようなことがあれば、階段から突き飛ばして――そんなことを考える。僕は意外と非情な人間らしい。
父は王城から塔に通じる地下通路を使ってやって来る。いつも供の者は連れていない。今夜もそうだろう。
塔にはまだ来ていないことを確認したあと、物陰に隠れて父が地下通路の鍵を開けるのを待つ。
星降祭りの最終日、酔った人々は歌い踊る。今日までの宴を誰もが楽しんでいるのだ。その声や音は未だによく聞こえる。
しかし、宴は終わる。楽隊の音楽が途絶え、人々の声が少し抑えられた真夜中、カンテラを持った父がやって来た。
父の表情は見えない。憔悴しているのか、笑っているのか、窺い知ることはできない。
父が塔の上を目指す。僕は足音を立てないようにしてそれを追いかける。
「オルガ」
最上階、父はカンテラを壁にかけたまま、部屋に入ることなく僕が使っていた椅子に腰掛けている。なぜ入室しないのか、わからない。僕はその様子を何段か下からこっそり窺う。
オルガ様のベッドには、膨らみがある。あれは食事の際に床に敷いていた毛布だ。オルガ様は今頃、どこかの宿場町で休んでいるか、馬車に揺られているだろう。
無事であってほしい。聖教会やこの男に捕らえられることなく、生き延びてほしい。
「寝ているのか、オルガ」
静かな声だ。オルガ様のベッドに向かい、父が話しかけている。オルガ様はそこにはいないというのに。
「……私は、何を間違えた? どこで間違った?」
最初からだ。
クラリッサ様と愛のない結婚をしたとき。母を抱いたとき。オルガ様をここに閉じ込めたとき。すべて、間違いだ。まだ、それがわからないのか?
「……私はいつかお前の故郷へ行ってみたいと思っていた。しかし、もう、それも叶わない。いずれ国王の親となる以上、私はここから出られそうにない」
それはクラリッサ様の企ての一部だ。父に自由を与えないための復讐。そして、落胤たる僕を見張るための計画。
「私はどうすれば良かったのだ? 王城という鳥籠の中で愛を知らぬまま朽ち果てるのを待てば良かったのか? ……いや、それが王族の務めであった……そうであった。私は、鳥籠の中で生きねばならぬ。私は愛を欲してはならなかったのだ」
そうだ。それが、間違いだ。
哀れな男だ。家族を――クラリッサ様やドミニク様を愛することができれば良かったのに。なぜ、そうしなかったのか。不思議で仕方ない。
「私は自由なお前が羨ましかったのかもしれん。だから、閉じ込めて、愛を乞いたかったのかもしれん。なぁ、オルガ。私を愛してはくれまいか」
惨めな男だ。愛してはくれない女に愛を乞う。なんて滑稽な姿だろう。
しかし、笑うことができない。同情なんてできないはずなのに。嘲ってやりたいはずなのに。
「いや、愛してくれるはずもないか……私はお前の自由を奪い、純潔を散らし、体に消えることのない傷をつけた。こんな男を、愛してくれ、なんて」
そうだ、都合が良すぎる。オルガ様の体も心も傷つけたくせに、愛してほしいだなんて、都合が良すぎる。馬鹿じゃないのか。いや、馬鹿なんだろうな。だから、クラリッサ様の狂気に気づかなかったんだろう。
どこまでも愚かな男。これが僕の父親か。
「オルガ、愛している」
父はうなだれたまま、そう零す。届くことのない愛を呟く。
「私を許してくれ」
涙を流しながら、誰もいない空間に向かって許しを乞う。
これが僕の父親なのか。情けなくて見ていられない。僕の中でどす黒く渦巻いていた感情が、一気に凪いでいく。そう、一気に――。
「オルガ様はもうそこにはいません」
思わず、立ち上がっていた。父の視線がさまよい、僕を見つける。涙に濡れる頬が光る。「なぜ」と唇が動く。
「オルガ様は、もう王都にはいません。僕が逃しました」
父は無言で、しかし慌てた様子で、扉を解錠する。そして、フラフラとした足取りでベッドに近づき、「嘘だ」とその場に崩れた。彼の目には、誰もいないベッドが映っているはずだ。
「……そうか、逃げたのか。それが、幸せなのか……」
力なくそう零し、肩を震わせる。泣いているのだろう。
「私が憎いか? だから、オルガを奪ったのか? オルガは、オルガはどこにいる? 私の愛しいオルガはどこへ行った? あぁ、オルガ……どこへ……!」
あぁ、憎いとも。恨んでいるとも。オルガ様と同じように左足を不自由にしてやりたいくらいに。殺してやりたいと思ったくらいに。
でも、父のことが憎いからオルガ様を奪ったわけじゃない。オルガ様を愛しているからこそ、逃したんだ。自由を取り戻させたんだ。
「私のオルガ……どこへ……」
「オルガ様はあなたのものではありません。もちろん、僕のものでもない。まだわかりませんか? オルガ様は、自分の意志で自由を取り戻したんです」
「オルガ……オルガは……どこだ……」
父はベッドの上に乗り、毛布を抱きしめる。毛布に頬ずりをし、オルガ様の名を力なく呼ぶ。何度も、何度も、何度も。
……狂ったか。
愛を知らず、愛を欲した男は、それが手に入れられなかった。
おそらく、クラリッサ様はこれさえも想定済みなのだろう。でなければ、オルガ様を逃している最中に僕の邪魔をしたはずだ。しかし、オルガ様は無事に王都から逃げることができた。所在は明らかになっているようだけど、僕が裏切らない限りは、オルガ様は無事のはずだ。
「オルガ……愛している……オルガ」
うわ言のようにオルガ様の名前を呼ぶ父を一瞥し、僕は階段を降りる。
見ていられなかった。
母を失ったときも、父はこんなふうだったのだろうか。母の名を呼び、ベッドで泣き続けたのだろうか。……わからない。知りたくもない。
僕は、父をどうしたかったのだろう。
確かに、憎い気持ちや恨む気持ちはあった。母やオルガ様のことを考えると、殺したくて殺したくて仕方なかった。父のやったことはそれくらいの罪になるものだ、と息巻いていた。
しかし、僕は結局、武器を持たずに塔へ来た。階段の最上段から父を突き落とすこともしなかった。
馬鹿らしい。あれほど憎んだのに、あれほど殺したいと願ったのに、結局、あのクラリッサ様と話したことにより、父への殺意が萎えてしまったのだ。
萎えるどころか、さっきの父に対しては、哀れだと同情する気持ちさえ浮かんできた。なんて愚かで、惨めな男。父には、ただ、それだけの感情しか持ち合わせていない。
そう、それだけになってしまった。そんな父を憎み、殺したところで……何になると言うんだ。哀れな男が死ぬ様を見たところで……嬉しいと思えるわけがない。
何より、オルガ様がそんなことを望むわけ、ないじゃないか。それだけはわかる。あの人は、優しすぎるから。強いから。
オルガ様ならきっと、あんな父のことさえも許すはずだ。きっと、そうだ。
「……終わりましたか」
塔を降りると、男が立っていた。いつからそこにいたのか。クラリッサ様の使いの者、だ。
「セドリック王子は、最上階にいます」
「わかりました。こちらで引き取りましょう」
引き取る……モノのような言われ方だな。仮にも王子であるというのに。
クラリッサ様が父のことをどう思っていたのか、よくわかる。もちろん、父の自業自得だ。
「父は、どうなりますか?」
「クラリッサ様は寛大なお方ですから、王子はより良い環境で暮らしていくようになるかと」
寛大なお方、ね。僕を殺さなかったのも、オルガ様の脱走を見逃したのも、寛大な措置だったわけか。
僕には、そうは思えないけど。
「オルガ様は?」
「今のところ凶報は届いておりません」
「僕はどうなりますか?」
「クラリッサ様の仰る通りになされば、悪いようにはなりません。追って沙汰があるでしょう」
わかりました、と呟いて僕は塔を後にする。
もう、ここに来ることはないだろう。暗闇の中、不気味に浮かび上がる、強固な檻を見上げる。
捕らわれていたオルガ様はもういない。
愛に囚われた父がどうなるのか、わからない。
僕はいつ、ここから抜け出せるのだろう。抜け出すことができるのか、どうか。それさえもわからない。
ただ、いつか、僕はオルガ様のもとへ戻るのだ。何年かかっても、必ず。愛しい彼女のもとへ。
生きる目的がある。目標がある。だからこそ、何があっても耐えられる。
それだけは、確かなのだ。
後日、総主教の交代が発表された。世話係の子どもたちを自らの慰み物にしていたことが明るみになったためだ。僕が仕込んだ媚薬を、誰かがうまく処理した結果らしい。……誰か、が。詳しくは知らないほうが身のためだ。
そして、僕は、クラリッサ様の後ろ盾を得て、騎士養成学校への入学を許可された。卒業試験後には、王立騎士団へ入団できる可能性が非常に高い。いや、クラリッサ様の後ろ盾がある限り、入団は容易なことだろう。
オルガ様に、会いたい。けれど、会うことはできない。
クラリッサ様の機嫌を伺い続ける窮屈な人生になるが、それでもいい。
僕が彼女を裏切らない限り、オルガ様の生が確保されるのだから。愛しい人が自由に生きられるのだから、簡単なことだ。
いつか。
その日を、僕はずっと、夢見ている。
ずっと。ずっと。
何だろう、クラリッサ様と話をすると、ものすごく疲れる。父も同じだったんだろうか。だとすると、それには多少同情できる。毎日あの狂気と向かい合っていると、正気を保てるか自信がない。使いの男はそうはならないのだろうか。いや、彼ももう狂っているのかもしれない。
疲れた。もう部屋で眠ってしまいたい。
けれど、今夜は塔へ行かなければならない。
クラリッサ様の企みに気づいた父は、癒やしを求めるはずだ。オルガ様を抱きたいはずだ。オルガ様の不在が判明するのは間違いない。
オルガ様がいなくなっていることを知った父がどんな顔をするのか、見てみたい。何しろ、披露宴で父の姿は見られなかったのだから。
絶望する顔を見て、笑ってやろうじゃないか。そうして、逆上してくるようなことがあれば、階段から突き飛ばして――そんなことを考える。僕は意外と非情な人間らしい。
父は王城から塔に通じる地下通路を使ってやって来る。いつも供の者は連れていない。今夜もそうだろう。
塔にはまだ来ていないことを確認したあと、物陰に隠れて父が地下通路の鍵を開けるのを待つ。
星降祭りの最終日、酔った人々は歌い踊る。今日までの宴を誰もが楽しんでいるのだ。その声や音は未だによく聞こえる。
しかし、宴は終わる。楽隊の音楽が途絶え、人々の声が少し抑えられた真夜中、カンテラを持った父がやって来た。
父の表情は見えない。憔悴しているのか、笑っているのか、窺い知ることはできない。
父が塔の上を目指す。僕は足音を立てないようにしてそれを追いかける。
「オルガ」
最上階、父はカンテラを壁にかけたまま、部屋に入ることなく僕が使っていた椅子に腰掛けている。なぜ入室しないのか、わからない。僕はその様子を何段か下からこっそり窺う。
オルガ様のベッドには、膨らみがある。あれは食事の際に床に敷いていた毛布だ。オルガ様は今頃、どこかの宿場町で休んでいるか、馬車に揺られているだろう。
無事であってほしい。聖教会やこの男に捕らえられることなく、生き延びてほしい。
「寝ているのか、オルガ」
静かな声だ。オルガ様のベッドに向かい、父が話しかけている。オルガ様はそこにはいないというのに。
「……私は、何を間違えた? どこで間違った?」
最初からだ。
クラリッサ様と愛のない結婚をしたとき。母を抱いたとき。オルガ様をここに閉じ込めたとき。すべて、間違いだ。まだ、それがわからないのか?
「……私はいつかお前の故郷へ行ってみたいと思っていた。しかし、もう、それも叶わない。いずれ国王の親となる以上、私はここから出られそうにない」
それはクラリッサ様の企ての一部だ。父に自由を与えないための復讐。そして、落胤たる僕を見張るための計画。
「私はどうすれば良かったのだ? 王城という鳥籠の中で愛を知らぬまま朽ち果てるのを待てば良かったのか? ……いや、それが王族の務めであった……そうであった。私は、鳥籠の中で生きねばならぬ。私は愛を欲してはならなかったのだ」
そうだ。それが、間違いだ。
哀れな男だ。家族を――クラリッサ様やドミニク様を愛することができれば良かったのに。なぜ、そうしなかったのか。不思議で仕方ない。
「私は自由なお前が羨ましかったのかもしれん。だから、閉じ込めて、愛を乞いたかったのかもしれん。なぁ、オルガ。私を愛してはくれまいか」
惨めな男だ。愛してはくれない女に愛を乞う。なんて滑稽な姿だろう。
しかし、笑うことができない。同情なんてできないはずなのに。嘲ってやりたいはずなのに。
「いや、愛してくれるはずもないか……私はお前の自由を奪い、純潔を散らし、体に消えることのない傷をつけた。こんな男を、愛してくれ、なんて」
そうだ、都合が良すぎる。オルガ様の体も心も傷つけたくせに、愛してほしいだなんて、都合が良すぎる。馬鹿じゃないのか。いや、馬鹿なんだろうな。だから、クラリッサ様の狂気に気づかなかったんだろう。
どこまでも愚かな男。これが僕の父親か。
「オルガ、愛している」
父はうなだれたまま、そう零す。届くことのない愛を呟く。
「私を許してくれ」
涙を流しながら、誰もいない空間に向かって許しを乞う。
これが僕の父親なのか。情けなくて見ていられない。僕の中でどす黒く渦巻いていた感情が、一気に凪いでいく。そう、一気に――。
「オルガ様はもうそこにはいません」
思わず、立ち上がっていた。父の視線がさまよい、僕を見つける。涙に濡れる頬が光る。「なぜ」と唇が動く。
「オルガ様は、もう王都にはいません。僕が逃しました」
父は無言で、しかし慌てた様子で、扉を解錠する。そして、フラフラとした足取りでベッドに近づき、「嘘だ」とその場に崩れた。彼の目には、誰もいないベッドが映っているはずだ。
「……そうか、逃げたのか。それが、幸せなのか……」
力なくそう零し、肩を震わせる。泣いているのだろう。
「私が憎いか? だから、オルガを奪ったのか? オルガは、オルガはどこにいる? 私の愛しいオルガはどこへ行った? あぁ、オルガ……どこへ……!」
あぁ、憎いとも。恨んでいるとも。オルガ様と同じように左足を不自由にしてやりたいくらいに。殺してやりたいと思ったくらいに。
でも、父のことが憎いからオルガ様を奪ったわけじゃない。オルガ様を愛しているからこそ、逃したんだ。自由を取り戻させたんだ。
「私のオルガ……どこへ……」
「オルガ様はあなたのものではありません。もちろん、僕のものでもない。まだわかりませんか? オルガ様は、自分の意志で自由を取り戻したんです」
「オルガ……オルガは……どこだ……」
父はベッドの上に乗り、毛布を抱きしめる。毛布に頬ずりをし、オルガ様の名を力なく呼ぶ。何度も、何度も、何度も。
……狂ったか。
愛を知らず、愛を欲した男は、それが手に入れられなかった。
おそらく、クラリッサ様はこれさえも想定済みなのだろう。でなければ、オルガ様を逃している最中に僕の邪魔をしたはずだ。しかし、オルガ様は無事に王都から逃げることができた。所在は明らかになっているようだけど、僕が裏切らない限りは、オルガ様は無事のはずだ。
「オルガ……愛している……オルガ」
うわ言のようにオルガ様の名前を呼ぶ父を一瞥し、僕は階段を降りる。
見ていられなかった。
母を失ったときも、父はこんなふうだったのだろうか。母の名を呼び、ベッドで泣き続けたのだろうか。……わからない。知りたくもない。
僕は、父をどうしたかったのだろう。
確かに、憎い気持ちや恨む気持ちはあった。母やオルガ様のことを考えると、殺したくて殺したくて仕方なかった。父のやったことはそれくらいの罪になるものだ、と息巻いていた。
しかし、僕は結局、武器を持たずに塔へ来た。階段の最上段から父を突き落とすこともしなかった。
馬鹿らしい。あれほど憎んだのに、あれほど殺したいと願ったのに、結局、あのクラリッサ様と話したことにより、父への殺意が萎えてしまったのだ。
萎えるどころか、さっきの父に対しては、哀れだと同情する気持ちさえ浮かんできた。なんて愚かで、惨めな男。父には、ただ、それだけの感情しか持ち合わせていない。
そう、それだけになってしまった。そんな父を憎み、殺したところで……何になると言うんだ。哀れな男が死ぬ様を見たところで……嬉しいと思えるわけがない。
何より、オルガ様がそんなことを望むわけ、ないじゃないか。それだけはわかる。あの人は、優しすぎるから。強いから。
オルガ様ならきっと、あんな父のことさえも許すはずだ。きっと、そうだ。
「……終わりましたか」
塔を降りると、男が立っていた。いつからそこにいたのか。クラリッサ様の使いの者、だ。
「セドリック王子は、最上階にいます」
「わかりました。こちらで引き取りましょう」
引き取る……モノのような言われ方だな。仮にも王子であるというのに。
クラリッサ様が父のことをどう思っていたのか、よくわかる。もちろん、父の自業自得だ。
「父は、どうなりますか?」
「クラリッサ様は寛大なお方ですから、王子はより良い環境で暮らしていくようになるかと」
寛大なお方、ね。僕を殺さなかったのも、オルガ様の脱走を見逃したのも、寛大な措置だったわけか。
僕には、そうは思えないけど。
「オルガ様は?」
「今のところ凶報は届いておりません」
「僕はどうなりますか?」
「クラリッサ様の仰る通りになされば、悪いようにはなりません。追って沙汰があるでしょう」
わかりました、と呟いて僕は塔を後にする。
もう、ここに来ることはないだろう。暗闇の中、不気味に浮かび上がる、強固な檻を見上げる。
捕らわれていたオルガ様はもういない。
愛に囚われた父がどうなるのか、わからない。
僕はいつ、ここから抜け出せるのだろう。抜け出すことができるのか、どうか。それさえもわからない。
ただ、いつか、僕はオルガ様のもとへ戻るのだ。何年かかっても、必ず。愛しい彼女のもとへ。
生きる目的がある。目標がある。だからこそ、何があっても耐えられる。
それだけは、確かなのだ。
後日、総主教の交代が発表された。世話係の子どもたちを自らの慰み物にしていたことが明るみになったためだ。僕が仕込んだ媚薬を、誰かがうまく処理した結果らしい。……誰か、が。詳しくは知らないほうが身のためだ。
そして、僕は、クラリッサ様の後ろ盾を得て、騎士養成学校への入学を許可された。卒業試験後には、王立騎士団へ入団できる可能性が非常に高い。いや、クラリッサ様の後ろ盾がある限り、入団は容易なことだろう。
オルガ様に、会いたい。けれど、会うことはできない。
クラリッサ様の機嫌を伺い続ける窮屈な人生になるが、それでもいい。
僕が彼女を裏切らない限り、オルガ様の生が確保されるのだから。愛しい人が自由に生きられるのだから、簡単なことだ。
いつか。
その日を、僕はずっと、夢見ている。
ずっと。ずっと。
20
あなたにおすすめの小説
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
〈完結〉【書籍化・取り下げ予定】「他に愛するひとがいる」と言った旦那様が溺愛してくるのですが、そういうのは不要です
ごろごろみかん。
恋愛
「私には、他に愛するひとがいます」
「では、契約結婚といたしましょう」
そうして今の夫と結婚したシドローネ。
夫は、シドローネより四つも年下の若き騎士だ。
彼には愛するひとがいる。
それを理解した上で政略結婚を結んだはずだったのだが、だんだん夫の様子が変わり始めて……?
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております
紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。
二年後にはリリスと交代しなければならない。
そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。
普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる