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第三夜

067.聖女とリヤーフ(一)

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 愛し、愛されたい人生だった。
 けれど、そんな資格はないと思っている。

 だから、誰かとようやく気持ちを通じ合わせたり、誰かからたっぷり愛の言葉をもらったり、誰かにいっぱいキスをしてもらったり、誰かにたくさん体に触れてもらったり――そんな、幸せな、長い長い夢を見た。
 今だって、誰かがわたしの髪を撫でてくれている。愛しそうにわたしの名前を呼びながら。

「……ズミ」

 あぁ、堪らなく幸せな時間だ。目を覚ましたくない。これは夢だとわかっている。目覚めると悲しい現実が待っているんだもの。まだ夢の中にいたい。幸せな時間の中でたゆたっていたい。

「……イズミ」

 起こさないで。目覚めさせないで。わたしは優しい夢の中で過ごしていたい。目を覚ましたくない。

「起きろ、イズミ」

 嫌だ。起きたくない。眠っていたい。

「こんなことでお前の目が覚めるなら、何度だって呼んでやるから……起きろ、イズミ。起きてくれ」

 ……だれ? あなた、誰?

「頼むから、起きてくれ、イズミ。俺を一人にするな。お前を失ったら、俺は……俺は、どうやって生きて行けばいい? お前は、与えるだけ与えて、何も受け取らずに消えるのか? そんなこと、絶対に許さない」

 あぁ……あなたは本当に泣き虫ね。最初に会ったときも、そうやって泣いてた。

「イズミ、起きろ。お前にはまだ、言いたいことがたくさんあるんだ。一つも聞かずに、俺の前からいなくなるんじゃない。起きろ。起きてくれ、イズミ」

 熱い唇が触れる。優しいキス。眠り姫は王子様のキスで目を覚ますんだったかな? そっか、あなた、そういえば王子様だったね。忘れていたけど。
 じゃあ、目を覚ますしかないじゃない。わたしはお姫様なんかじゃないけど、王子様がキスしてくれたんだもの。

「りや、ふ?」
「……イズミ? イズミ!?」

 ランプに照らされた、濡れた森のような瞳が心配そうにわたしを覗き込んでいる。褐色の肌に、幾筋もの涙の跡があったけれど、彼はすぐにそれを拭い取ってしまう。

「痛いところはないか? 水を飲むか? お腹は空いていないか?」

 そんな矢継ぎ早に質問されても、答えられないよ。痛いところはないけど、お腹は空いてる。水も飲みたい。

「お前、四日も眠っていたんだぞ。バカか! そんなに眠るやつがあるか! 俺は、一生……目が覚めないと、思っ」

 怒ったり泣いたり、忙しい人。すごく心配してくれていたんだな。

「リヤーフ、ありがと」
「ん。医者と女官を呼んでくる。ランプが灯っている間に診せないと」
「待っ」

 ベッドから出ていこうとしたリヤーフの裾を掴む。けれど、うまく力が入らなくて、ずるりと手が滑る。
 ……あれ、何か、大事なことを忘れているような。何だろう? リヤーフ以外にも、こうして求めたような気がするんだけど……。

「何だ? やっぱり痛むところがあるのか?」

 力なく落ちた手に、夫は気づいてくれた。手を取り、リヤーフは心配そうにわたしを見つめる。周りの景色を確認して、わたしは笑う。

「来て、くれたの?」
「当たり前だ。お前が目を覚まさないと聞いて、一人でのんびり過ごしていられるものか」

 初めて、わたしの部屋に来てくれた。聞き間違いじゃなければ、初めて、わたしの名前を呼んでくれた。あぁ、本当に、嬉しい。

「リヤーフ……あの」
「何だ、イズミ」
「……ふふ。名前、呼んでくれてありがと」

 リヤーフは一瞬驚いたような顔をして、けれど、少し顔を赤らめながらもしっかりとわたしを見つめて笑ってくれる。

「こんなことで喜ぶな。妻の名前を夫が呼ぶのは当然だ」
「わたしを、失いたくない?」
「あ、当たり前だ。俺は、お前が思っている以上に、イズミのことを……大事に、思っている」

 リヤーフが素直だ。めっちゃ可愛い。どうしたんだろう。どこかで頭でも打ったのかな。打ち所が悪くてこんなに素直になってくれたなら、何度でも頭をぶつけてもらって構わないよ。

「リヤーフ、キスして」

 唇が触れる。優しく下唇を食んだあと、リヤーフは頬にキスをして、そっと耳元で囁く。

「イズミ、好きだ」

 わ、わ、わ、鳥肌が、立った。
 それ、反則。めっちゃきゅんってしちゃったじゃん。めっちゃ……嬉しいじゃん。

「リヤーフ、好き。わたしも好き」
「……ああ」

 手を伸ばそうとしてもちょっと腕が動かない。けれど、リヤーフが先にわたしを抱きしめてくれる。あぁ、そう、こうやって抱き合いたかったんだ。心も体も暖かくなる。

「リヤーフ、抱いて」
「バカか。こんな状態のお前を抱くわけにはいかないだろ。いつもみたいに元気になったら……抱いてやる」

 その言葉に、わたしは幸せな気分になる。そっか、抱いてくれるんだ。そっか。そっかぁ……。

「それは、抱き合うっていう意味じゃなくて?」
「当たり前だ。お前、俺がどれだけ我慢していると思っているんだ。愛しい妻を目の前にして、どれだけ欲を我慢していると」

 リヤーフは目を逸らさない。今までだったら照れ隠しで違う方向を見ていたのに、今はしっかりとわたしを見つめてくれている。

「好きだ、イズミ。どうしようもなく、お前が好きだ」

 あぁ、ダメだ、リヤーフの顔が涙で滲んでしまう。ちゃんと見たいのに。ちゃんと聞きたいのに。

「お前を失うかもしれないと思ったとき、俺は、怖くて怖くて堪らなかった。聖女はまた喚び出せばいいとバラーは言ったが、誰もお前の代わりにはならん。お前は、お前一人だ。言っている意味はわかるな?」

 リヤーフの問いに、わたしはうんうんと頷く。

「俺は、お前がいい。イズミがいい。俺は一生、イズミだけを愛すると誓う」

 夫が、額にキスをしてくれる。慈しむように、優しく。

「お前が聖女じゃなくなったとしても、俺は生涯変わりなくお前を愛する。わかるな? 聖女だからではない。俺の人生の中に、お前が必要なんだ、イズミ」

 それは、ずっとずっと望んでいた言葉だ。ずっとずっと求めていた心だ。

「リヤーフ……わたし、わたしね」
「ああ」
「わたしも、好きになっていい? あなたを、愛しても、いい?」

 リヤーフは「当たり前だ」と笑う。屈託なく。無垢な少年のように。

「俺たちは夫婦だ。愛し合うのが当然だろう」
「リ、リヤーフぅ」

 力が全然入らないけれど、一生懸命夫の体を抱きしめる。好きだって気持ちがちゃんと伝わっているといいんだけど。

「もう泣くな。お前が何を恐れているのか、ようやくわかった。泣くな、イズミ」

 リヤーフは何度も何度もキスをして、途中で水を飲ませてくれて、以前の言動からは想像できないほどたっぷりと愛の言葉を囁いてくれたあと、「人を呼んでくる」と寝室を出ていった。
 残されたわたしは、その一つ一つの愛の言葉を思い出しては顔を真っ赤にするしかなかった。

 愛し、愛されたい人生だった。
 愛し、愛される人生を、わたしはようやく、手に入れることができたのだ――と、思う。これが夢の続きでなければ。
 ……夢じゃないといいなぁ。


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