冒険の書 ~始の書~

星宮歌

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第一章 冒険の始まり

ギワク

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 正直、あまりにも非現実的な出来事に、俺はそもそも怪我をしたこと自体が夢か何かだったのではないかと疑った。しかし、あのスライムと戦ったときに外した足甲はリュックの中にある。ついでに言えば、あの『濁った水』もある。

 と、そこで、俺の意識は急速に『濁った水』へと集約される。


『濁った水』


 それは、飲み水としてはかなり不適切なものだ。


 水……。


 しかし、喉は渇く。昨日……いや、一昨日か? とにかく、それからずっと飲まず食わずだ。


 み、ず…。


 危険だと、ダメだと、俺の頭は懸命に警鐘を鳴らす。


 のみ、たい……。


 しかし、欲望が、抑えられない。


 水……。


 待てと、それはスライムの体液を含んでいるかもしれないと、俺の思考は『濁った水』へと手を伸ばすことにストップをかける。が、それでも、目の前にある水の魔力には勝てない。視界が急速に狭まり、意識が混濁し始める。


 あぁ……。あぁぁ……。


 そして……いつの間にか、ゴクリと、喉が鳴っていた。



 ここが、この事態が、夢ならば、幻覚ならば、白昼夢ならば……もしかしたら、まだ、俺にはそんな意識があったのかもしれない。俺は、あれだけ忌避していたはずの『濁った水』を飲んだ。

 渇いた喉に、その水は滑らかに落ちていく。潤う喉と、しばしの充足感。


「……はっ」


 いつの間にかきれいに飲み干したその『濁った水』は、今まで飲んだどんな水よりも美味しく感じられ、どんなものよりも恐ろしく感じられた。


「あっ、えっ?」


 我に返った俺は、靄がかっていた思考が一気に冴え渡るのを感じ、ゾッと身を震わせる。


 飲んだ……?


 冒険の書には、何やら、スライムの体液が入っているかのような記述があった。スライムの体液にさらされた腕がどうなったのかなんて、言うまでもない。つい先程まで、俺は、そのせいで苦しんでいたはずなのだから……。


 な、んで……?


 自分の行動がここまで理解できないときが来るなど、思いもしなかった。


 何で、飲んだ?


 思い返してみても分からない。どうしても、俺は、俺の行動を理解できなかった。 友人と馬鹿をやって、後から思い出して、『なぜあんなことを?』と後悔するものとは全く違う。
 自慢できることでも何でもないが、俺は臆病者だ。怖がりだ。チキンと蔑まれることだってある。だから……そんな俺だからこそ、断言できる。


 今、俺が水を飲んだのは、異常だ。


 ひとしきり震えた後、俺は体に異常がないかの確認を怠っていたことに気づき、慌てて確認する。

 しかし、異常らしい異常は感じられない。喉が焼けつくとか、体が熱いだとか、そういったことは一切ない。自分で分かる範囲では、何もない。


 大丈夫、なのか?


 スライムの体液が入っているなどというおぞましい記述に恐怖していたものの、異常はない。ということは、『濁った水』は飲んでも大丈夫ということだ。

 ただ、だからといって、俺の行動には説明がつかない。『濁った水』を飲んだ瞬間は、どこかぼんやりとした意識で、自我が失われていたように思える。それは、どう考えても異常事態だ。


 冒険の書に、何か、書いてないか?


 考えても説明のつかない状況。それは、今までのことを思い返せば、ほぼ確実に冒険の書に記されている。だから、俺はまたしても、冒険の書を頼る。


『冒険の書

三日目

第一フロア 地帯区分A


柿村啓は薬草(小)を使った

柿村啓の飢餓状態を確認

強制摂取を敢行

完了』


 二日目の更新に関しては、とりあえず、今はいい。そこで見た文章に、俺は、今の出来事の理由を求める。
 『飢餓状態』そして『強制摂取を敢行』。明らかに原因であるだろうことが、そこには記載されていた。つまり、それは、俺を誘拐した相手が、俺の体に何らかの仕込みを行ったことを意味している。


「……催眠、術?」


 テレビの中でしか見たことのない、その言葉。どことなく馬鹿らしいと思って、本気にしていなかったが、もしも、そうであるならば、いくらか説明はつきそうだ。

 俺は、誰かに誘拐されて、催眠術をかけられた。俺は、誰かがこの冒険の書に文章を書いている間、意識がない。俺は、いないはずのモンスターと戦い、大怪我を負ったように錯覚させられた。

 そう、そう考えれば、全て、説明がつく。もちろん、催眠術がどんなものなのかなんてよく分からないが、その可能性が一番高いように思える。


 あぁ、いや、もしかしたら、俺は誘拐されてすらいないのかもしれない。もしかしたら、覚えていないだけで、催眠術をかけた誰かに協力を申し出て、自ら実験台になったかもしれないし、本当に唐突に催眠術をかけられて、今の状況があるのかもしれない。


 そう、そうだ。きっと、今の、この不可思議な事態は、そういうことなんだ。


 一通り、自分を納得させるための説明を作り上げた俺は、ようやく安堵する。何もかもが分からない状況より、何か、仮説でもいいから立てられる方が安心だ。こんな状況でも安心感を得られるのは、きっと人間に備わっている適応能力のおかげだろう。


 そう、ぼんやりと考えながら、それでもまだ、この危機的状況を脱するための手がかりが足りなくて、先程は目を通さなかった前日の記述があるであろうページを開く。


『冒険の書

二日目

第一フロア 地帯区分A

一日経過したため、アイテム図鑑の掲載開始


警告

一日モンスターとの戦闘、および食糧の摂取行動が見られなかったため、後三日で処分

逃れたくば、モンスターとの戦闘、もしくは、食糧の摂取を推奨


第一フロア 地帯区分B

柿村啓はB地帯へ進行

これより危険地帯


スライムが現れた

スライムは分裂した

スライムを斬った

スライムの攻撃

柿村啓はダメージを負った

スライムを斬った

スライムを斬った

スライムの攻撃

柿村啓は攻撃をかわした

スライムを斬った

スライムを斬った

――――――

スライムを倒した

ドロップアイテム 濁った水

警告解除

柿村啓は足甲を外した

スライムの攻撃

柿村啓は大ダメージを負った

スライムを斬った

スライムは即死ダメージを負った

スライムを倒した

ドロップアイテム 薬草(小)


第一フロア 地帯区分A

柿村啓はA地帯へ退却

これより安全地帯』


 そう、書かれた文章を読み、俺は知らず知らずの内に腕を擦る。文章中では『大ダメージを負った』としか書かれていないが、あの痛みは本物だった。今もまだ、あの肉が焼けて、溶かされる嫌な臭いが残っている気がして、身を固くする。

 たとえ、催眠術で起きた痛みだったとしても、俺は、度が過ぎればショック死してしまうだろうという確信があった。一刻も早く、この催眠術から脱け出さなくてはならない。

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『催眠術かぁ……ぶっ飛んだなぁ』なんてことは言わないであげてくださいな。

柿村君、必死ですのでっ。

精神状態が常にピンチを迎えて、大変ですのでっ。

と、いうか、この現状に置かれたら、きっと、洗脳だとか催眠術だとかっていう物騒な言葉が出てきてもおかしくない……はずです。

私も、ちゃんと考えて書いていますので、大丈夫……ですよね?

まぁ、ここは大丈夫ということにして、これで更に柿村君の緊張感を増やせたことと思います。

それでは、次回もお楽しみにー。
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